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AIに「ベテランのノウハウ」を詰め込んでも失敗する話──知恵には「三層構造」があった

当社の営業の要だった深山部長が、定年を迎えた。

最終出社日、机の上には、顧客から届いた花束が3つ並んだ。
A社の鈴木課長ら、わざわざ挨拶に立ち寄ってくれた顧客もいた。

誰もが「お疲れ様でした」と言い、笑顔で握手を交わしている。
しかし、翔平は口に出せない不安を感じていた。


この人の代わりが、本当にできるのか。


翔平の心に中でモヤついていたもの。
一言で言えば、部長に対して見せていた顧客の表情、目の輝きだ。

引き継ぎは丁寧だった。顧客リスト、商談履歴、提案書のテンプレート。ファイルはきれいに整理され、説明も尽くされた。「わからなくなったら連絡してください」と深山は言った。その言葉が、少し怖かった。

その時、翔平はひらめいた。
「AI版の深山部長」を作れば、いいかも知れない。

彼が残した引き継ぎの記録を、すべてカスタムGPTにファイルとして読み込ませてみよう。深山の記録があれば、AIが深山の代わりに答えてくれるはずだ。

できあがると、すぐに気になることを問いかけてみた。
「A社との次の商談、どう進めればいいですか」

AIは答えた。「A社との取引は2022年の品質改善プロジェクトが起点です。鈴木課長はコスト面での競合比較をかなり重視される方で、他社との金額差には敏感です。2023年の商談では、そのあたりを踏まえて提案書を3パターン用意し……」

翔平は画面を見つめていた。

情報は、出てきた。でも何かが足りない。
「深山さんだったら、こんな答えは出さない」それだけはわかった。

では、なにが違うのか。うまく言葉にできなかった。


ベテランの知恵には、3つの層がある


ここで、少し立ち止まって考えてほしい。

「深山さんの知識」とは、何だったのか。顧客リストのことか。商談の手順のことか。それなら記録に全部入っている。でも翔平が感じた「違い」は、そこではなかった。

2026年、シドニー大学の研究チームが論文を発表した。ベテランの知識を解剖した研究で、エキスパートの認知は「三つの層」で構成されることを示した。

第一層|手順層──何をするか。順番、作業、決まった流れ。記録をそのまま入れれば、AIに取り込める。

第二層|意味層──なぜそうするか。「A社の鈴木課長は最初の15分は相手に話させないと心を開かない」「この業界は下期に予算が詰まるから提案時期をずらす」。記録の中に散らばっているが、「どの場面か」がわからないと引き出せない

第三層|判断層──例外のときどうするか。「今日の鈴木さんの様子だと価格の話は後回しにすべきだ」「この兆候が出たらいったん引く」。記録の中に存在するが、「どの文脈か」がわからないと引き出せない


数百ファイルを追加した。それでも届かなかった


翔平は気づいた。深山部長の引き継ぎ資料には、決まった作業の手順や過去の記録 (第一層) しか入っていない。

いや、正確には、彼の行動の意味 (第二層) や 難しい局面での判断 (第三層) も引き継いではくれていた。この大量の議事録の中だ。「なぜこの順番で話したか」「なぜあの場面で一歩引いたか」──深山部長が残したメモの端々に、その理由は滲んでいるはずだ。整理されていないだけで、消えたわけではない。

翔平は、気持ちを振り絞った。膨大な会議議事録と商談後のメモを、追加でAIに入れてみよう。ファイルの数は数百に上った。でも、これだけの量を入れれば、深山部長の思考の痕跡がAIに届くはず。

さあ、きっとうまくいくはずだ。

翔平は、グレードアップした「深山部長 ver2.0」に問いかけた。
「A社との次の商談、どう進めればいいですか」

すると、AIはすぐに答えた。「鈴木課長は現場感覚を大切にされる方ですから、初回はまずしっかりヒアリングから入るといいでしょう。ただ提案書については、初回から持参したほうがいい場合もあれば、次回以降にしたほうがいい場合もあって、状況によって判断が変わります。製造ラインの停止リスクを気にされているので、エンジニアの同席も検討してみてください。コストの話はタイミングを見て……」

確かに、実践的になった。
それでも、何かが違う。

「深山さんと似てるところもあるんだけど、やっぱり違う」けい翔平はそう感じた。何百ものファイルを追加したのに、それでもまだ、何かが届いていない。


「なんか違う」の正体


実は、その理由は、AIの仕組みそのものにある。

RAG(社内文書をAIに読み込ませて検索・回答させる技術。カスタムGPTもこの仕組みで動いている)は、質問を受けるたびに膨大なドキュメントを全文検索し、「関連しそうな部分」を拾い上げて答える。データが増えれば増えるほど、拾い上げられる情報が多くなる。

しかし、拾い上げ方に問題があった。
例えるなら、RAGは「索引のない図書館」なのだ。

膨大な記録の中に、第二層・第三層の知恵は確かにあった。しかしAIはどの場面の、どの文脈の問いに答えているのかを知らない。「A社との初回商談」と聞かれても、関連しそうな情報を表面から拾ってくるしかない。第二層と第三層は、データの奥深くに埋もれたままになる。

「なんか違う」の正体は、これだった。

S&Pグローバルの調査では、RAGの本格導入に成功した企業は1,000社中わずか200社。翔平の失敗は、世界中の組織が同じ場所で躓いた感覚だった。


索引を先に作る


解決策は、索引を先に作ることだ。

深山部長の知恵は、場面と結びついている。「製造業の初回商談」の場面では、第二層として「最初は相手に話させる」が機能する。「提案が一度断られた後」の場面では、第三層として「価格より痛みへの共感を先に」が機能する。

場面という構造が先にあれば、AIはその場面に紐づく第二層・第三層を正確に引き出せる。深山部長が30年かけて積み上げたもの──それは、遭遇する場面ごとに磨かれてきた「実践知」だった。

翔平は、深山の知恵を検索するための「実践知マップ」を作ることにした。

まず「使う人がどんな場面で何を知りたいか」を整理する──「初回商談の前」「提案書を作るとき」「商談の振り返りをするとき」。これらが地図の骨格になる。

次に、各場面ごとにQ&Aを組む。「何をするか(第一層)」だけでなく、「なぜそうするか(第二層)」「例外のときどうするか(第三層)」を必ず問いに含める。

「製造業の初回商談でうまくいくパターンは?(そしてなぜそれが有効なのか)」
「失注しやすい兆候は?(そのときどう動くか)」

何百ものファイルを人力で調べて体系化する。これを人手でやったら、気が遠くなる手間がかかるだろう。でも、こういうときに、AIは最高の切れ味を見せてくれる。

AIと対話してつくった「問い」に対して、深山部長の記録を対応させると、第二層・第三層が場面ごとに組み込まれた索引が完成した。あっけないほど短時間で、膨大な知恵の地図ができあがった。


「深山さんが戻ってきた」


実践知マップを入れた「AI深山部長 ver3.0」に、翔平が問いかけた。

「A社との初回商談、どう進めればいいですか」

すこし待つ。前とは違う答えが返ってきた。

「A社の鈴木課長は前回、製造ライン停止時のコストを最も気にしていました。初回商談の場面における実践知では──最初の15分は相手に話してもらい、コスト試算は第2回以降に持ち越すのが有効です。解決策より先に、その痛みへの共感から入ると関係が開けます。なお、鈴木課長が自ら数字の話を持ち出してきたら、それが踏み込むサインです

翔平は、画面から目を離さなかった。

「深山さんが戻ってきた」

そう感じた。しかも、24時間365日、困ったときに、いつでも、誰に対しても答えてくれる。みんなの深山さんとして戻ってきてくれたのだ。


記録にない知恵の、引き出し方


しかし、まだこれで完成ではない。

実践知マップを作り始めると、必ず空白が出てくる。「この場面の第二層・第三層が、記録にない」という空白だ。深山部長が30年で培った判断の全てが、議事録に残っているわけではないからだ。

そのときは「知識の穴」を、二段階で埋めよう。

まずAIが仮想で補完する。「この場面で深山部長ならどう動くか」をAIがシミュレーションし、「仮説・未検証」のラベルを貼ってマップに入れる。仮のままでも使える。使いながら検証していけばいい。

次に、空白が特定できた場面だけ、折を見て深山部長にピンポイントで聞く。「製造業の大手顧客で初回商談が詰まったとき、部長ならどう判断しますか」──場面に絞った問いなら、達人は答えやすい。「全部教えてください」は言語化の壁にぶつかる。「この場面だけ」なら、壁が低くなる。

この「AIシミュレーション → 達人へのピンポイント確認」が、空白を実践知に変えていく。詳しいプロセスは『考える組織』に書いてある。


翔平が積み上げていったもの


翔平が蓄積していったもの──それは、その会社が長年かけて培ってきた「自社の固有知識」だ。

AIに渡すべき自社固有の知識には、三つある。「どんな価値観で動く組織か(魂)」「どんな知恵が積み重なっているか(脳)」「顧客は何を求めているか(目)」。この記事で書いたのは、そのうちの「脳」にあたる部分だ。

三つをAIに渡し、組織を自律的に動かす設計──それが『考える組織』のテーマだ。

次の記事では「魂」──AIに会社の理念を渡すとき、ルールより先に必要なものについて書きたい。


【引用・参照文献】


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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斉藤 徹(とんとん)
だかぼく三部作 公式ページ:https://torusaito.com/
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