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【文学フリマで買った本】 「見える」強さと苦しみ 生きることにアンバランスな作品(2)

前回は、ぼくなりに受け止めている、
中澤亞湖作品の全体像をもとにして、
隘路を描くものとしてご紹介しました。

今回は作品の内容に入りたいと思います。

みんなが当たり前にやってることを、
自分にはできないと嘆いているひと。
世の中すべてに四捨五入されている
実感とともに生きざるをえないひと。
自分自身の持っていることばでは、
自分自身の抱える生きづらさを、
うまくことばにすることができないひと。
この作品が届くように紹介をします。

作品に惹かれるひとたちが、
誰からも否定されないよう
小理屈をこねてみました。

ぼくの長文を読む必要はありません。
ただ長文で紹介したくなる作品として、
『外れ値にて、漂流』という作品がある
ということを持ち帰っていただければ。

とはいえ、少し長い拙文を、
ぼくなりにまとめてみます。

この作品は、
世界を腑分けするこのできる目
を生きる中で持ってしまった人が、
虚構としてしか描けない現実
をまさに生きている、
そして、この現実=虚構は、
誰かを見捨てるような、あるいは、
自分で自分を否定するような、苦しみ
に満ちている、
というきっとあなた自身の持つ実感
を描いています。
そして、その現実=虚構は、
誰もが形を変えながら、
まさにいま、生きている生
でもあるのだと歌っているのです。

3.メッセージとメディア、それぞれについて

(1)分析的で、理知的な「メッセージ」

中澤の作品は理知的で、
だから、どうしても悲しい。

中澤作品はこう歌います。

クレヨンと自殺未遂は夏の季語
白には二度と戻れない画紙

中澤亞湖『外れ値にて、漂流』

巻き戻ることのできない人生に、
ことばが抵抗するかのようです。

ここでは対比的に語りましょう。

たとえば、ぼくは欠片も文才もなく、
生き汚さを恥とも思わないどころか、
何より偽物なことを誇りとしてます。
中澤のことばを受けたあとにさえ、
「クレヨンで白くつぶした画紙の表
にじむ赤には、生きられた軌跡」
なんてことを平然とつぶやきます。

ぼくの一文に「ぼく」の生の結果も、
何かに抗う「ぼく」も、ありません。
直線的な時間の救いだけを語る、
気持ち悪く、ありふれた一文です。

対して、中澤作品を見てみましょう。

先ほど提示した画紙に自身を託した歌は、
「二度と戻れない」という実感を描きます。
この実感が、クレヨンと自殺未遂の2つを、
「白さ」を喪わせるものとして、並列します。
時間の流れ通り数直線的に表現するなら、
実感-仮託-並列の順で書かれるはずです。
歌はそういうものと言ってしまえるかといえば、
そうでもなく、ここに「夏の季語」という詞が、
読み手に幾重もの違和感を生み出します。
読み手の疑問に作品は正解を出しません。
他人の目には、春秋冬のいずれもあり得る。
この正解の出なさは、作者の中にある何か、
それが読者に差し出されていないからです。
そうして個人的な体験が、輪郭としてだけ、
読み手の前に、ただ差し出してしまうのです。

ちぎられ、つぎはぎされたような現実=歌、
その中心に空洞でしかないひとりが、ある。

意識して歌っているのかは、わかりません。
でも、世界を腑分けする「目」がなければ、
こうしたことばを使う必要がない
でしょう。
生きていく中で、ただ生きていくために、
見ることができなければ、いけなかった。
生きていくために身についてしまった、目

(2)重ねて、意味を生み出す「メディア」

『外れ値にて、漂流』は詩集で写真です。
それでいて薄葉紙が覆いとなってしまって、
書かれた文字は時にぼやけてしまいます。
そして、詩の載る、ちぎれた色紙自体は、
写真として切り取られた図像を隠します。

この作品を構成するものにみられる
現実と人間への透徹したまなざしは、
それぞれの媒介を見極め、より分け、
世界を再現に向かっているようです。

薄葉紙を重ね合わせる技法は、
『弔電』で既に用いられています。
同作は冒頭・中央・末尾以外は、
写真集に2枚の薄葉紙が載る、
という形式で進む複合作品です。
薄葉紙の写真集側の1枚目は、
アニメのトレス線のような、線画。
2枚目は、歌と呼びたくなる詩。

現実を歪める媒介=メディアでしか、
ぼくたちは現実を見ることはできない、
とでもいうように、執拗なまでに、
透明で、覆われ、隠されたもので、
作品は、あふれかえっています。

2枚の薄葉紙と、写真のページは、
3枚1組で1つの図像を描きます。
最初に詩、次に線画、最後に写真。
1枚めくるとことばがはぎとられます。
2枚めくればイメージが消えてます。
最後に残る、とりこぼされたものたち。

写真に切り取られる、二項対立。
コンビニエンスストアに並ぶ商品と、
道端でゴミと捨てられる、元商品。
生き生きした芝生を維持するとき、
錆びだらけになる水管があること。

ぼくたちと無関係に存在するもの。
光の中で素材に戻った水飲水栓。
光の反射で読み取りにくい標識。
ただ広がる、茫洋とした美しい海。
輪郭をうしなっているどこかの部屋。

あたかも、ぼくたちはページをめくり、
写真の描く「現実」にたどり着く。
そういうことでは、全くありません。

ぼくたちは、本書を読み終わった後、
誤植の謝罪に擬した一葉の手紙が
本書に、挟み込まれていることに、
詩が続いていることに気づきます。

ぼんやりと死(肉体あるいは精神、あるいは)の輪郭にふれてみるたび
今自分は生きているのだということを痛ましいほどに突きつけられる

中澤亞湖『弔電』

ぼくたちは輪郭に「ぼんやりと」しか、
「ふれてみること」しか、できません。
そうして「ふれて」みた、そのときとは、
何かを突きつけられる瞬間なのです。
たとえば、何かをうち捨てていること。

ページをめくることはその追体験です。

自意識が自分自身の首を絞める、
そういう瞬間を描くことばを、捨てる。
世界に意味付けをしたイラストの、
意味付けしてしまう自己を、捨てる。

誰もが、切り捨てています。
読み手は本書を読む中で、
その現実の追体験をします。
現実を見つめようとすること。
道端に何かを捨てることへの
道徳的なそのまなざしこそが、
捨てることをはじめています。

読み手が追体験するのは、
そうして何かを捨てていることの
忘却という、捨てるということ。
無限に自責する自意識の檻。
そこに自らしばりつけながらも、
しばりつけられている、感覚。
捨てるという罪を忘れない、
それだけは捨てられないこと。

現実が虚構としてしか描けない、
その感覚だけが手元に残ります

(3)どこにもいない、どこにでもいる、「少女」。

『弔電』のあとの『外れ値にて、漂流』では、
現実と虚構の境目のなさを引き受けている。
そう読むことが、適切であるように思えます。

話を『外れ値にて、漂流』に戻します。

本書表紙に薄葉紙に少女が線画で描かれ、
本体には夕方の海を撮影したであろう写真、
2つを合わせることでキャラクター的な少女が
海を「漂流」しているような様相が描かれます。
一方、薄葉紙ごしの海の写真は輪郭を弱め、
本体に点在する星型の光芒によって夜空に、
さざなみがちぎれた雲に見えなくもありません。
表紙は2つの虚構によって成立しています。
存在しない少女が海をたゆたっている情景。
きらめく何かを持つ特定しがたい地表と上空。

そして、後者の虚構によって、少女は漂う、
その余韻だけを、私たちに差し出すことで、
キャラクター性という意味を、喪失します。
現実感が出てくるということではありません。
現実か否かという問が意味を失うのです。

表紙の少女は、特定の個人ではないでしょう。
重ねた虚構は海と空という弁別を喪わせます。
同様の機構が、キャラクター性をもつ少女を
「ここではないどこか」に存在するものではなく、
「どこにでも」存在するものに逆転するからです。
その一方で、少女は『外れ値』でもあります。
「どこにでも」に存在するものものと『外れ値』。
少女は「平均」になるために、馴致されるため、
自分自身で削り取らなければならなかった
もともと、自分の一部だったもの
であったり、
うまく「平均」になることができないがために、
社会の中から四捨五入されてしまったひと

と考えることが、自然であるように思えます。
「平均」が選ぶ場所にも、選ばない場所にも、
かくして、少女は存在するようになるのです。
少女は、過去、現在のいずれかにおいて、
誰でもある存在であると考えられるのです。

少女は捨てられた者の苦しみの象徴であり、
誰もが孤児であることの象徴でもあるのです。


補足

前回、2回に分けて、
と書いていましたが、
もう少しだけ続けます。
多分、ぼくは、紙の本
がスキなのでしょう。

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