安土城考(その9)「天主指図」宮上論文の考察(下)
前々回、前回に引き続き、「天守指図」は偽書で、それを基にしている内藤氏の復元案は間違いだと断定する宮上論文について考察する。宮上氏が「天守指図」を偽書だとする根拠は次の3つである。
「天守指図」には安土城天守遺跡と矛盾するところがあること(+宝塔と吹抜け空間)
「天守指図」には『信長公記』善本と矛盾する点があること
「天守指図」の粗本が実在した証拠がないこと
前回はこの1を、前々回は2を取り上げたので、今回は3について考えてみたい。
「天守指図」の粗本が実在した証拠がない
1. 「天守指図」の階段位置の不一致
宮上氏は、「天守指図」は想像の産物であることの一つの証拠として、階段位置が階段の上下階で一致しないことを挙げている。そこで「天守指図」をプリントアウトして上下階を重ねて透かしてみた。
まず、地下と一階をむすぶ階段は東側に2箇所あり、場所は一致している。ただ宮上氏は、東側北の階段は石蔵の石垣に重なるので作れないと指摘している。この点については、安土城考(その7)の「2. 北東隅の柱と階段」で問題なく階段を設置できることを確認している。
宮上氏は、一階と二階をつなぐ階段は、南西と南東、南東の上(北)の3箇所にあるが、南西の階段は幅が異なっていること、南東の階段は位置も幅も一致しているが、その北の階段は幅は半間で一致しているが場所がずれていると指摘している。さらに「その隣にも半間幅の階段が描かれ『下へさかる』と書き込みがあるが、その階段は二重(一階)の圖にはない。また假にこの階段があつたとしたら、先の階段は、それと交差するので登れない」とも指摘している(宮上1977b:16)。
まず南西の階段を確認すると、たしかに幅が異なっている。一階は1間幅であるのに対して、二階は半間幅になっている。これは二階の御座に通じる裏階段であるので広い階段は必要がないし、階段のある一階の縁が狭くならない方が望ましいの、半間幅が正しく、一階(一重)の図が間違いだと思われる。おそらく「天守指図」の作者か、筆写した者の単純なミスではないだろうか。

次に南東の階段2つを確認してみよう。宮上氏が問題にしている階段を丸で囲み、下り階段を青で、登り階段を赤で色付けした。問題の階段は一階の廊下から東方向に登って二階の縁に出る階段である。宮上氏は場所がずれていると指摘しているが、場所がずれているというよりは二階の階段の長さが一階の階段(赤色)よりも短くなっている。これも「天守指図」の作者か筆写した人のミスだと考えてよいだろう。

次は、二階丸印の階段の西側ある半間幅の階段(黄色)の件である。内藤氏の復元案を仔細にみると、この階段は一階に降りる階段ではなく、Eの部屋とそれを囲う縁が、母屋の床面より少し下がっているために設けられた階段であることが分かる。絵に書くと以下のような構造になっていると考えられる。
宮上氏は「この圖を書いた人の設計能力が疑われるほどの初歩的ミスである」(宮上1977b:16)と書いているが、宮上氏は内藤復元案が示す構造を読み取れなかったのだろう。

次は二階と三階をむすぶ階段である。宮上氏は「位置・大きさとも矛盾している」(宮上1977b:16)と言うが、これも内藤案のよう、かね折れ階段(段の途中で90度に折れ曲がる階段)だと考えれば、何の矛盾もない。
念の為に登り階段を赤で、下り階段を青で色付けした図を示しておく。

宮上氏は三階から四階への階段についても、位置が一間ずれていると指摘している。「天守指図」の三階(四重目)をみると、この階段は松ノ間に食い込んでいるように見える。この階段がクランク状、あるいはコの字状に折れ曲がって南側に食い込む形であれば矛盾はない。内藤氏の復元案では、どうもクランク状に折れ曲がっているようである。

四階から五階への階段についても、宮上氏は位置・大きさも食い違っている上に、五階の東側の階段は上にも下にも対応する階段がないと指摘している。
以下に「天守指図」の四階と五階を並べてみたが、四階の登り階段(図では赤で網掛けした階段)の幅は1間であるのに対して、五階では半間で表記されている点がおかしいが、「五階の東側の階段は上にも下にも対応する階段がない」という指摘は、どの階段を指しているのか不明である。もしかすると、四階から五階への階段が角で45度西方向に曲がっているのを別々の階段だと誤解しているのかもしれない。

以上のように宮上氏が指摘する階段に関する問題は、階段幅に一部描き誤りはあるが、「實在した建築の圖面とは考えられない」(宮上1977b:16)というほどの問題はない。
2. 吹抜け空間の問題
次に宮上氏が問題視しているのが天守中央にある地下から三階までの吹抜け空間である。(吹抜け空間については「安土城考(その7)」でも取り上げたのでご参照願いたい)
宮上氏は「このような空間は日本建築史上他に例のないものである。したがつて安土城天守内に事實存在したとしたら、これを見物した村井貞勝が拝見記に記さないはずはないのに、それに關する記載がまったくない」(宮上1977b:16)と言う。
これについて、内藤氏は「(拝見記を元に書かれたとされる)『安土日記』は(中略)村井貞勝が京都に計画中であった『二条御新造』との建築の造作仕様比較のために見学した記録で、安土城天守の内部すべてを必要十分条件において記録したものではない。(中略)主要座敷部分に限られたものであるとの理解がない」と反論している。
実際『安土日記』(信長記Ⅰ類本)の記述を確認すると地下の石蔵についての記述はないし、屋根裏部屋的な四階については「御繪ハなし。南北の破風に四畳半之御座敷兩方在之、こやの段と申也。」と簡素な記述になっている。ここから想像されるのは、内藤氏の指摘どおり、『安土日記』における天主の記述は案内された部分のみの記録だということである。
次に宮上氏が問題にしているものは吹抜け中央に置かれた宝塔のようなものであるが、これについては安土城考(その7)で書いたので、ここでは省略する。
さらに宮上氏は吹抜け空間の二階に突き出した「舞台」である。「(舞台は)普通は正面三間・奥行き三間以上なのに、ここでは二間×二間の廣さしかない。その東に接續する「ゑん」(縁)を内藤氏は橋懸りと解しておられるが、それを假に認めたとしても普通左手にある橋懸りが右手にあるのは、やはり常規を逸脱しているといわざるを得ない」と指摘している。また、宮上氏は舞台と座敷の距離についても、観客席となる座敷の縁端から舞台前端までの距離を三間とする定法が存在しているので、座敷と舞台の距離が四間あるいは二間である「天主指図」二階の平面図は、舞台に関する常識のないものが描いたものだと断定している(宮上1977b:17)。
たしかに一般的に能の舞台は三間四方であるが、二間四方の舞台もないわけではない。たとえば大阪府岸和田市にある杉江能楽堂の舞台は二間四方であり、舞台正面の座敷までの距離は二間半である。これは宮上氏の言う能舞台の定法に明らかに違反している。
また、松永直美の論文には「能舞台の特徴は(中略)①本舞台が京間三間四方ないし二間四方の正方形であり」と記述されており、能舞台は二間四方であってもおかしくないことがわかる(松永2017:1)。
さらに、辻槙一郎の研究によれば、雑誌『能楽』に明治43 年(1910)に連載された「能舞台研究会」という座談会において、建築家の後藤慶二が「能舞台は古来方二間の小さな舞台が多かったと考えられる」「四条河原に構えた歌舞伎舞台とその時期の能舞台も共に方二間で、能舞台が三間 になったのは桃山時代の終わり頃と推測される」と発言している。加えて、同じ「能舞台研究会」には建築家であり能楽研究家であった山崎楽堂も参加しており「舞台の規模は、創始は二間四方で、寸法はおよそ12尺以上18間以内四方であったと思う」「足利末期に至るまでに三間四面、寸法がおよそ18尺四方ができ、桃山期は(二間四方と三間四方の)両方が存在した」と発言している(辻2019:65)。
つまり現在でも二間四方の能舞台の例はあるし、そもそも能や猿楽が始まった頃は二間四方の舞台が一般的で、足利時代末期になって三間四方の舞台が作られるようになり、桃山期は二間四方と三間四方の両方が用いられていたようである。したがって、安土城天主二階の舞台が二間四方であっても何もおかしいことはない。宮上氏が言うように「『天主指図」は、舞台に関する常識のないものが描いた」のではなく、宮上氏の知識に偏りがあったという証拠である。
3. 不整形平面の建築
「天守指図」の一階平面は不等辺八角形であるが、宮上氏は、日本の建築はほとんどすべて矩形平面であり、江戸、大阪、名古屋、姫路などの天守もすべて矩形であるので、安土城の天守も矩形であったはずだ主張している。
しかし、これも宮上氏の認識が誤っている。内藤氏によれば「創始期の天主(守)一階で隅部が直角の矩形平面は、実例が皆無であることが昭和四十年以降の研究で判明している。とくに天正期天守台構築は、地盤地形によるところ大きく、したがって台上は不等辺多角形になり、けっして隅が直角の矩形にならない。」(内藤2006:317)
4. 「天守指図」の署名押印
「天守指図」の最後尾には池上右平の署名と釣鐘状の篆刻印がある。この篆刻印は押印したものではなく、墨で影写したものである。このことから、この図は池上右平が描いた図を後人が透写したものだと考えられており、内藤氏は、透写したのは池上家七代の延世(のぶつぐ)だと推定している(内藤2006:163)。

宮上氏は、右平が書いた図を延世が透写したことについては否定していないが、「天守指図」は実際にあった安土城天守の設計図を写したものではなく、右平が想像で描いた図であると主張している。
その根拠の一つが、この署名と押印である。宮上氏は、透写した延世が自分の署名や篆刻印を残さず、右平の署名と篆刻印を墨で透写していることに注目し、「實際に寫しただけの延世が自らの署名押印をしていない以上、右平がそれをしているのは彼が作者だつたと考えるのが自然であろう」(宮上1977b:20)と述べている。
写しであれば署名押印をしないはず、右平の署名押印があるから右平の創作であるというのは論理の飛躍である。原本の完全な写しであれば署名押印をしないか、あるいは「右相違無之候写之者」などの文言を書き加えて署名押印するのが普通であろう。
しかし、何らかの原資料があり、その原資料を機械的に写したのではなく、何らかの加筆や編集を行った場合には署名押印することが考えられる。たとえば「天守指図」の場合、平面図の外に加えられた文章がある。これを右平が書き加えた、あるいは揃っていない図面を右平が同じ様式に整理整頓したというようなことは考えられないだろうか。
署名押印があるから右平が創作したものであるという論理には、かなり飛躍があるように思う。
5. 右平の建築に関する知識
宮上氏は、「専門技術者の大工なら、復原圖とはいえもう少し建築らしいものを描いたであろうし、また学者・好事家などなら、舞臺などに關して知識のなさを露呈することもなかったであろう。」(宮上1977b:20)と述べ、右平を建築に関するある程度の知識がある建築官僚だとみなしている。
この宮上氏の右平に対する評価は、「天守指図」の階段位置の不一致問題や吹抜け空間の存在、二階の舞台の大きさが二間四方であることなどを根拠としている。
しかし、階段位置の問題は、多少の記載ミスはあるものの宮上氏が言うほどの問題はないし、吹抜け空間は安土城考(その5)で考察したように構造的な必然性があって設けられたものであり、また舞台の大きさが二間四方であることについても問題はないことを検証した。特に舞台の大きさについては、逆に宮上氏の知識不足を露呈するものであることがわかった。
加賀藩(前田家)における大工組織は階層構造になっており、上から「御大工頭」「御大工」「御扶持方大工」となっている。右平は、上から2番目の御大工で、金沢城や関連施設、寺社などの普請(建設・修復)に従事していたと考えられている。
右平が建築の専門家ではなかった(「建築に関するある程度の知識がある建築官僚」であるという断定)は、宮上氏の偏見のように思える。
6. 右平が天主台形状を知り得たかどうか
「天守指図」は安土城天主台実測結果とかなりの部分で一致している。宮上氏は、この一致は「彼自身で遺跡を實測したか、それ以前からある資料を利用したか、いずれにしてもその可能性は否定すべくもないと思う。」(宮上1977b:21)と述べている。
つまり、安土城天主が炎上崩壊した跡、右平自身が天主台跡を測量したか、あるいは他の誰かが測量して描いた天主台の図面を入手して、『安土日記』(信長記 Ⅰ 類本)の記述を参考にして、想像で描いた図面が「天主指図」であると宮上氏は主張している。
この可能性について、内藤氏は「あえて想像をたくましくするならば、(右平が)安土城天守台跡を実測調査し、その結果をふまえて復元図を作成する可能性がないであろうか」(内藤2006:164)と自問した上で、以下の2点を根拠として、天守の礎石配置を後世の大工が知り得る可能性はないと断定している。
第一に、昭和15年(1940年)の発掘調査時に天守台跡に石蔵床面叩き漆喰が残っていたことから、天守台は天正10年(1582年)の焼亡以来そのまま放置されてきたと考えられること。
第二に、江戸時代の加賀藩の大工が幕府の許可なく他領の城跡を調査できた可能性は、政治的・現実的にないことである。
昭和の発掘調査報告書によれば「天主台の石垣の外側は、その上方約三分の一許りがすべて崩壊」しており、「天主台は宛らこれら土砂の巨大な盛土の如き狀態」であり「舊礎石は全面尺餘の厚さに埋もれてゐた」と記述されている。
写真を見ても礎石の位置が確認できるような状況ではない。さらに石蔵内に堆積している土砂や石垣の石などを取り除くと「礎石間全面に當初の叩き漆喰層の存在」を確認しており、「樹根はこの漆喰層に阻まれて、この層以下は浸入せず」とある。

もし仮に天主炎上崩壊の跡、礎石位置が確認できる程度まで石蔵内部が片付けられていたのであれば、風雨にさらされて、礎石間の叩き漆喰は流されてしまったはずである。(実際、平成の調査では当初の叩き漆喰層は、南東部と南部・北部・西部のごく一部でしか確認されておらず、床面では石灰等の成分が特徴的に検出されなかったと報告されている)
つまり、天主炎上崩壊後、(石蔵の一部を発掘した可能性は否定できないが)礎石の位置を測量できるように石蔵内部を片付けた者はいないのである。仮に天主崩壊後に誰かが天主の残骸を取り除き、礎石全体が露出するような状態にあったとしたら、昭和の発掘で明らかになった状態(礎石全体が30センチ以上の厚さの土に覆われて埋まっていた)にはならないだろう。
ちなみに平野部(特に河川の流域や扇状地)のように平坦な地形では徐々に土砂が堆積し地表は少しずつ高くなっていくが、山地では侵食速度が土壌の形成速度を上回るため、むしろ地表が削られていくことの方が多い。(現在の石蔵内部の地表は、写真でみると、昭和の発掘後の地表より少し低くなっているように見える)
こうしたことを考えると、内藤氏が指摘するように、天守台は天正10年(1582年)の焼亡以来、ほとんどそのまま放置されており、17世紀後半に産まれ1712年頃に亡くなった右平は当然として、石蔵内の礎石配置を含めて天主台を測量したものはいなかったと結論してよいのではないだろうか。
7. 小括 その4
以上のとおり宮上氏が「『天守指図』の粗本が実在した証拠がない」としてあげた理由のうち、階段の幅や長さが上下階で異なっているという点を除けば、ほとんど全てが証拠としての価値がないものであることがわかった。
まとめ(「天守指図」は偽書ではない)
安土城考(その7)から3回に分けて宮上氏の論文を考察してきたが、宮上氏が「天守指図」を偽書だとする根拠は、そのほとんどが正しくない。
宮上論文の考察の結果を簡単にまとめておこう。
「天守指図」に安土城天守遺跡と大きく矛盾するところはなかった。
石蔵中央の礎石がない場所にみつかった穴(中央ピット)は発掘結果からみても、建築の歴史から考えても掘立柱の穴ではない。この穴には何か宗教的なものが埋まっており、「天守指図」にあるように、宝塔(のようなもの)が立っていたと考える方が適切だろう。
吹抜けが『安土日記』などの史料に記載がないのは、村井貞勝が見学していないからである。
「天守指図」には『信長公記』善本と異なる点がいくつかあるものの、むしろ一致する点の方がはるかに多い。この両者の一致は『信長記』の記述が安土城天主の拝見記を基にしており、かつ「天守指図」が実際の安土城天主の設計図であるからである。
「天守指図」に描かれた階段の一部は、上下階で幅や長さに違いがあるが、これは単純なミスであり、その他の点で建築図面としておかしい点はない。
天守二階に設けられた二間四方の舞台は、建築史的にみて問題はない(当時は二間四方と三間四方の舞台が混在していた)。舞台建築の定法に反するという宮上氏の指摘は、逆に宮上氏の知識不足が原因であることがわかった。
天守は矩形平面であるはずだという宮上氏の指摘も、天正期における天守平面は地盤地形に左右されるため、台上は不等辺多角形になっていることが明らかになっているので、これもまた宮上氏の誤認識である。
昭和の発掘調査結果をみる限り、天主炎上崩壊後に誰かが天主台跡を実測調査し、その結果をふまえて右平が復元図を作成したという可能性はほぼないということも確認した。
以上のように、宮上氏の主張を裏付ける証拠は、そのほとんどが事実誤認や、宮上氏の知識不足を起因とする誤謬であり、「天守指図」は偽書であるという結論は間違っていると断定してよいだろう。
どのような経路で池上右平が安土城天守に関する資料を入手したのかはわからないが、右平が残した図面を延世が透写した「天守指図」は、安土城天守の設計図であると考えて間違いない。
次回は、「天守指図」が安土城天守遺跡と多くの部分で一致していることを説明したい。
安土城考(その10)に続く。
安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献 (著者あいうえお順)
Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 ーいしくら」https://www1.asitaka.com/sasi/sasi1.htm
石田 富男 / 尾崎 信一郎「安土城の図面『天守指図』の信ぴょう性検証(その1) -宮上茂隆氏の国華998号、999号の内藤氏論文批判に対する妥当性検証-」日本建築学会学術講演梗概集、2025、pp.115-116
岩橋隆浩「発掘調査から見る安土城~主郭部とはどのようなところか?~」(はちまん・あづちふるさとアカデミー 令和7年第2回事前勉強会資料)2025.7、https://hachiman-azuchi.com/img/25-0727shiryou.pdf
太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』新人物文庫、株式会社KADOKAWA、2013.10
小川守「安土城『天守指図』を巡って」2023.3
滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)2023.3、https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5391312.pdf
正見 泰「池上右平に関する史料の発見と考察」日本建築学会技術報告集 第16巻 第33号、2010.6、pp.735-738
高橋和生「安土城の復元」https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle
辻槙一郎「近代能楽専用施設の観覧領域に関する研究」2019.3、https://geidai.repo.nii.ac.jp/record/1386/files/hakubi593_full.pdf
内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12
内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2、同988号、1976.3
内藤昌「文化史上の安土城」美術情報2017-2025、2016.6、https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress013/日本美術/中世美術/桃山の美術/2637-2/
松永直美「世阿弥以降の能舞台様式の変化と『序破急(序破急五 段)』の関係性の研究」2017.1、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61737/29131_Dissertation.pdf
宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)
