老いや死をちゃんと考えたら、人との接し方が変わった『アルジャーノンに花束を[新版]』
今回は、既にフライングで何度かわたしのnoteに登場している『アルジャーノンに花束を[新版]』ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 ハヤカワ文庫について、書いていきたいと思います。
書店で何回か手に取ろうとしながら「今日はこっちにしよう」と、先延ばしを繰り返していたのですが、帯にある はるさんのポスト「読まないまま終わる人生があったと思うと怖いってぐらい凄かった。」が頭から離れずに、近いうちに必ず読むことになるなと確信していた本でした。
結論としては、noteのタイトルにあるように、人生観や他人との接し方に変化があるレベルの本になりました。自分にとって、大切な一冊となったこの本について、ネタバレなしで感想を書いていきます。
知識と感性は、右肩上がりで伸び続けるのか?

そう、そんなことは本来ありません。老化は誰にでも来るもの。しかし、どこか「体力よりは緩やかに衰えていくのだろう」とか、「自分は認知症になることはないだろう」とどこか、楽観的に考えていました。あるいは、見ないようにしていたと言い換えてもいいでしょう。
しかし、それは自分にも必ずやってきます。最悪、老いは緩やかに、もしくは、自分が気づかないような形であったとしても、死は必ず訪れます。
40→41歳でアートの重要性を全身で感じ、急速に知識を吸収し、本物に触れる機会を増やしているわたしも、本物に触れても何も感じなくなるときが来るのかもしれません。大好きな本を読んでも内容が頭に入らなくなることがあるのかもしれません。
それは少し前のわたしだったら「耐えらない」と、悲観的に、否定的になっていたと思います。ですが、今は少し違います。
それ自体はしょうがないこと。だから、”感じられる”今を大切に。もし、感じられなくなったとしても、そのとき感じられることを全身で感じればいい。そう思えるようになりました。
また、今回、読み終えて、自分の能力や自分の名声だけを求めるのも少し違うようになりました。いわゆる稲盛さんがおっしゃる「利他」の精神がようやく少し腹落ちに近づいた気がします。なぜならば、わたしは永遠の存在ではないからです。
▽40→41歳の変化をまとめたnote
なぜアートなのか、なぜ読書なのかのもう一つの解
あわせて、内省でも発見がありました。なぜ、予備知識を調べるのか。歴史や古典も参考にするのか。
それは、一人の表現者としての想いでした。
自分が思っていることと違うように解釈されたら、悲しいじゃないか。
確かに、作品である以上、「手を離れたらそれは読者のもの」という考え方も素晴らしいと思います。元々の意味が変化し、180度意味が変わってしまった言葉もあります(「役不足」とかそれですね)。
ただ、自分が残したものが曲解されて政治利用されたり、あらぬ言いがかりをつけられたり、それ自体もしょうがないことだとは思いますが、純粋に創り手・制作者目線で「無念だ」と勝手に思ってしまいました。
どうしても、「封じられた声」「内なる叫び」に想いを馳せてしまうようです。
*もちろん、自分に置き換えれば、それでも作品が残ってくれればいいとも思うかもしれませんが。
歴史上の有力者も、自分の存在が消えることからは逃れられませんでした。だからこそ、歴史に名を刻もうとしたり、何百年も時を越えて残っているものに感銘を受けたり、作品を長く親しんでもらおうとする側面もあるのではないでしょうか。
それでも、わたしは一人の表現者として、自分の集大成とも言えるアウトプットを探し求めていきます。もしかしたら、まとめきれないかもしれません。あるいは、それは大して評価されず、世の中に受け入れられないかもしれません。
ただ、わたしは、イマココを全身で感じ、全力で理想に手を伸ばし続けて、あがき続けることが人生だと思って、日々過ごしていきたいと思います。
ちなみに、今回、色々なnoterさんの感想を拝見したのですが、森田はぐみさんの感想が作品愛に溢れていたので紹介します。
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