見出し画像

「竹取物語(かぐや姫)」が深すぎて頭が「パカーン」と開いてしまった話。

前回の記事で、ハムカツさんの創作企画に参加させてもらいましたが、

その時に改めて「竹取物語」について調べてみたら、子供の頃のイメージと、全然違う「この世界の仕組み、自我・命の仕組み」を描いた物語だ!と感じたので、それを「NLA流」に解釈してみたいと思います。

「かぐや姫」はあなたの「命」の象徴です。

◆「竹取物語」あらすじ


『竹取物語』は、竹の中から現れた不思議な少女・かぐや姫の物語です。翁夫婦に育てられた彼女は、世にも美しい女性へと成長し、多くの貴族や帝から求婚されます。

しかし、かぐや姫は誰のものにもならず、やがて自分が月の都の者であることを明かします。十五夜の夜、月からの使者が迎えに来ると、地上の人々がどれだけ引き止めても、彼女は天の羽衣をまとい、月へ帰っていきます。

最後に帝は、かぐや姫から不死の薬を受け取りますが、彼女のいない世界で永遠に生きても意味がないと考え、その薬を天に近い山で燃やします。

◆「かぐや姫」は「命」の象徴

かぐや姫は竹の中の空洞から生まれます。
つまり「空(くう)」から光が生み出される。

これは、私たちのそもそもの「命(OS)」としての象徴。
子供の頃のような純粋無垢な命。ただ存在するだけで喜びを与え、喜びを感じる。

それに対して、かぐや姫に求婚する男性たちは「自我(OS)」の象徴。

ただ純粋な喜びである「命(かぐや姫)」を「権力」「肩書」「力」で「所有」しようとします。

しかしその男性たちに対して、かぐや姫は「無理難題」を出します。
「仏の御石の鉢」「蓬莱の玉の枝」「火鼠の皮衣」
「龍の首の珠」「燕の子安貝」

それらは、普通では「入手不可能なもの」ばかり。
普通に読めば、かぐや姫は「無理難題で男たちを煙に巻くしたたかな女性」のようにも見えますが、

「命(光・純粋さ)」を「欲望」から所有しようとすれば、「幻想」を追うことになる。
常に「移り変わり、流れる」ことが本質である「命」を固定して所有することはできない。

また、「自我」は何か素晴らしいもの(かぐや姫)を所有することで、「自分の価値が上がる」「自分が満たされる」「幸せになれる」と思ってしまいがちですが、それらが自分を本当に満たしてくれることはない。

「移り変わる」ものを無理矢理固定して所有しても、ずっとおなじ「愛」「幸せ」「満足感」があり続けることはあり得ない。

◆かぐや姫はこの世に馴染めない存在でもある

そしてかぐや姫はそもそもが月の住人であり、
この地上の世界で愛されるが、必ず別れなければいけない。
この世界の「自我」の愛、競争にも馴染めない。

「この世界のルールに完全には乗れない」
「みんなが欲しがるものを、自分は本気では欲しがれない」
「愛はあるけれど、どこか居場所が違う気がする」

かぐや姫は誰のものにもなりません。最後には、月へ帰っていきます。
そして地上での記憶をなくしていくとも書かれています。

この場面を地上の人間目線で見ると、とても寂しい。
育ての親を残していく。愛した人たちを置いていく。
もっと未練があってもいいはずだ。

でも、もしかするとこれは、この世の側から見ているからそう感じるのかもしれません。

臨死体験をした人の話の中には、肉体を離れた瞬間、とてつもない解放感や安心感に包まれ、「私はこの世に何の未練もないし、大丈夫だから悲しまないで。みんな自分の人生を楽しんで!」と家族に伝えたくなった、という話もあります。

「覚者(悟りを開いた人)」はよく言います。
「この世界は映画のようなもの」「この現実は夢のようなもの」
「この世界は人間ゲームのようなもの」

もし、「目覚める(死を迎える)」瞬間に、「ああ、なんだ夢だったのか」
と気づいたなら、
「ああ、面白い夢だったな」としばらくは切なさを感じるかもしれませんが、すぐに忘れてしまう。

この「現実」もそういうものなのかもしれません。

この世界に肉体として存在しながら、その意識は別の次元でこの世界を「夢見ている」。

だからこそ、この「現実(夢)」の一瞬一瞬の儚さ、美しさ、尊さが際立つ。
お互いに所有しあわず、お互いが自分の命を生きる。
時々は同じ歩幅で一緒に歩ける相手が現れる。

でも、それらもすべて、いつか移り変わり、川のように流れ去っていく。

限りあるこの「夢の時間」をもっと、この瞬間をもっと味わっていたい。
そして、夢が覚めた瞬間こう思うかもしれません。
「大丈夫。全部、ちゃんと愛だったよ」と。



いいなと思ったら応援しよう!