映画感想 関心領域
壁で隔てられた“平凡さ”と“邪悪”。
今回の映画はポーランドが舞台。2023年の映画『関心領域』。監督はジョナサン・グレイザー。ジョナサン・グレイザー監督は2000年に『セクシー・ビースト』で映画監督デビューし、本作は4作目。
原作は2014年イギリスから出版されたマーティン・エイミスの『関心領域(The Zone of Interest)。原作小説はアウシュビッツの側に住んでいたヘス家をモデルにした架空の一家の物語……としていたが、映画版では大幅に変更し、実在人物であるルドルフ・ヘスとヘートヴィヒ・ヘス夫妻の物語に変更した。それだけではなくアウシュビッツ博物館や公文書館に通い、膨大な資料を読み通してその周辺にどんなやりとりがあったか、正確に調べ上げた。本編中に登場する公的な文書などは、おそらく実際の資料通りに作ってあるのだろう。
制作はA24、フィルム4・プロダクションズ、アクセス・エンターテインメント、ハウス・プロダクションの4社合同出資。A24はこのブログでも採り上げる機会の多い、インディペンデント系映画会社。低予算であることを条件に、制作の裁量のほとんどをクリエイターに委ねる会社だ。本作もA24作品らしく、枠に捕らわれない映画となっている。
2023年第76回カンヌ国際映画祭で正式に選出され、グランプリ、カンヌ・サンドトラック賞を受賞。他にもアカデミー賞では国際長編映画賞受賞、音響賞受賞、英国アカデミー賞では英国作品賞受賞、ボストン映画批評協会賞では監督賞、脚本賞受賞……など世界中で多くのアワードを獲得した。
評価はもちろん高く、映画批評集積サイトRotten Tomatoesを見ると、批評家によるレビューが347件あり、肯定評価93%。一般評価はやや落ちて79%。Metacriticでは100点満点中90点となっている。
では前半のストーリーを見てみよう。
それはごく平凡な家庭に思えた。ヘス一家は屋敷住まいで、たくさんの子供がいて、使用人もたくさんいて、穏やかな日々を送っているように見えた。
ある日の朝、ヘス家のみんなが仕事に行こうとするルドルフにカヌーをプレゼントする。家族からの誕生日プレゼントだ。
「え、私に? 凄いな。どこで手に入れたんだ。3人乗りだな。最初に乗りたい人は?」
でもルドルフはもう仕事に行く時間だし、子供たちは学校へ行く時間だった。ルドルフは家の門から出て、すぐそこにあるアウシュビッツへと入って行くのだった。
アウシュビッツ強制収容所の所長――それがルドルフ・ヘスの仕事だった。
昼頃、ルドルフは仕事仲間を連れて、自宅へと戻ってくる。客間で仕事の打ち合わせだ。
「その反対側にあるのは第2焼却炉です。ただちに次の“荷物”が焼けるよう、待機しており、この第1焼却炉での作業完了後、すぐに第2焼却炉が稼働できます」
「所要時間は?」
「約7時間で完了します。一度に500体です」
ここで仕事を中座して、庭に出る。すると仕事仲間たちが集まっていた。
「ヘス司令官、お誕生日おめでとうございます」
職場の仲間たちが笑顔で拍手を送る。
その後、ルドルフは上の息子を連れて、乗馬を教える。
「聞こえるか? サンカノゴイだ。サギ科の鳥で、太い声で鳴く」
馬を歩かせながら、森の様子を教えていく。
そんな一日をやがて終える。一家は夕食を終えて、ルドルフは娘を寝かしつける。穏やかな一日が終わるのだった。
ここまでのお話しで25分くらい。
一見すると、なにも起きない。ごく普通の、平和すぎるくらい平和な一家の物語が描かれていく。しかし、壁一枚隔たれた向こう側では……。地獄のすぐそばに作られた天国のような風景。映画はその壁の向こう側を一切描かない。そうすることで、平凡な一家の異常性を浮かび上がらせていく。

家族がプールに集まっている。穏やかに見える風景だが……。

カメラを反対側に向けると、すぐそこに……。壁一枚隔てた向こうは地獄。
関心領域(ドイツ語: Interessengebiet)という場所について確認しておこう。
当時、ドイツが占領したポーランド南部オシフィエンチム市に、強制収容所として名高いアウシュビッツが建造されていた。その周囲40平方㎞を「関心領域」と呼んだ。文字通り、ナチスが関心を持っていた領域のことだ。
この辺りはナチス軍がシュッツシュタッフェル、つまり「準軍用地」として確保されていた土地で、アウシュビッツに勤めるナチス高官が住み、作中でも「工場が集まってきている」と語られているように、IGファルベン社をはじめとする様々な工場が建造されていた。
なぜここが工業地帯として発展したのか? それは無料で使える労働者がいたから。反抗的な労働者や、病気になった労働者は、即座に入れ替えられる。工場経営者にとっては夢のような場所だった。

映画中の場面。「ユダヤ人を全て殺してしまうと、労働力の確保ができない。だから全部を殺してはならないぞ」……と話している。
そのIG・ファルベン社は戦後、戦争犯罪を犯したとして裁かれることになる。アウシュビッツの囚人を強制労働させ、しかも工場内で生産された化学物質で大量虐殺をしていたからだ。

2014年に出版された原作小説では、ヘス一家をモデルにした架空の人物の物語であったが、映画版では大幅に変更して実在人物であるルドルフ・ヘスとヘートヴィヒ・ヘス夫婦の物語に変更された。ルドルフ・ヘスはアウシュビッツの初代所長で、長くこの収容所に勤めていた人物だ。
映画は一見するとすごく地味。平凡な内容に見えるが、その制作には10年の時が費やされている。原作から離れて、ルドルフが普段どんな生活をしていたのか、一家がどんな暮らしをしていたのか、徹底的に調べた上で描かれている。
まずヘス家の屋敷は現在も残されているので、それを元に精巧なレプリカを建造。庭園は撮影が始まる半年前までに造られて、植物が根付いた頃に撮影がスタートされた。作中のやりとりの多くは実際にあったものらしく、歴史再現された光景をまさに見ているといえる。
そうした光景を、あえてやや距離を置いて撮影されている。ほとんどのシーンでクローズアップされることがなく、俳優たちがどんな顔をしているのかよくわからない。あえて客観視することで、彼らが何をしているか、感情移入することなく考えて欲しい……という意図だ。
撮影にはカメラだけが設置されて、スタッフがいない状態で撮影されたものもかなりあるらしい。俳優たちはほとんど演技を意識することなく、自然に振る舞い、それがそのまま編集に組み込まれている。

普通に見ていると、なんでもない日常の風景がただ映し出されているだけ……しかしよくよく見てみると邪悪さが見えてくる……というのが本作の構造。
例えばこの場面。強制収容所の労働者がヘス家にやってきて、荷物を渡す。荷物を開くと、中には衣類が一杯に入っていた。ヘートヴィヒ夫人は使用人たちに「好きなものを持って行っていいわよ」と与える。
言うまでもなく、強制収容所の囚人たちから剥ぎ取った衣服だ。
この後、ヘートヴィヒ夫人は自分の部屋に入り、ちょっと質の高いコートを試着している。
意味がわかると、「よくそんなの着られるな……」と唖然としてしまう。邪悪さが日常化し、この人たちにとって“当たり前”になっている……そういう様子が描かれている。

ルドルフの仕事場の人たちを家に招いて、仕事の話をする場面。
「第1焼却炉で“荷物”がすべて灰になった後、第1の煙突を閉じ、同時に第2の煙突を開きます。すると炎は空気の流れにそって移動し、バッフルを通過して第1焼却炉から第2焼却炉へ流れ、待機中の“荷物”を焼くのです…」
普通に聞いていると、ただの“仕事の打ち合わせ”をしているようにしか聞こえない。しかしこれは「ユダヤ人の死体をどうやって効率よく焼却するか」という話。ユダヤ人をユダヤ人と呼ばず「荷物」と呼んでいる。言葉のうえでも人格を剥ぎ取っている。こんな話を、なんでもない仕事の打ち合わせっぽい雰囲気で話す。意味がわかってくると、邪悪さが見えてくる。

作中でも印象的な場面。このポーランド人少女も実在人物で、実際にヘス家に使用人として働いていた。アレクサンドラという女性で、ジョナサン・グレイザー監督はこの女性と会うことができたので、このシーンが作られる切っ掛けとなった。
アレクサンドラはヘス家から盗み出したリンゴをバッグに入れ、夜な夜なアウシュビッツへ自転車で行き、こんなふうにリンゴをそっと置いていったという。髪型、着ているもの、自転車の型まで当時の資料そのままに作られているという。
その場面を赤外線カメラ(サーマルイメージングカメラ)で撮影している。このカメラの性質で、わずかに熱を帯びているものが白く輝く。そのおかげで少女が天使のように見える。

作中のある場面。草むらの中にリンゴが隠されている。ルドルフはリンゴに気付かず通り過ぎていく。

何度もアウシュビッツを往復している最中、少女はその中で楽譜が残されていることに気付く。ジョセフ・ウルフがこっそり書き残した楽譜だ。夜な夜な忍び込んでくる誰かのために置いたものかは不明。
ジョセフ・ウルフは当時のポーランドに住んでいたユダヤ人。戦時中はレジスタンスとして活動したが、1943年に投獄。アウシュビッツで強制労働をさせられていた。
戦後、アウシュビッツから生き延びることができて、以降はナチスの犯罪を暴くために生涯を費やした。

印象的なやりとりといえば、この場面。ヘートヴィヒ夫人の母親が訪ねてきてくる。ヘートヴィヒ夫人は自分で作った庭園を披露する。母は感激して、「まるで楽園ね」と感想を漏らす。

しかし夜になると……みなが寝静まると、壁の向こうの“声”が聞こえてくる。焼却炉が炎を噴き上げ、悲鳴が聞こえてくる……。
ここは「楽園」じゃなかった。「地獄」だった。母はそのことに気づき、夜のうちに屋敷から出て行ってしまうのだった。

その一方、ヘートヴィヒ夫人は、ルドルフから「転属」の話を聞かされる。出世だった。ポーランドのアウシュビッツだけではなく、ヨーロッパ中の強制収容所全体の指揮官になる。それで、この家を離れるという。
その話に、ヘートヴィヒ夫人は憤慨する。
「嫌よ。あなた一人で行けばいい。そうよ。あなたはオラニエンブルクで仕事を、私はここで子供たちを育てる。今まで通りアウシュビッツでね」
「あれが私たちの家なの。夢見ていた暮らしをやっと手に入れたというのに。17歳の頃からの夢。いえ、それ以上よ。都会を離れて、望むものは全て目の前にあるのに。子供たちはみんな強く、健康で幸せだわ。私たちはヒトラーの思想を実現している。総統が主張する東方生存圏をね。我が家の生存圏はここ。あなたも同じ考えのはず……」
ヘートヴィヒにとってここは“理想の家”だった。壁一枚隔てた向こう側には惨劇が繰り広げられている。毎日のように悲鳴や絶叫が聞こえている。でもそこで数年過ごしているヘートヴィヒの耳には、もうそれらは聞こえなくなっていた。
旅行でやってきた母には、この楽園が見せかけで、実は地獄だ……とすぐに気付いた。でもヘス家の人々には、それがわからなくなっていた。

もう一つ、いびつさが伝わる場面。一家には赤ちゃんがいるのだが、実はヘートヴィヒ夫人は赤ちゃんの面倒を見ていない。使用人が面倒を見ている。
その赤ちゃんが夜、激しく泣いている。しかし夜になると壁の向こうから悲鳴が聞こえてくるので、赤ちゃんの泣き声はその悲鳴に飲み込まれていく。赤ちゃんの夜泣き声も“気にならなく”なっている……。使用人も赤ちゃんをあやそうとはせず、放置。誰も赤ちゃんの泣き声を気にしなくなっている。

夜中だが、ルドルフに呼びつけられる使用人。性処理のために呼び出されたのだ。
ルドルフは一見すると穏やかな家庭人に見えるのだが、実はモラルが崩壊している。
一見すると平和な楽園に見えるが、一枚剥がすと何もかもが歪んでいる……。

壁の向こう側で何が起きているのか、本作では一切描かれない。しかし実は詳細に調べ上げられ、表面的なシナリオとともに“壁の向こうで何が起きているのか”というもう一つのシナリオが作られた。そのシナリオに沿って、音響が作り込まれている。どこで何が起きているのか、それはヘス家とどれくらい離れていたのか……そこまで練り込まれた上で、音が作られている。できるだけ良い音響で聞いて欲しい作品だ。

ちょっと謎のシーン。電話で部下に指令を送っている場面。電話にダイヤルがないのは、アウシュビッツ直通ホットライン電話だから。
その内容だが……
「件名。士官兵舎のライラックの扱いについて。親衛隊の諸君へ、司令官が申し送る。今後ライラックの花を摘む際に、軽率かつ乱暴なやり方で、ライラックを傷つけた者は、処罰を付けることになる。ライラックを摘むときは、くれぐれむ花を痛めつけたりしないことを、諸君には心から期待している。この組織全体の利益になることだ。どうか理解して欲しい。美しいライラックは、これからも収容所全体を彩るものとなるだろう」
私は推測では、“ライラック”は女性、その中でも“少女”を示す隠語ではないかと考えたが……。
しかしそうすると矛盾が生じる。この後、ヘスは使用人を呼び出し、性処理に使っている。自分はそうしていながら、部下には禁じる……矛盾した言動だが、本人にその意識がない。

「凡庸な悪」という言葉がある。ハンナ・アーレントが元ナチスでホロコーストの中心人物であった、アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した後、著書の中に書いた言葉である。「凡庸な悪」は今や辞書やWikipediaにも掲載されている言葉でもある。
アドルフ・アイヒマンはホロコーストの中心人物というから、とんでもない極悪人であろう……そう思って裁判を傍聴しに行くと、そこにいたのは、ごく普通の、平凡な男だった。
なぜアドルフ・アイヒマンはあれだけの残虐行為を行ったのか? たった一人が行った殺戮行為としては歴史に残る人数である。その理由について、アドルフ・アイヒマンはこのように答える――上からそう命令されたから。
命令されたから、それに従った。優秀な官僚らしく、最上の結果を目指しただけ……。
「凡庸な悪」の意味についてオンライン辞書を見ると、「ユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考力や判断力が停止、外的規範に盲従した人々によって行われる。そういった悪こそ、社会に蔓延し、世界を荒廃しうる」と書かれている。
その社会が、そういう価値観だったから。それが“良いこと”と周りのみんなが言ったから……。その社会における正しさに従った結果、歴史に残る殺戮行為が起きてしまった。
ハンナ・アーレントが1963年『ザ・ニューヨーカー』に件の傍聴記録である「エルサレムのアイヒマン」を発表した後、「ナチスを擁護している」と様々な騒動が起きた。ごく身近な人たちですら、ハンナ・アーレントの味方にならず、バッシングの側に回った。ごく普通の人ほど悪に転落しやすく、その正義を貫くためならば簡単にモラルを崩壊させてしまう。ハンナ・アーレントは身をもって人間にそういう性質があることを証明したのだった。
本作を制作するにあたり、ジョナサン・グレイザー監督はナチスやホロコーストを実行した人々について、「神話的なまでに邪悪」に描かれがちだ……それは正しいのか? という問いから考えた。彼らは実はごく普通の人たちではないか。普通であるからこそ、あのような残虐行為に至ってしまったのではないか……?

本作を改めて見てみよう。
主人公はアウシュビッツ所長、ルドルフ・ヘスである。家庭の中でのルドルフは非常に穏やかな、“いい父親”に見える。子供たちをカヌーにのせて遊びに行ったり、夜になると子供たちをベッドに連れて行き、眠るまで絵本を読んで聴かせる。“理想の良い父親”に見える。
実際のルドルフ・ヘスも、父親が厳格なカトリック信徒であったため、基本的には人徳優れた人間だったらしい。仕事場の仲間たちから誕生日を祝われている様子を見ると、周りから人望厚かったことがわかる。
しかし一方で、アウシュビッツ強制収容所の所長として、年がら年中、「どうやったらユダヤ人を効率的に“処分”できるか」を考え続けているような男でもあった。この二つの性格は、両立しうるのだ。

ヘス家の中を見ても、何の変哲もない、普通の一家にしか見えない。しかし壁を隔てた向こう側では、凄惨な残虐行為が毎日のように行われている。耳を澄ませれば、いつでも銃声と悲鳴が聞こえてくる。しかし一家にとってその環境が日常。聞こえているはずだけど、気にならなくなっていた。
たまに遊びに来たヘートヴィヒ夫人の母親は、この家の異様さにあるとき気付いて、逃げ出している。客観的に見るとやはり異様だし、わかった瞬間、そこにいることすらおぞましく感じる。
一方、ヘートヴィヒ夫人はルドルフが転属する……と聞かされたとき、「ここが我が家よ!」と言って動こうとしなかった。その場所が実は地獄である……その状況が“日常”になってしまうと、何もかもわからなくなる。邪悪の中でも、薄く希釈された邪悪。どんなホラーよりも恐ろしい状況が描かれている。
映画の後半、転属したルドルフ・ヘスはじんわりと胃腸を悪くする。無意識ではじわじわ精神がやられていたのだ。しかし無意識だから、その理由がわからない。

最後に、ルドルフ・ヘスはユダヤ人をより多く処分する、画期的な方法を思いつく。「いいことを考えついたぞ……」というつもりでいたが、職場の階段を降りていこうとすると、胃がどんどんムカムカくる。無意識下に押し込められていたモラルがふっと湧き上がって、ルドルフ自身を責めている場面だ。
この階段を降りる場面は、同じ構図で3度も繰り返される。階段を降りていくたびに、照明がじわじわと暗くなっていく。最後の方ではほぼ真っ暗だ。これは暗喩表現で、後のルドルフの運命を暗示している。転落へ向かう過程を象徴していくのだけど、転がり落ちていくのではなく、自らの足で、淡々と降りていってしまう。ルドルフがより取り返しのつかない残虐行為に手を染める運命と、やがてその罪によって裁かれる運命――それが示されて、映画は終わる。
ルドルフ・ヘス、1947年4月16日、戦犯として絞首刑に処される。
その処刑の前に、ルドルフ・ヘスはこんなふうに書き記している。
「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らずに第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった」
「世人は冷然として私の中に血の飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。(中略)その男もまた、心を持つ一人の人間だったことを。彼もまた悪人ではなかったことを」
やはりルドルフも、平凡な男だったのだ。
本作について、その通りの意味で捉えてもいいが、一方で大きな寓話としても捉えることもできる。この寓話は、どんなできごとにも当てはめることができてしまう。

例えば今月取り上げた映画の中で言うと、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。完全にモラルが崩壊した証券会社の中で起きていた実話がベースになっている。会社の中でドラッグとセックスが蔓延し、仕事内容も違法、あらゆる面でモラルが崩壊しているが、誰も異常さを指摘しない。本作と比較すると、わかりやすいほうの邪悪だ。
これは映画の中のできごと、かなり特殊な事例だ……そう思われるかもしれないが、現実のどんな企業でも起き得るし、ミニケースであればどこでも起きている。明らかに歪んだ社会状況がそこにあったとしても、それが常識になってしまえば、人はその通りに動くし、優秀な人間であれば最大限効果の出る手法を考えたりもする。それが違法かどうか、モラルの面から見てどうか、という問題を置き去りにして。

『オッペンハイマー』も邪悪さが見える作品だ。ある段階まで原子爆弾を作ることの後ろめたさがあったはずなのに、ある段階で「原爆を完成させ、どこかに落とすこと」が目的化してしまっている。それが「おかしい」と気付いて、声を上げる者もいたはずなのに、最終的に封殺してしまう。使ってしまってから、ハッと邪悪さに気付く……そういう作品だった。
我が国の状況を振り返っても、似たような実例はどこでも見いだすことができる。明らかに異常、環境や人が犠牲になっている……しかしその状況が“常識”となってしまうと、誰も異を唱えることもない。特に日本人は、“慣例”を尊重する傾向にある。異常や犠牲もあっても、「慣例ですから」と続けてしまう。冷静な視点でツッコミを入れても「全体の輪を乱すな」とみんなで無視する。そうやって取り返しのつかない事態に陥るまで続けてしまう。
たとえば大企業の不正を告発すると、告発した方が非難される。社内から非難されるし、まったく関係ない部外者からも非難される。「場の空気を乱すな」と。そこに悪徳があったとしても、大多数の日本人は「場の空気」のほうこそ重要だと考えがちだ。
ニュース番組を見ると、毎日のようにその実例を見ることができる。その実例をみんな知っているはずなのに、それぞれで何かしよう……とはまったく思わない。それが日本人の欠点だ。
『関心領域』で描かれたような状況は、特殊な事例ではない。どこでも起き得る。なににでも当てはまるある寓話について語られている。気軽に視聴できるような映画ではないが、それでも一つの教訓としてぜひ見ておきたい。
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