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安土城考(その8)「天主指図」宮上論文の考察(中)

 前回に引き続き、「天守指図」は偽書で、それを基にしている内藤氏の復元案は間違いだと断定する宮上論文について考察する。宮上氏が「天守指図」を偽書だとする根拠は次の3つである。

  1. 「天守指図」には安土城天守遺跡と矛盾するところがあること(+宝塔と吹抜け空間)

  2. 「天守指図」には『信長公記』善本と矛盾する点があること

  3. 「天守指図」の粗本が実在した証拠がないこと

 前回はこの1を取り上げたので、今回は2について考えてみたい。

「天守指図」と『信長公記』善本との矛盾点

1. 『信長公記』について

 まず『信長公記』について簡単にまとめておきたい。安土城天主の実像を知る重要な手がかりの一つが太田牛一が書いた『信長公記』(あるいは『信長記』)にある「安土御天主之次第」であることは誰も反対しないだろう。しかし、この史料には異本が極めて多い。

 内藤氏は、その文体や構成等から以下の4種類に分類している(内藤2006:99-103)。なお、分類の詳細については内藤氏の論文か著書を参照されたい。

  1. Ⅰ類本:尊経閣文庫の『永禄十一年記』『安土日記』など

  2. Ⅱ類本:岡山大学の『信長記』、彰考館文庫の『信長記』など

  3. Ⅲ類本:建勲神社の『信長公記』、天理図書館の『信長記』など

  4. Ⅳ類本:島原松平文庫の『信長記』、尊経閣文庫の『安土記』など

 内藤氏はⅠ類本の中で尊経閣文庫の『安土日記』を太田牛一の日記に近いものとして最重視している。この本の中では太田牛一は、信長を「上様」と書き、瑣末なことまで記録しているという特徴がある。この天正七年正月二十五日の条において、村井貞勝が林秀貞とともに安土城内部を見学した時の拝見記が掲載されており、この拝見記が他類本の「安土御天主之次第」の原典になっている。(内藤2006:103-105)

 Ⅱ類本は、Ⅰ類本を基にして信長の伝記として牛一がまとめたものだと推測されている。内藤氏は、Ⅱ類本の中では岡山大学の『信長記』が重要だと指摘している。この本の巻第一永禄十一年の帖はすべて牛一の自筆であり、他の巻も奥書は自筆、本文は多筆であるが牛一の筆跡に似ているので、自筆を透写したものだと推測されている。(内藤2006:106-109, 326)

 Ⅲ類本は、15巻構成のⅡ類本に巻首を加えて16巻とした信長の伝記の決定稿にあたる。この中では建勲神社の『信長公記』が全巻牛一の自筆とされており、内藤氏もこの本が特に重要だと指摘している。(内藤2006:110)

 Ⅳ類本は、江戸中期に流布したバージョンで、Ⅱ類本を基にカタカナ交じり文になっているだけでなく、かなり改ざんされているようで、安土城天主に関する史料としての価値はない。

2. 『信長公記』善本とは何か

 さて宮上氏は、『信長公記』善本と矛盾する点があるので「天守指図」は偽書であると主張しているのだが、この『信長公記』善本とは、上記のⅠ類本を指している。宮上氏は当該論文の中で以下のように述べている。

 以上、本節の檢討を通じてあきらかになつたことは、(イ)『信長記』Ⅰ類本の現存唯一(安土城天主の記事を含むものとしては)の冩本である尊經閣文庫蔵『安土日記』の安土天主の記事は、後に太田牛一が付け加えた文章を除いて、村井貞勝の記録とみられること、(ロ)『信長記』Ⅱ Ⅲ類本「安土(山)御天主之次第」は、前者の記録を牛一が拝見記の體裁に書き直したもので前者の内容を損なった部分が多いこと、(ハ)『信長記』Ⅰ類本現在冩本『安土記』にみられる行間補記は、Ⅱ Ⅲ類流布本との校合によって書き加えられたものと考えられること、である。したがって安土城天主を考える時には今のところ尊經閣文庫蔵『安土日記』の本文にまず基づくべきであり、行間補記の方は無視しなければならない。Ⅱ Ⅲ類本は前者の誤字脱字の補正の参考にはなるが、前者にない文章については慎重な考慮が必要とされる。

宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)」『国華』998号、1977.3、p.24

 つまり、宮上氏は、Ⅰ類本の本文は信頼できるが、Ⅱ類本、Ⅲ類本に加えてⅠ類本の行間補記も信頼できないと言うのである。

 これは、Ⅰ類本を尊重しつつ、その行間補記も本文と同じように扱い、かつⅡ Ⅲ類本もⅠ類本を補完する史料として重視するという内藤氏と大きな違いがある。

3. 天主の規模

 まず宮上氏が指摘しているのは、天主一階の規模である。『信長記』Ⅱ類本、Ⅲ類本には本文に「南北20間東西17間」という規模が書かれているが、尊經閣文庫蔵『安土日記』には該当箇所の補記として小さな文字で追記されている。

 宮上氏は、この補記は「太田牛一がⅡ類本を執筆した際に『石くら乃高さ十二間余』とともに付け加えた天主䑓に關するデータと解さねばならない。天主の建築面積そのものは、大坂城における天守と天守䑓との關係からみて、その『廣さ』よりずっと小さかったに相違ない。しかるに、『天守指図』の天主二重(一階)は、既に明らかにした如く、天主䑓からはみ出るほどの規模があるのである。したがって同圖は事實を傳えるもとは考えられない。」(宮上1977a:5)と述べ、安土城天守は、大坂城天守と同じ12間×11間の長方形(角が直角の矩形)であったと断定している。

 以下の図を見ていただくと、宮上復元案は内藤復元案に比べてかなり小規模であるのがよくわかる。

出典:石田富男・尾崎信一郎「安土城の図面『天守指図』の信ぴょう性検証)(その1)」 日本建築学会九州大会発表資料、2025.9.11

 ちなみに宮上氏は、安土城天主台にある礎石のない場所にある穴「中央ピット」が掘立柱の柱穴だと考えているため、宮上案の天主中央には心柱がある。天守のような大型の建築物に掘立柱を使ったと考えること自体が実に不可解である。掘立柱建築の一般的な耐用年数は20年から30年しかない。天主建築を任された熱田神宮の宮大工であった岡部又右衛門が、掘立柱を採用することはまず考えられない(心柱説の信憑性については「安土城考(その4)」をされたい)。

 宮上氏は、(インターネットで検索すると)奈良時代の寺院から江戸時代の城郭までの日本建築の研究や復元設計を数多く手がけた建築史家で、竹林舎建築研究所の開設者だと紹介されている。この経歴を考えれば、おそらく掘立柱の耐久性については十分な知識があったはずである。したがって、あえて心柱説を唱えた理由は、「天守指図」が偽書であり、それを基にしている内藤復元案は無価値であることを主張したいがための確信的詭弁であったように思われる。

 宮上氏が、安土城天主のサイズを大坂城天守と同じ12間×11間だと断定する理由は、安土城の後に作られた大坂城、肥前名護屋城、伏見木幡山城、家康が再興した伏見城、大和郡山城などの天守が「天守指図」よりずっと小規模だったことを挙げている。
 さらに、これらの天守より遥かに大きな天守が造られたのは、慶長17年(1612年)完成の名古屋城天守(15間×17間)、寛永15年(1638年)に完成した江戸城天守(16間×17間)であるので、「天守指図」のような大きな天主が天正7年(1579年)に造られたわけがないと池上氏は言うのである。
 しかし、安土城より後でできた天守の規模によって安土城天守の規模を決めるのは、かなり暴論のように思える。

 これに対して内藤氏は、「天守指図」によって初めて知られた内容が安土城天主遺跡で数多く確認されている上に、昭和40年以降の研究によって、安土城が築城された時代の天主(守)において、その一階平面が隅が直角の矩形である事例が皆無であること、さらに「一階の不等辺八角形に即した瓦当面が流れ方向に直角でない異形瓦も発見」されていることを示した上で、「こうした新史料新知見を無視しての論考は、とくに土木・建築の構造性を理解しない致命的欠陥がある」と宮上復元案を否定している。(内藤2006:316-317)

(注)「天守指図」が安土城天主遺跡とさまざまな点で一致しているという事実については、回をあらためて詳しく説明したい。

4. 柱の数

 内藤氏は『信長記』Ⅱ類本、Ⅲ類本に記述されている一階204本、二階146本、三階93本という柱の本数が「天守指図」の柱の本数にほぼ一致していることを確認している。

 これに対して宮上氏は、Ⅰ類本では(各階の説明文ではなく)全体の末尾に「以上 柱數二百四本」と書いているので、この数字は一階の柱の本数ではなく、天主全体の柱の本数であると断定している。その上で、Ⅱ類本、Ⅲ類本に記載されている二階と三階の柱の本数は、牛一によるでっち上げだと言うのである。論文から引用すると「太田牛一はⅡ類本への改稿の際、文の配列を變え、『以上』を除いた『柱數二百四本』だけを一階條に入れてしまったことから、二、三階にも柱數の記載が必要になって、それを書き加えたもの」だと宮上氏は言うのである(宮上1977b:7)。

 「したがってその數値は、勿論根拠のあるはずはない。それゆえ『天守指図』の柱數が『信長記』Ⅱ Ⅲ類本のそれと一致するとしたら、同圖は實在した天主の指圖ではなく、Ⅱ類本ないしⅢ類本に従って創作されたものであることになろう。」と述べている。(宮上1977b:7)

 つまり、宮上氏は、Ⅱ Ⅲ類本の『信長記』と「天守指図」の柱の数の一致は、「天主指図」が安土城天主の設計図である証拠ではなく、逆に、Ⅱ Ⅲ類本の『信長記』を読んで「天守指図」を想像で描いた証拠だと主張しているのである。
 この解釈は、すべてⅠ類の『信長記』が正しくて、Ⅱ類、Ⅲ類の『信長記』は信頼できないという前提に依存している。この前提も「天守指図」は偽書であると主張するための仮説にすぎない。

 ちなみに、安土城天主のすべての柱の数が204本であるという宮上氏の説について、安土城の研究をしている佐藤大規氏は「しかし、天主の総柱数が204本というのは少なすぎると考えられる。(牛一の書いた)「以上」で各階の説明を終え、天主の一階である六重目の柱数をもって天主の柱数としてここに改めて記したと考えたほうがよい。」と述べている(佐藤2007:3)。

5. 小括 その3

 宮上氏は、この他「通柱」「天主全高」「狭間窓」「各階各室の廣さ・畫題等」「五階六階の細部と装飾」について「天守指図」と『信長記』の記述の違いについて分析している。もちろん、両者が一致しているところも数多くある。しかし、宮上氏は、その一致は「『天守指図』と『信長記』との照合によって、『天守指図』が『信長記』に基づく創作である」からだと断定している(池上1977b:15)。

 しかし、この両者の一致は、『信長記』の記述が安土城天主の拝見記を基にしているからであり、かつ「天守指図」が実際の安土城天主の設計図であるからだと考えるのが常識的なのではないだろうか。

 今回も長くなってしまったので、残る「『天守指図』の粗本が実在した証拠がない」という宮上氏の指摘については、安土城考(その9)で考えてみたい。

 安土城考(その9)に続く

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献(著者アイウエオ順)

  • Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 ーいしくら」https://www1.asitaka.com/sasi/sasi1.htm

  • 石田 富男 / 尾崎 信一郎「安土城の図面『天守指図』の信ぴょう性検証(その1) -宮上茂隆氏の国華998号、999号の内藤氏論文批判に対する妥当性検証-」日本建築学会学術講演梗概集、2025、pp.115-116

  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』新人物文庫、株式会社KADOKAWA、2013.10

  • 小川守「安土城『天守指図』を巡って」2023.3

  • 佐藤大規「安土城天主の平面復元に関する試案」史學研究 第255号 pp.1-22、広島史学研究会、2007.2

  • 正見 泰「池上右平に関する史料の発見と考察」日本建築学会技術報告集 第16巻 第33号、2010.6、pp.735-738

  • 高橋和生「安土城の復元」https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle

  • 内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12

  • 内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2、同988号、1976.3

  • 宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)

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