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40歳まで美術館経験ゼロのわたしが、アートに惹きこまれたワケ

今回は、連続投稿2ヶ月(60日目)を記念して、満を持して「なぜアートなのか」「アートの何がいいのか」について、語っていきたいと思います。

ちなみに、今回のテーマは、「リ・キュレーター」関連の記事や、アートレポートを書いているわたしのモヤモヤを指摘いただいたことで、改めて向き合おうと思った内容です。
*ちなみに、指摘いただいたエピソードは、別のnoteでガッツリ書いていきますので、お楽しみに(今回は連続投稿2ヶ月記念だったので、こちらを優先しました)。

さて、いきなりですが、
「アートとか教養って、カッコつけようとしているだけで、それでスキルや年収は上がったりしないんだよ、ご飯は食べれんわ!
って思っている方いませんか?

はい、40歳になるまでのわたしは、バリバリそっち派でした。
小説などは読みますが、基本はビジネス書。動画も、ビジネスマインドのYouTubeばかりを見て、とにかくビジネス思考ゴリゴリでした。

もちろん、色々なものを「ステキだな」と思う感性はどこかにありましたが、
よくわからないし、予備知識を勉強するのも大変そう
という気持ちが先行していました。
*なんなら、「休日は美術館に行く」という方に、何がいいのか質問攻めしていたくらいです。

そんなわたしが、「アート関連で仕事がしたい」「もっとアートを身近に感じてもらいたい」と思うようになるまで、40歳から41歳になる1年間に何があったのかをシェアできればと思います。


1.「わかる」ってたのしい!

最初のきっかけは、中田敦彦さんの「YouTube大学」でした。
よくある学校の授業のように、ただ出来事の名前と年号だけを覚えるわけではなく、その背景や面白いところをダイジェストで、それでも、しっかりと解説してくれるスタイルは、まさに「学ぶって楽しい!」を実践されていました。

世界史、音楽、宗教、日本史、古事記などなど。それらが、大枠を捉えて、かつ、横のつながりで絡み合っていることがわかったとき、純粋なたのしさで、アドレナリンがドバドバ出ているのを自分で感じられるくらいの興奮でした!

勉強はできるほうではありましたが、「勉強が好き」というよりも、算数でわからない問題が解けたときの感覚は、パズルが解けたときと同じように、「あそび」のワクワクがありました。
だからこそ、暗記する「勉強」は好きではありませんでしたが、数学の証明、物理の考え方、そして、何より国語と道徳が大好きでした。

そんななかで、アートや教養、リベラルアーツについて、そうしたことを楽しそうに語る方々や、知識豊富な方にどこか嫉妬心やうらやましさがあり、先に書いたような”斜に構えて”見てしまっていたのだっと思います。

わたしも、なかまに入れてよ

わたしのインナーチャイルド(内なる自分の叫び)は、「わたしも、なかまに入れてよ」と言っていたんですね。

そして、アートも同様に、一つ一つの作品や作家さんにフォーカスするのも凄く好きなのですが、それ以上に、「YouTube大学」によって、大枠を捉えることができたことが何より大きいです。
*中田さん自身もこの考え方を全面に推していただいていることもあり、ドハマりし、とにかく、ジャンルごとに過去動画を遡り、毎日食らいつくように見ていました。

美術史に、いや、歴史に衝撃を与えた芸術家や偉人たちは、間違いなく自分の思い描く表現を追いかけ、自分と、そして、周りの常識や反対・逆境にとにかく戦ってきた人たちであると。

「理想を求めて」というよりは、自身の信念にまっすぐに立ち向かっていった姿勢に心打たれました。

具体的には、芸術家に限らず、以下のような姿です。
・当時の絶対的な権力を持っていたローマカトリックのやり方に疑念を抱き、印刷技術を武器に翻訳された聖書を広めたルター
・自身の正義に照らし合わせ、「正しき人」であろうとした『レ・ミゼラブル』の主役ジャンバルジャン
・伝統的な技法構図、サロン主義に立ち向かった「印象派」

わたしが心を激しく揺さぶれたもの

こうした動き、向き合い方に「頭をブン殴られた衝撃」を受け、なぜだかわからないのですが、涙があふれる日々を過ごしていました。

2.”知らない”から、モヤモヤする

未来に希望が持てないのは?

とは言え、それでは、「心が動かされた」だけで終わってしまいます。
わたしが夢中になったのは、今現在の自分が抱えるモヤモヤのヒント、そして、ときには答えそのものが、そこに詰まっているからです。

アートと少し離れてしますが、例えば、天皇制の話。古事記の大枠を知るだけでも、なぜ天皇制を「象徴」に変えられたのか、少しずつその思惑が見えてきます。背景がわからないと、「人間宣言」とか、日本の「象徴」と言われても「はぁ」という形ですし、それが女性天皇、男系天皇の議論になっても、「自分には関係ない」とどんどん関心がなくなっていきますよね。

また、これもアートは違いますが、最近そこまで大きく取り上げられなくなった「台湾有事」。この件、本当に一時的に緊張状態が高まり、今はもう大丈夫なのでしょうか。台湾の成り立ち、なぜ親日なのか、オリンピックではなぜ「Chinese Taipei」という地域の名前で呼ばれているのか。日本は国として認めていないが、同じスタンスの国はどれだけあるのかなどなど。

もちろん、それらは自分たちの生活に、今日のご飯や収入には直接影響がない、遠い「政治」の話なのかもしれません。

しかし、本当にそうなのでしょうか。
日本はオワコンなのでしょうか。それとも、まだ希望はあるのでしょうか。
そうした問題は、一面的な、かつ、噂程度の話ではなく、ちゃんと自分で色々な情報を集めていって、自分なりの判断軸を持って、自分のスタンスを決めていくものなのではないでしょうか。

でっかい「Yahoo!知恵袋」に聞け

アートに話を戻すと、わたし自身が自分の表現でモヤモヤしていることや、既存の発想を根本的に変えてしまうようなことは、過去に何度もなされてきました。
だからこそ、自分と同じようなモヤモヤに立ち向かってきた偉大な先人たちや、自分よりはるかに卓越した技術でそれを実現した天才たちに、ただ尊敬しかありません。

「春はあけぼの」の『枕草子』は、西暦で言うと1,000年前後(諸説あります)の作品です。1,000年以上前の感性で、既に四季への感性は研ぎ澄まされていました。

アテネが議会民主主義を取りいれたのは、なんと紀元前6世紀頃の話です。よく言われる「小さな政府」、都市国家はこれだけ遥か昔に試行錯誤されているのも衝撃です。

だから、何なのか

モヤモヤとは、自身の思い描く姿への試行錯誤です。
政治に不満を持ったとき、「じゃあ、どうすればいいか考える」と、自分が考える案って過去にあったのかなとか、前はどうだったんだろうと、歴史に学ぶことで大きなヒントが得られます。

先の台湾有事に興味があるのも、国籍だけで人格が語られることに、心が抗議の声を挙げているからに他なりません。

確かに、日本のなかで批判的な注目を浴びるような中国の方は、個人的にも好意的な目を向けることは難しいと思います。だからと言って、日本の10倍以上の人口がある国、さらに、民族も多岐に渡る国に向かって「中国人は」というのはかなり無理がないでしょうか。

また、日本人も高度経済成長期で一気に経済的に豊かさを手にしたとき、海外に行った際の反応のなかには、同じようなものもあるそうです。だからといって、温かい目で見れるかどうかはまた別問題だとは思いますが、こうしたことも「ボヤっとした解像度」が引き起こしていることだと、わたしは思います。

「Google先生に聞けばいい」「Yahoo!知恵袋で探してみな」「Chat GPTで出してもらえば」
自分が疑問に思ったことは、大抵他の誰かも疑問に思っていることが多いです。

もちろん、日常の事やゲームの攻略などではその分野は非常にお世話になっています。
しかし、人生や自分という大きなテーマでは、自己啓発やビジネス書も多いに助けられている一方、もっと長年に渡って紡がれている「ホンモノ」のほうが、わたしが求めるものがあると知りました。
あるいは、大きな衝撃を受けたと言い換えてもいいかもしれません。

それは読書も同様で、わたしは、「そのとき出逢うべくして、その本を手にする」という考え方です。
最近読んだ本で言うと、『アルジャーノンに花束を』で、自身の老後について真剣に考えるようになり、他者との接し方が変わりました。
『西の魔女が死んだ』で、センスオブワンダーの原体験とも言える読書体験をしました。

小説で得られるものとビジネス書で得られるものは違う。小説の素晴らしさもわかっていたはずなのに、ペースが徐々に落ちて行ったことに気づき、小説の読書も毎日ToDoに入れるようにしました。

3.まだ、「開いていない」だけ

急激にアートの知識や小説をたくさん読み、その度に大きな学びを得ていくのに充実を感じていました。
しかし、先述の『アルジャーノン』を読んでからは、少し考えが変わりました。

あれだけ「感じられたこと」が、もう本を読んでも頭に入ってこなくなるかもしれない。認知症になるかもしれない(『名探偵のままでいて』から連想したこと)。
そう考えたとき、ビジネス名著『七つの習慣』に出てくる、自分の葬式をイメージするという話がようやく腹落ちしてきました。

さらに言うと、わたしは、別なnoteにも書きましたが、「有象無象の大衆」というものをあまり好んでいません。あるいは、こういった教養の話は、一定の層にしか響かないとも思っています。

ですが、それで言うと、わたしも今までは、感性のアダプター(受容体)が「開いていない」側でした。
情報を受け取れる「人」にだけ情報が届けばいいと思っていたのですが、そうではなく、情報を受け取れる「とき」に届いてくれればいいと思い直しました。

例えば、わたしが読んだ茶道のビジネス書(茶道に興味を持たせてくれた本)に書いてありました。

わびさびとは…
・寂び:枯れた味わい。時間の経過や変化を趣がある、味があると思うこと。
・侘び:「寂び」を趣があると感じられる

出展の本は、また改めて紹介します

これもまた衝撃を受けました。

最近、「余裕があるね」とよく言われます。確かに、心の余裕がないと先ほどの「侘び寂び」を感じることは難しいかもしれません。
ですが、それは何となくやってきたことではなく、こうありたいと強く願って、そのときそのときで試行錯誤を続けてきたからだと思います。

それだけわたし自身が、自分の思うように生きる、自分軸でいきることに時間がかかったことと、それが実際にできるようになったのが、奇しくも、不惑と呼ばれる40歳のときでした。
いや、むしろ、それは奇しくもではなく、だからこそ「40歳=不惑」なのかもしれませんね。

とりとめもないnoteになってしまいましたが、わたしが伝えたいことは、
自分自身が、自分にOKを出して、自分軸の人生を生きていくために、
一定の人にとっては教養・アート・古典がキーになるかもしれないということでした。

特別なことは何も言っていませんが、もし、このメッセージが、「イマの自分にビビッと来た!」という方がいらっしゃったらうれしいです。
これからも、もっと広がるかもしれませんし、どこかで、本当に感性が発揮できなくなるかもしれません。

それでも、人生を噛み締めて、一杯味わって、イマを生きていくこと
あがきつづけることが人生だと思って、わたしは今日もホンモノに触れ、内省し、アウトプットを思考していきたいと思います。


今日のトップ画像も、TOMOさんのイラストです!
本当に多くの種類をみんフォトギャラリーに挙げられていて、TOMOさんの試行錯誤、その努力に頭が下がります。


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