安土城考(その13)心柱説の信憑性(補遺)
安土城天守台跡の石蔵内には天主を支えた礎石が2.1メートル間隔の格子状に整然と並んでいる。ただ不思議なことにほぼ中央の一箇所だけ礎石のないところがあり、昭和の発掘で、この部分に穴が発見された。
この穴は「中央ピット」と呼ばれており、一部の研究者から、天主の心柱の痕跡であるという説(心柱説)が唱えられている。しかし、この穴の形状と建築史における掘立柱に関する知見から中央ピットが心柱の痕跡とは考えられないという論考を「安土城考(その4)」で書いた。
今回は、この論考に少し間違いがあった(仏教寺院における地下式心礎の木塔の柱穴の深さに誤りがあった)ことに気付いたことに加え、書き忘れたことや、その後に発見した論文等があるので、今回、もう一度「心柱説の信憑性」について取り上げたい。
心柱説を唱えているのは誰か
「安土城考(その4)」で書いたように心柱説を唱えている代表的な研究者は、「天守指図」は池上右平が創作した偽書だと主張した宮上茂隆氏(当時は東京大学工学部建築学科助手)、広島大学文学部の紀要「史学研究」第255号(2007.2)に「安土城天主の平面復元に関する試案」を発表した佐藤大規氏(当時は広島大学大学院文学研究科博士課程後期の大学院生)、建築史学会の学会誌「建築史学」の76号に「安土城天主に関する復元的考察(その一)―一階から三階までの部屋割り―」を発表した中村泰朗氏である。
ただし、中村氏の論文中には、中央ピットが心柱の柱穴であるという直接的な記述はみつけられなかった。しかし、中村氏の博士課程の指導教員が(佐藤氏と同様に)三浦正幸氏であること、中村氏が作成した天主復元一階の部屋割り図と天主復元断面図(滋賀県2023:16-18)を見ると、中央ピットの位置に柱があることから、心柱説を支持していると推察される。
佐藤氏の論文
佐藤氏は2007年の史學研究255号(広島史学研究会)に発表した「安土城天主の平面復元に関する試案」において、中央ピットについて、以下のように述べている。
ところで、詳しくは後述するように、天守台穴蔵(地階)内の中央部は礎石を欠き、地階遺構面下に巨大な穴が検出されている。これは発掘を担当した木戸雅寿氏の教示によると、掘立式の心柱の跡と考えられ、本稿の復元案では一階平面では、北側の納戸の半間西側を通って立ち上がることになる。
広島史学研究会、2007.2、pp.7-8、太字は筆者による
つまり、中央ピットは掘立式の心柱の跡だという考えは、自分のものではなく、発掘を担当した木戸雅寿氏の教えによるものだと書いている。
また、佐藤氏は同論文の中の「五、心柱についての考察」という節では、以下のように述べている。
前述したように天守台穴蔵の中央部は礎石を欠き、穴が検出されている。この穴は昭和十五年の調査ですでに発見され、『滋賀縣史跡調査報告第十一冊安土城趾』に記述があるが、詳細は判然としておらず、天守復元の際の問題点となっていた。近年詳細な調査が行われ、穴は、東西約一・四メートル、南北一・二メートル、深さ約一メートルで、昭和発掘時の報告と比べると約二倍の大きさであることが明らかとなった。また宝塔のような施設の痕跡や残欠は発見されなかった。
以上のことから、この穴を巨大な掘立の心柱の柱穴と考えた。上記の昭和十五年の報告書に記述がある穴の中に充満していた炭は、天守焼失時に焼けた心柱の池上部分付近が炭化し、その後、地下に焼残していた心柱下部が腐朽消失したために落下してたまったものと考えられる。
広島史学研究会、2007.2、p.13、太字は筆者による
なお、佐藤氏はこの論文の続編とも言える「安土城天主の構造および外観に関する復元考察」(史學研究283号、広島史学研究会、2014.3)でも、以下のように、心柱説を支持している。
前稿で述べたように天守台穴蔵のほぼ中央に存する巨大な穴は、掘立式の心柱の穴と考えた。そしてその心柱が「本柱長さ八間」に相当すると指摘しておいた。この心柱の長さは、一間を六尺五寸で換算すると五十二尺となる。
広島史学研究会、2014.3、p.27
中央ピットの大きさと深さの問題
前項で引用した佐藤氏の論文を見ると、佐藤氏は中央ピットを「巨大な穴」だと表現している。しかし「安土城考(その4)」で指摘したように、心柱の穴としては小さすぎる。仏教寺院の木塔と比べるのは適当ではないのかもしれないが、心柱の穴の大きさは、旧中宮寺では一辺 が 3m、法輪寺では一辺が約 4.5m、飛鳥寺では約 10m四方である(佐川 2003:130)。
建築史を専門とする佐藤氏であれば、「巨大な穴」ではなく、むしろ「小さめの穴」と表現してもおかしくない。
中央ピットの深さも心柱の穴としては浅すぎる。中央ピットの深さは1.1mであるが、旧中宮寺、法輪寺、飛鳥寺の木塔の場合、心柱の穴の深さはもっと深い。
「安土城考(その4)」で、旧中宮寺の木塔の心柱の穴の深さは 1.8m、法輪寺は約 2m 、飛鳥寺で約 3mだと書いたが、これは間違いであった。この数字は元の地面からの深さで、実際には地表の上に築かれた基壇があるので、この基壇の厚さを加えないと本当の穴の深さにはならない。
佐川氏の論文を読むと、法輪寺の場合には基壇上面から心礎上面までは約2.7m、旧中宮寺と飛鳥寺の場合には基壇の厚さが不明であるが、仮に1mだとすれば、穴の深さ(基壇上面から穴の底部まで)は旧中宮寺は約3m、飛鳥寺は約4mだったことになる。
これらの木塔の高さがどのくらいであったかは不明であるが、法隆寺の五重塔程度だったとすると、その穴の深さは柱の長さの10分の1から8分の1程度だと推定される。
仏教寺院以外の建築物の掘立柱の事例も見てみよう。平城宮大極殿院の正面を飾る東楼は2026年3月に復元されたが、この東楼の外側に立つ柱が掘立柱なのだが、その柱穴の大きさは3m×2.5mの長方形で、深さは3m以上ある。柱の高さは約12mとされているので、柱穴の深さは地上に出ている柱の長さの約4分の1である。
また、掘立柱である伊勢神宮の正宮本殿の棟持柱は、地表から棟までの高さは約10mであるが、(北白川道久氏の談話によれば)柱自体の長さは12mであるので、柱穴は約2mだと推測できる。つまり、柱穴の深さは、柱の地上に出ている長さの5分の1程度である。
こうした事例から推測すると、仮に安土城天守の心柱が52尺(15.8m)の柱であれば、少なくとも2m弱から4m程度の深さの柱穴が必要だということになる。中央ピットの深さは1.1mなので心柱の柱穴としては浅すぎるということがわかる。
中央ピットの断面形状の問題
中央ピットの形状も柱穴の形状としては不思議な形をしている。
ある程度規模の大きな建築物の柱穴は円筒形か方形であり、その底は真っ平ではないにしても、多少の凸凹はあるものの概ね平らか、中央がやや凹んでいるものが多い。また、長い柱の場合には、沈み込み防止のために底に礎石が置かれていたり、小石がひかれていること場合もある。
掘立柱建築の発掘報告書には、一般的に発掘で明らかになった柱穴の形状が記載されている。たとえば、以下の図は、千葉県市原市武士遺跡(縄文時代)の発掘調査報告書に記載されている柱穴の断面図である。

研究連絡誌、千葉県文化財センター、1983.3、p.4
これに対して、中央ピットは、発掘時に描かれた図面を見ると、円筒形でも方形でもなく、底には礎石も小石もなく、平らでもない(柱が立っていたなら底はもう少し平らになっているはずではないか)。中央ピットの形状は、平成の発掘調査結果に「断面形状は長靴形」と書かれているように、垂直ではなく斜めに掘られているように見える。これでは、柱を真っ直ぐに立てることはできないのではないだろうか。

掘立柱は腐りやすいという問題
中央ピットの穴の形状、大きさ、深さの問題より重要なのは「掘立柱は腐りやすい」という問題である。これは建築を知らない人でも常識だと思っていたのだが、実際に木製の掘立柱の根本が腐っているのを見たことのない世代には常識ではないのかもしれない。
しかし、建築史を学んだ研究者であれば、掘立柱の根本が腐りやすいことくらいは知っているだろう。
九州大学名誉教授で、2019年から名古屋城調査研究センター所長である服部英雄氏の著作に、掘立柱に関する文章があったので、少し長いが引用させていただく。
よく知られているはずだが、土中に埋め込む掘立柱は腐りやすく、寿命は一○年程度だった。樅の大木を使う諏訪社の御柱は、六年ごとの式年祭で計一六本すべてが更新される。一本のみでも安定して立ちつづける寿命は、御柱ほどの太さがあったとしても七年程度であろう(九州では鯉のぼりののぼりざお[柱]を土中に埋めて立てるが、三年程度で切り倒す)。ちなみに木の架空線支柱(電柱など)の法定耐用年数は一五年である。コールタールを塗ることにより、強化し寿命を伸ばした。平城京の宮内省大膳職は都城として機能した約七○年間で五回の建て替えがあり、宮殿建物の平均寿命は一四年とされている。式年遷宮をおこなう伊勢神宮正殿は弥生時代の高倉に似た構造である。木曾の良材を使用し、一二本の太い柱で支え合うが、式年二○年で建物は更新される。二○年が限界であろう。短命な掘立柱建物に恒久性は求めえない。掘立柱では高層建物も重量建物も考えにくい(寿命の長い掘立柱もないわけではなく、丸岡城天主や法隆寺五重塔の心柱は掘立柱である。法隆寺五重塔は改築以前には地下二・七メートルに心礎を持っていた。しかし、心柱以外は礎石建物であり、重量は礎石が支えた。掘立柱一本のみを併用したもので、掘立柱建築とはいえない)。
吉川弘文館、2010.7、p.282
服部氏によれば、土中に埋め込む掘立柱は腐りやすく、その寿命は10年程度である。もちろん柱の材質や柱のある土地、環境によっても異なるのでもっと寿命の長い掘立柱もあるだろうが、通常は20年程度が限界だと考えてよいだろう。
電柱や電信柱はコンクリート製になっているので、木製の電柱や電信柱を建て替える工事もめったに見られなくなったが、私が子供の頃は珍しい光景ではなかった。ちなみに、電柱や電信柱の防腐処理に使われていたのは、コールタールを原料に作られるクレオソート油である。
それから、長寿命の掘立柱の例として挙げられている丸岡城天主は「安土城考(その4)」でも書いたように、創建時は天守台を2尺5寸ほど掘り下げた床下空間が埋められたために掘立柱になったもので、当初は床下空間に礎石を置いて建てられた柱であったのだそうだ。つまり、丸岡城の掘立柱は事後的に掘立式になったものなので、掘立柱を用いた天守の事例にはあたらない。
昭和の発掘による結論を変更したのは誰か
心柱説を支持している佐藤氏も中村氏も広島大学大学院文学研究科の出身であり、その大学院時代の指導教員は三浦正幸氏(現在は広島大学名誉教授)である。この三浦氏もまた心柱説を唱えている研究者の一人である。
この三浦氏が安土城遺跡を紹介している動画がYouTubeで公開されている。「歴史探訪レキトビラ」というYouTubeチャンネルで、安土城の回は以下の次のURLで視聴することができる(https://www.youtube.com/watch?v=tnqoUd-twLA)。この動画の36分くらいから石蔵内の解説が始まり、38分30秒くらいに話題が中央ピットに移る。説明をしているのは三浦氏と滋賀県文化スポーツ部文化財保護課の木戸雅寿氏である。ちなみに三浦氏は東京大学工学部建築学科の出身であり、木戸氏は奈良大学文学部史学科卒である。
この動画から中央ピットに関する重要だと思われる部分を切り出してみた(完全な文字起こしではないので、文責は筆者にある)。
(木戸)最も不思議なのが、いわゆる中心に来る柱、大黒柱の位置に礎石がないことです。これが最大の安土城天主の謎って言われてる。ここが中心になるので、ここに姫路城みたいに親柱が来ないといけないはずなんですけれどもないんです。これについて誰も解明した人はいない。天主の構造については(三浦)先生に聞いてみないとわからないので、ちょっと聞いてみましょう。先生、どうですか?
(三浦)まずですね、ここの下を戦前も発掘したんですけど、木戸さんがもう一回発掘して。この真ん中から、変わったものが出てきたんですよね。それをまずお聞きしないといけない。ここにね、大きな穴があったんです。
(女性)穴?
(木戸)穴が。不思議なことに、すっぽりと何か立つような穴があった。
(三浦)深さどんなもんでした?
(木戸)深さ結構腰ぐらいまであったかな。
(三浦)1メートル以上?
(木戸)ええ、1メートル以上ですね。
(三浦)何の穴でしょうか。その中に入っていたものは何でしたか?
(木戸)出てきたものは、瓶の破片とかも出てきてましたし、黒くなった炭化物みたいなもの(たぶん焼き落ちた状況のままを示しているようなもの)が出てきて。それをどう考えるかっていうことですね。
(女性)どう考えるんですか?
(三浦)想像逞しくすると、穴が空いているということは、ここのところでしかも礎石がない。でも天主のこれ本当に真ん中なんです。その穴の上にですね、姫路城みたいに大きな柱、大柱、または心柱を立てていた。そうするとこれは真ん中ですから、礎石がなくて1メートル以上深いということは、ここに掘立柱って立っていたと思うんですよね。
(女性):おおー!
(木戸):このやり方って、実はすごい古いやり方なんですね。古代でもあるんですけど。真ん中だけ掘立にして周りを礎石(柱)にして、それに寄せ掛けていくんですよ。そういうような建て方もあるかな、と。
(三浦):ここはですね、あの当時の日本人が誰も登ったことのない高層建築なんです。地上6階建て地下1階建て、合わせて7階建てになるんです。(高層建築なら)あの五重の塔があるじゃないかと言いますけど、五重の塔って1階建てなんですよ。2階から人が登れない。
(女性)あ、登れない。
(三浦)登れないんです。で、安土の場合はですね、地上6階部分、一番てっぺんまで信長公が登られていたので、要するに日本人が登った一番超高層建築を建てよう。でも誰も建てたことがない。しかもこれ琵琶湖の湖畔に立っていたので、やたら強い風が吹くんですよ。そうなると風と地震に対して非常に気になるんですよね。そうすると真ん中の1本だけは絶対に風でも地震でも動かないようにしたほうがいいんじゃないか、ということで掘立柱にしたのかな。建てたのは名古屋熱田神宮の宮大工、岡部又右衛門ですから。彼がそういう発案をしたのかもしれません。で、これはあくまで想像なんですけど。そうするとここに真ん中に1本大きな柱が立っている。
で、信長公記が正しいとすると、一尺五寸とか書いてありますから、45センチ角のこんな大きな柱ですよね。それが、長さが八間と書いてありますから大体15メートルに近いような柱がここにそそり立っていたということになります。まあ解釈によっていろんな人がいるので、一概には言えません。
この動画をみると、三浦氏だけでなく、木戸氏も中央ピットを天守の心柱の柱穴だと考えていることがよくわかる。ちなみに、木戸氏の著書『よみがえる安土城』にも、中央ピットには掘立柱が立っていた可能性が一番高いという記述が見られる(木戸2003:72-76)。
以上のことから考えると、「謎の穴」に対する答えとして一番可能性の高い結論は漆喰のない部分で発見された穴に、掘建立柱が立っていたのではないかということである。まさにこのことから天守の大黒柱用の穴が想定されるのである。
この木戸氏の結論は、昭和の発掘調査結果の「穴の底の狀況其他より考へて少くも掘立柱の穴とは考へられなかつた」を真っ向から否定するものである。また、平成の発掘調査結果の「この遺構(注:中央ピット)の機能については、昭和の報告書の見解は超えられないが、掘立柱の可能性も捨てきれない」のニュアンスともかなり異なっている。
木戸氏は平成の発掘調査のメンバーであることを考えると、昭和の発掘における結論を変更し「掘立柱の可能性も捨てきれない」と主張したのは木戸氏だと考えてよいだろう。
次回からは「天守指図」と「信長記」の関係を考えてみたい。
(「安土城考(その14)」に続く)
安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献 (著者あいうえお順)
⼩川守「安⼟城『天守指図』を巡って」2023.3
木戸雅寿『よみがえる安土城』吉川弘文館、2003.12
佐川正敏「日本古代木塔基壇の構築技法と地下式心礎、およびその東アジア的考察」東北学院大学論集. 歴史と文化40号、2003.6、pp.126-143
佐藤大規「安土城天主の平面復元に関する試案」史學研究255号、広島史学研究会、2007.2、pp.1-22
佐藤大規「安土城天主の構造および外観に関する復元考察」史學研究283号、広島史学研究会、2014.3、pp.22-52
滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)」2023.3、https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5391312.pdf
関口達彦ほか『縄文時代の掘立柱建物跡 - 市原市武士遺跡の成果から -』
研究連絡誌、千葉県文化財センター、1983.3中村泰朗「最新の発掘成果に基づいた安土城天主の復元的考察」前田記念工学振興財団研究報告、2020.6
中村泰朗「安土城天主に関する復元的考察(その一)―一階から三階までの部屋割り―」建築史学」76号、建築史学会、2021.3
服部英雄「[史跡を視る目]城郭復原無用論」『史跡で読む日本の歴史 8』吉川弘文館、2010.7、pp.279-304
宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)
