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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第6話 渡辺崋山(2)

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  渡辺崋山(通称のぼりいみな定静さだやす)は、寛政5(1793)年9月16日、江戸麹町の田原藩たはらはん上屋敷で生まれた。
父は江戸詰めの上士定通さだみち(1765-1824)、母はお栄(1772-1844)。登は八人きょうだいの長男である。

田原藩は、三河の渥美半島を治める譜代一万二千石の小藩で、藩の江戸屋敷があった界隈が現在三宅坂(憲政記念館や国会図書館が近くにある)とよばれているのは、当主が三宅家であったことに由来している。

東京都千代田区隼町4(三宅坂小公園内)に建つ「渡辺崋山生誕地」の案内板*
「渡辺崋山生誕の地」*
後ろは最高裁判所、前には皇居のお堀が


 崋山が生まれたのは、封建制度が衰退の兆しをみせはじめた時期にあたり、幕府も諸藩も財政難にあえぐようになっていた。

くわえて田原藩は小藩である。コメの収穫による収入はわずかであり、支出の大部分は藩士への給米で消えてゆく。遠州灘に面するために風害を受けやすく、生産力の上昇も期待できない。そのため渡辺家も、代々重職を占める百石どりの上士とはいっても窮迫を極め、父定通が病身のなか、大勢の家族を抱え、崋山の弟妹のほとんどは長寿をまっとうできなかった。

崋山画「五郎像」『辛巳画稿』(個人蔵)★
末弟の五郎は崋山と椿椿山(後述)に学び
画家(渡辺如山)となったが、崋山より先に21歳で没する。
ほか2人の弟たちも幼くして養子に出、早世している。



 12歳のとき、崋山の生涯の記憶に残る出来事が起こる。日本橋のあたりを歩いていた際、備前池田侯の行列を横切ってしまい、人びとの前で先方の家来たちに手ひどい打擲を受けた。のちに崋山はこのときの口惜しさについてこうふりかえっている。

――この備前侯(野口注:池田家の若君のこと)は、自分と同じ年配でありながら、おおぜいの家来を引き連れ、人もなげな振舞いをするとは、同じ人間でありながら、天分がちがうといえばそれまでだが、この不合理には我慢がならぬ。今から何なりと志を立てれば、どんなことでも、できないことはなかろう。

「退役願書之稿」、天保9(1838)年


 この回想は、崋山の生き方を突き動かした根本動機が、身分や地位にもとづく序列が結局は決め手となる、封建制度の理不尽への義憤だったことをはっきりと伝えている。

渡辺登少年は、事情をくんだ年長者の勧めもあり、藩の儒者鷹見たかみ星皐せいこう(1751-1811)に入門し、儒学(朱子学)を学んだ。
儒学を学べば、身分の異なる相手とも学問を通して対等に交わる道も開かれることになる。
臆面もない言い方をすれば、大名にだって師礼をとらせることが可能なのだ。

「崋山立志像」(田原市博物館蔵)*
昭和3(1928)年、田原中部小学校の先生、高柳守次が製作(↑)
崋山12歳のときの屈辱と発奮の物語は、郷土で語り継がれ、子どもたちを励ましてきたのだろう


「渡辺崋山」(3)へつづく

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■写真について

ヘッダー写真:千代田区三宅坂交差点(著者撮影)
※*=著者撮影
※★=渡辺崋山(画 )、菅沼貞三(編・解説)『崋山』、東京中日新聞出版局、1962. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/8798828/1/112


■参考文献

■著者プロフィール


野口良平 のぐち・りょうへい
思想史家、文筆家。
著書に『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社、2009年、第18回橋本峰雄賞受賞)、『幕末的思考』(みすず書房、2017年)、最新刊に『列島哲学史』(みすず書房、2025年)がある。
訳書にルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ 米国一〇〇年の精神史』(共訳、みすず書房、二〇一一年)、マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』(みすず書房、二〇一九年)。

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(けいこう舎編集部)



 
 

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