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安土城考(その5) 高橋和生氏のブログ「安土城の復元」の紹介(続き)

(注)2026.1.13に一部を修正

 「安土城考(その3) 」で、高橋和生氏のブログ「安土城天主:静嘉堂文庫「天守指図」と内藤昌復元案を紹介したが、今回はその続編である。紹介したいブログは、以下の「安土城の復元」である。

https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle

 このブログは、高橋和生氏による安土城天主の復元に関する詳細な考察である。内藤昌氏の復元研究を基にして、建築実務者としての視点から「架構」と「吹き抜け」の構造的必然性を中心に論じている。今回は、このブログに基づいて、安土城天主の復元案(内藤案)の架構と吹き抜けの構造的必然性について書いてみたい。

 最初に断っておきたいことがある。当初は要約のつもりで書き始めたのだが、どうしても読み手の解釈が入り込み、私の考え方が混在してしまう。それであれば、いっそブログに書かれていないことも書き足した方が読みやすくなるかもしれない。そんな訳で高橋氏のブログをベースとした論考になってしまった。また、この投稿だけを読む人がいることを考えて「安土城考(その3) 」と重複している内容がある。ご容赦いただきたい。

 なお、ご興味のある方は是非、高橋氏のブログ本文を、また併せて高橋氏の恩師である内藤昌先生のご著書『復元 安土城』をお読みいただきたい。

0. はじめに—失われた巨大建築の影

 織田信長が琵琶湖のほとりに築いた安土城天主は、わずか3年間しか存在しなかった幻の建築である。天正10年(1982年)の本能寺の変からわずか13日後に、この前代未聞の高層建築は炎に包まれて姿を消した。

 現在、安土城の天主の姿を語るとき、そこには常に「復元」という言葉がつきまとう。しかし、復元とは単なる想像力の産物ではない。残された史料と考古学的証拠、そして何より建築技術の論理的帰結として、当時の姿を可能なかぎり探り当てる作業だと高橋氏は語っている。

1. 内藤昌氏による画期的復元研究

 内藤昌氏による安土城天主の復元研究は、この分野における画期的な業績である。内藤は、加賀前田家の大工・池上家に伝わる「天守指図」という設計図面を発見し、これを『信長公記』の記述および発掘調査で明らかになった八角形の石垣遺構と照合することで、説得力のある復元案を提示した。

 その研究成果は、まず「安土城の研究(上)」が『国華』第987号、「同(下)」が第988号として1976年に掲載され、その後『復元・安土城―信長の理想と黄金の天主』が講談社選書メチエの一冊として1994年5月に出版されている。さらに2006年12月に講談社学術文庫から『復元 安土城』が刊行されている。

 内藤案の最大の特徴は、天主中央に大きな「吹き抜け」空間を配置したことである。もちろん「天守指図」に基づく設計である。吹き抜けは、地下の石蔵から三階まで貫く暗闇の空間になっている。この設計が公開されると、一部の研究者から、この吹き抜けは当時の建築常識からは考えられないものだと強い批判を浴びることになった。例えば、1977年、宮上茂隆は「吹き抜けなど『信長公記』に記述がない。天守指図は偽書である」と主張し、内藤案への疑問を呈した。

 しかし、建築実務を約40年経験した高橋氏は、この吹き抜けという構造を建築工学上の視点から考察し、天主に対する要求に対する当然の帰結であると考えている。つまり、この吹き抜けは宗教的象徴でも演出空間でもなく、きわめて実践的な構造的必然性から生まれたものだと言うのである。

2. 大工の知恵—巨大建築を支える架構の工夫

 信長公記によれば、信長が安土山に城をつくるように丹羽長秀に命じたのは天正4年(1976年)の1月である。しかし高橋氏は、この3年前の天正元年(1573年)8月浅井を滅ぼした時に「安土山の頂上に高さ百尺(約30メートル)の館を築け、そこにワシは住む」と信長が命じたのだと想像している。天主建築を任された大工棟梁の岡部又右衛門は、安土山の山頂という限られた敷地に、信長が居住する高層建築を建てるにはどうすればよいのか、相当に悩んだに違いない。

 安土山の山頂は御殿を建てるほどの広さはない。必然的に高層の建物にするしかない。高さを求めるには、下層の平面を大きくし、ピラミッドのように積み上げる必要がある。すると必然的に、低層階の内側(中心部)には光の届かない部分ができる。平屋建てなら中庭を設けて採光できるが、多層建築ではそれは不可能だ。ならば居室は外壁周囲にのみ配置し、中央は空洞にするしかない。岡部又右衛門はそう考えたのだと高橋氏は推察している。

 この光の届かない空洞空間こそが「吹き抜け」の正体である。岡部又右衛門は地下一階に相当する石蔵に22本の柱を巨大な木枠のように組み上げ、全体で天主の「心柱」として機能させた。この構造であれば、東大寺大仏殿のような巨大な材木が手に入らなくとも、複数の柱を組み合わせることで、百尺の高さに耐える架構を実現できる。
 つまり、吹き抜けは、信長の要求に応えるための構造的解決策だったのである。高橋氏はそう考える。

3. 暗闇の空間—吹き抜けの実態

 ただし、この吹き抜けは現代建築の吹き抜けとはまったく異なっている。現代の吹き抜けは、上下階をつなぎ、視線を通し、光を導く装置としての機能を持つ。しかし安土城の吹き抜けに、そのような機能はなかった。

 安土城天主の吹き抜けは、三階の居室からわずかに光が漏れるものの、基本的には暗闇が支配する空間だった。岡部又右衛門は意図的に、この空間に人を入れさせなかった。地下の石蔵階には宝塔が置かれ、その周囲を格子で囲んで、人が吹き抜けの底に立ち入ることを防いだ。二階の舞台も、三階の渡り廊下も、すべて吹き抜けに面してはいたが、その空間全体を体験させるようには作られていなかった。

 つまり、この吹き抜けは「名前のない空間」だったのである。当時の人々には、多層を貫く空間という概念そのものがなかった。だからこそ太田牛一が記した『信長公記』に吹き抜けの記述がないのも当然である。
 
 周知のとおり『信長記』の巻第九の「安土御天主之次第」に安土城天主の間取りに関する情報が記載されている。この記述は、京都所司代であった村井貞勝が天正七年正月に総普請奉行の林貞勝とともに完成した天主の見物を許可され、それを記録した村井貞勝の拝見記が基になっているというのが定説である。つまり、二人は石倉(地下1階)と同様に、吹き抜けを見学していないから『信長公記』に吹き抜けの記載がないのだと考えられる。

4. 信長の居住空間—天主は信長の御殿であった

 高橋氏は安土城天主について、もう一つ重要な指摘をしている。それは、安土城天主が単なる軍事施設や儀式の場ではなく、信長が実際に居住した屋敷だったという点である。これを見落とすと、天主の構造を正しく理解できない。安土桃山期以降の巨大城郭では、天守とは別に本丸御殿があり、そこが生活の場であり政治の場であった(江戸城も名古屋城も、大阪城も姫路城も本丸に生活と政治の場である本丸御殿があった)。しかし、安土城の場合には、天主こそが信長の生活の場であり、政治の場であった。

 1969年に、当時国会図書館分室であった静嘉堂文庫で発見された「天守指図」が示す平面構成は、中世の館城を多層に積み上げたものになっている。一階を遠侍、式台、対面所などの公式な応接空間が並ぶ「表」とし、二階に広間(会所)を設けて「中奥」に、そして三階を「奥」として内向けの対面のための書院や信長の居室を設けた(西側の「岩の間(いわの間)」が信長の私室であり、「御鷹の間(すたかノ間)」が奥方の部屋である)。
 つまり、信長は三階で日常生活を送り、客人を迎えるときは裏階段で二階に下り、そこで衣装を整えてから西側にある裏階段で一階の対面所に現れたのだろうと考えられる。これは武家屋敷の「公→奥」のヒエラルキーそのものだと高橋氏は指摘する。

 さらにその上、四階の屋根裏的な空間を経て、五階と六階には足利義満の金閣寺を模した空間が築かれた。黒漆に金箔を施した壁面に、中国の古事を描いた障壁画。ここは「儒仏不二」「三教一致」を体現する、信長の権威を示す空間だった。天主全体は、生活の場と権威の場を垂直に積み上げた、まさに「天に住む主」の宮殿だったのである。

5. 石垣という技術的挑戦

 安土城天主を支えたのは、穴太衆による石垣技術だった。しかしこれも、多くの誤解にさらされていると高橋は言う。石垣は建物の基礎ではなく、盛土を崩れないように保持する土留めの役割を果たすに過ぎない。天主の重量は、その下にある地山が直接支えていた。

 安土山の山頂という面積的に限られた敷地に、十七間(約30メートル)四方の天主台を確保するため、穴太衆は根石を(おそらく山頂の形状に合わせて)八角形に配置した。通常は三十度の勾配で安定する盛土を、石の重みで押さえつけることで七十度の急勾配を実現する。これは石垣技術の限界への挑戦だった。しかし初めての試みゆえに、すべての面を同じ角度で積み上げることはできなかった。

 天正十年の火災で天主が崩れ落ちたとき、その重みで石垣も崩壊した。現在の遺構が示す不規則な八角形は、当初の設計と施工の困難さ、そして最期の破壊の痕跡を物語っている。

6. 復元研究の意義—学問としての建築史

 内藤昌の復元研究が画期的だったのは、それが単なる想像図ではなく、複数の一次史料を総合的に検証した「復元的研究」だったからである。天守指図という設計図、信長公記という文献史料、そして八角形の石垣という考古学的証拠。これらすべてが矛盾なく一致するとき、そこに現れる姿こそが、歴史的真実に最も近いものとなる。

 過去、何人もの研究者が自由な想像力で安土城を「復元」してきた。しかしそれらの多くは、建築技術の論理を無視し、史料の精密な読解を欠いていると高橋氏は指摘する。

 真の復元研究のためには、その時代の技術水準、施工の実際、人々の空間認識、そして何より建築主の意図を総合的に理解することが不可欠である。安土城は単なる城郭ではなく、信長が目指した新しい都市の中心であり、天下統一の象徴であり、そして何より信長自身が住んだ宮殿だった。この多面性を捉えてこそ、私たちは歴史の真実に近づくことができる。

7. おわりに—未来に向けて

 安土城天主は失われてしまった建築である。しかし内藤昌をはじめとする研究者たちの努力によって、私たちはその姿を科学的に推定することができる。それは単なる好奇心の充足ではなく、日本建築史における画期的な建築物への理解であり、近世城下町文化の起源への洞察であり、織田信長という歴史的人物の思想の具現化と言ってよいだろう。

 滋賀県が観光資源として安土城を活用しようとすることは理解できる。しかし発掘結果をねじ曲げ、「天守指図」を偽書と決めつけて、平凡な想像力に頼った「復元」を支持することは、建築史を貶めるだけでなく、文化財保護の観点からも、教育的観点からも問題がある。
 内藤復元案は、約半世紀にわたる批判的検証に耐えてきた学術的成果である。その上にさらなる研究を積み重ねてこそ、私たちは安土城の真実に迫ることができるのではないだろうか。

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献


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