安土城考(その3) 高橋和生氏のブログ「安土城の復元」の紹介
(注)2026.1.7に加筆修正
0. はじめに
インターネット上で安土城に関する資料を探して読んでいるのだが、秀逸な論考(ブログ)があるので紹介しておきたい。
安土城天主:静嘉堂文庫「天守指図」と内藤昌復元案
https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle-sashizu/
『復元安土城』の著者である内藤昌氏の弟子である高橋和生氏の論考である。高橋氏は40年以上のキャリアを持つ一級建築士である。この論考は、安土城研究の第一人者であった内藤氏の「安土城復元案」の正当性を、建築実務・構造解析・都市史という三つの多角的な視点から確認したものだと言えよう。
なお、内藤昌著の『復元安土城』については「安土城考(その1) 『復元安土城』を読んで」で紹介しているが、安土城に関心があるのであれば必読の書である。
織田信長が築いた安土城は、日本の城郭史において特別な位置を占める。天主の嚆矢として知られるこの建築物は、単なる軍事施設ではなく、信長の天下統一への野望と革新的な都市構想を体現したものであった。内藤昌氏による復元研究は、この安土城天主の真の姿を明らかにし、日本建築史に新たな光を当てた。高橋氏の論考は、その復元研究が示す安土城の革新性と、現代に至るまで続く議論について考察している。
以下は、この高橋氏の論考の要約である。私なりの解釈や考え方が多少混入している可能性が高いので、できれば是非、高橋氏の論考本文を読んでいただきたい。
1. 「城は都市である」という視座
内藤昌が常々語っていた「城は都市である」という言葉は、安土城を理解する上で最も重要な視点である。多くの人々は天守を城の本質と捉えがちだが、実際には城とは都市の概念を持つものであった。安土城は天守の誕生地であると同時に、近世城下町の原型でもあった。
信長は安土山を須弥山に見立て、その山頂に高さ百尺の館を築いた。これは単なる権力の誇示ではなく、新たな都市構想の中心として計画されたものである。八百年間唯一の都であった京都をしのぐ「安土」という新都市の創造こそが、信長の真の目的であった。城下町の構造は現代都市にまで引き継がれており、安土城はその起点として位置づけられる。
2. 天守指図が示す革新的な構造
1969年、内藤昌は静嘉堂文庫(当時は国会図書館分室)において加賀前田家の大工・池上家の資料中から「天守指図」を発見した。この図面は、三代目池上が17世紀後半に写した祖本を、七代目池上が18世紀半ばに再び写したものである。この発見は安土城研究に革命をもたらした。
天守指図が示す最大の特徴は、中央に設けられた巨大な吹き抜け空間である。これは当時の日本建築において前例のない構造であり、多くの研究者を困惑させた。1977年、宮上茂隆は「天守指図は偽書である」との説を発表し、吹き抜けの存在を否定した。しかし、昭和15年から17年にかけての発掘調査報告書や、八角形の石垣実測図と天守指図の一致は、この図面の信頼性を裏付けている。
3. 吹き抜けの工学的必然性
安土城を作った熱田神宮の宮大工であった岡部又右衛門は、なぜ中央に吹き抜けを設けたのか。これは単なる意匠上の選択ではなく、構造工学上の必然であった。信長が求めたのは「安土山の頂上に高さ百尺の館を築き、そこに住む」という前例のない要求である。高さを求めるには平面を大きくしてピラミッドのように積み上げる必要があるが、そうすると低層の内側には光が届かない。
岡部又右衛門が考案した解決策は、中央を空洞にして居室を外壁周囲に配置し、二十二本の柱を組み上げて一気に建ち上げるという方法であった。東大寺大仏殿のような大材が入手できない状況で、複数の柱を組み合わせて構造の中心「心柱」とする工夫である。この中央の暗闇空間が、後世の人々が「吹き抜け」と呼ぶものとなった。
重要なのは、この空間が現代建築における吹き抜けとは性質が異なるという点である。現代の吹き抜けは「見る、見られる」という垂直方向の視線交流を意図するが、安土城の吹き抜けは構造上の要請から生まれたもので、直接的な採光も限られていた。穴倉階には多宝塔が置かれ、拝所から格子越しに拝む設計になっていたが、吹き抜けの底に人を入れさせず、多層の空間として体験させない配慮がなされていた。
3. 主殿造から近世武家屋敷へ
天守指図を仔細に検討すると、これが単なる軍事施設ではなく、信長が実際に居住した御殿であったことがわかる。中世の「館城」は平屋建ての主殿造であったが、安土城ではこれを三層に積み上げる構造が採用された。
一階には遠侍、台所があり、客を迎える玄関機能を果たし、また南側には上段や盆山の間を持つ対面所の諸室がある。二階は対面所と舞台を備えた接待空間であり、裏階段で一階の台所から配膳室に料理を運べる構造になっていた。そして三階西側の「岩の間」こそが、信長の居室である。
この構成は、後の江戸時代の御殿建築へと発展していく過程を示している。公的な対面の場から徐々に私的空間へと移行する「公から奥へ」のヒエラルキーが、垂直方向に展開されているのである。さらに四階の屋根裏を経て、五階・六階には足利義満の金閣寺を模した「儒仏不二」「三教一致」のパビリオンが載せられ、信長の権威を天下に示した。
4. 石垣と造成の技術
安土城の革新性は建築だけでなく、造成技術にも表れている。巨大な天主の重量を支えるには地山の造成が不可欠であり、石垣はその土留めの役割を果たす。多くの研究者が誤解しているのは、石垣そのものが建築の基礎になると考えている点である。実際には地山を削り、石垣で土を押さえて建築敷地を作り出すのであり、安土城の八角形の石垣もこの原理に基づいている。
宮上茂隆の復元案は、八角形の石垣の上に四角形の天主を置き、残りの石垣に蓋をするという不合理なものであった。大工は折角作った石垣を無駄にするような設計はしない。内藤昌の復元案が石垣の形状と整合するのは、天守指図が実際に施工された建築を反映しているからにほかならない。
5. 信長の天道思想と牛頭天王信仰
内藤昌は安土城天主の思想的背景として「天道思想」を指摘した。これは既往のイデオロギーを超越し、王法・仏法を統合する信長の世界観を反映するものである。安土山を須弥山に見立て、山頂の天主に住むことで、信長は「統一絶対神」「総合絶対神」としての地位を確立しようとした。
しかし、実際の設計過程では、より具体的なイメージが必要であった。信長の故郷である津島の牛頭天王社との関係や、宣教師との交流から得た西洋建築の知識が、天主の造形に影響を与えたと考えられる。五階・六階の黒漆と金箔の意匠は、まさに金閣寺の再現であり、日本国王であった足利将軍を連想させる象徴性を持っていた。
6. 現代に続く論争
内藤昌の復元研究から半世紀が経過したが、安土城をめぐる議論は今なお続いている。宮上茂隆の「偽書説」は否定されたものの、考古学者や城郭研究者の中には、天守指図の信頼性に疑問を抱く者もいる。特に滋賀県の観光政策において、内藤案が軽視され、新たな「復元案」が次々と提示される状況は問題である。
歴史的建造物の復元は、観光資源の創出が目的であっても、学問的な根拠に基づくべきである。内藤昌の研究は、書誌学、建築史学、都市史学を統合した「復元的研究」の模範であり、その成果を正当に評価し継承していくことが求められる。
7. おわりに
安土城天主は、日本建築史における画期的な転換点であった。信長の野望が生み出した革新的な構造と空間構成は、単なる軍事施設の枠を超え、近世都市と武家屋敷建築の原型を示すものである。内藤昌の復元研究は、この歴史的建造物の真の姿を明らかにし、後世に伝える貴重な業績である。
「城は都市である」という視座のもと、安土城を総合的に理解することは、日本の都市史・建築史を学ぶ上で不可欠である。吹き抜けという構造的工夫、主殿造の垂直展開、石垣造成技術、そして天道思想の具現化、これらすべてが統合された安土城天主は、信長という時代の革新者が残した最大の遺産であり、現代においてもなお学ぶべき価値を持ち続けている。
今後の研究においては、内藤昌の成果を基礎としながら、さらに工学的検証や歴史的文脈の解明を進めることが期待される。安土城は単なる過去の遺構ではなく、日本建築の創造性と技術力を示す生きた教材なのである。
