安土城考(その14)天守指図と信長記①
「天守指図」は偽書であるという主張する人たちが、その論拠の一つとするのが信長記の記述と「天守指図」との不一致や矛盾である。
まず重要だと思われる論点について考察したあと、地階から六階までの間取りや内装について信長記の記述と「天守指図」との比較をしてみたい。
信長公記、信長記について
『信長公記/信長記』は異本が極めて多い。「安土城考(その8)」に書いた内容と重複するが、異本の分類について簡単にまとめておく。
まず、内藤昌氏は、田中久おその文体や構成等から以下の4種類に分類している(内藤2006:99-103)。
Ⅰ類本:尊経閣文庫の『永禄十一年記』『安土日記』など
Ⅱ類本:岡山大学の『信長記』、彰考館文庫の『信長記』など
Ⅲ類本:建勲神社の『信長公記』、天理図書館の『信長記』など
Ⅳ類本:島原松平文庫の『信長記』、尊経閣文庫の『安土記』など
この中で内藤氏が最も重視しているのは、Ⅰ類本に分類される尊経閣文庫の『安土日記』である。この天正七年正月二十五日の条において、村井貞勝が林秀貞とともに安土城内部を見学した時の拝見記が掲載されており、これが他類本の「安土御天主之次第」の原典になっている。(内藤2006:103-105)
Ⅱ類本は、Ⅰ類本を基にして信長の伝記として牛一が編集したものだと推測されており、内藤氏は、Ⅱ類本の中では岡山大学の『信長記』が重要だと指摘している。この本の巻第一永禄十一年の帖はすべて牛一の自筆であり、他の巻も奥書は自筆、本文は多筆であるが牛一の筆跡に似ているので、自筆を透写したものだと推測されている。(内藤2006:106-109, 326)
Ⅲ類本は、15巻構成のⅡ類本に巻首を加えて16巻とした信長の伝記の決定稿にあたる。この中では建勲神社の『信長公記』が全巻牛一の自筆とされており、内藤氏もこの本が特に重要だと指摘している。(内藤2006:110)
Ⅳ類本は、江戸中期に流布したバージョンで、Ⅱ類本を基にカタカナ交じり文になっているだけでなく、かなり改ざんされているようで、安土城天主に関する史料としての価値はない。
信長記にも間違いはある
『信長記』は一次史料であるので記述内容はすべて真実であると信じている人がいるが、それは間違いである。
そもそも一次史料とは、出来事が起きた時期に作られたという同時代性、後世の解釈や加工を経ていないという直接性、関係者や目撃者による記録であるという当事者性という3つの特性を持っている。当時の手紙/書簡や日記、寺社等の記録が一次資料である。
確かに筆者の太田牛一は信長と同時代を生き、信長記には自分が見聞きしたことが多く書かれている。この点では同時代性と当事者性を満たしているように思える。しかし、信長の死後に回顧的に執筆したとみられる部分がかなりあり、また自分が直接見聞きしていない出来事や、他者の情報や記録を利用している部分がある点を考えると、一次史料とは言えない。もちろん内容的には信頼性が高く、一次史料に準じる評価を受けているが、厳密に言えば二次史料である。
内容的には信頼性が高いと書いたが、間違いがないわけではない。たとえば、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの記述で最も信頼できる資料は『信長公記』(「首巻」)だとされているが、この「首巻」には「天文廿一年壬子」(1552年)と記されており、明らかに間違えている。(和田2018:70)
また「巻六」の冒頭には、松永久秀が、織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏したのは元亀三年(1572年)の冬だと記されているが、多聞山城が信長に引き渡されたのは天正元年(1573年)12月26日であることがわかっている。(和田2018:166-167)
著者の牛一は『信長記』の奥書に「故意に削除したものはない。また、創作もしていない。もし、これが嘘なら天罰を受けるだろう」と書いているが(和田2018:13)、これは牛一の執筆姿勢であって、内容に間違いがないということではない。
吹抜け構造
まず検討すべき点は吹抜けである。「天守指図」偽書説を支持する人たちのほとんどが指摘するのは、「天守指図」にある吹抜けが「信長記」ではまったく触れられていない点である。(なお、吹抜けについては「安土城考(その1)(その5)、(その7)でも触れているので参照願いたい)
確かに、どの「信長記」にも吹抜けやその地階の設置された宝塔のようなものに関する記述はない。しかし「信長記」に記述がないことを理由に吹抜けがなかったと考えてよいのだろうか。
「信長公記」における安土城天守に関する記述は、村井貞勝の「拝見記」を参照して書かれたものだというのが通説である。この経緯は「安土日記」の天正7年(1579年)の1月25日に記載されている。当時、京都所司代であった村井貞勝が京都から正月の挨拶のため安土にやってきた時、信長は林秀貞を呼び出し、二人に安土城の天主を見せた。この時の記録が「拝見記」であり、太田牛一が、この「拝見記」を元にして「安土日記」の安土城天守の部分を記述し、さらに「信長公記」の9巻にある「安土御天主之次第」を作成したと考えられている。
したがって、村井貞勝が見学して拝見したところのみが記載されており、拝見しても記録しなかったところや、拝見していないところについては記録がないと考えられる。
たとえば、地階部分は表題のみで、その部屋割りや内装、柱などに関する記録はまったくない。「天守指図」によれば、吹抜け部分は地階から三階まで続いており、地階の中央には宝塔らしきものが置かれ、二階には吹抜け部分に突き出した舞台が設けられている。さらに、三階には吹抜けを取り囲む部屋に沿った回縁と南北の回縁を結ぶ橋がかけられている。しかし、「信長公記」には、二階の舞台や三階の回縁と橋に関する記述は一切ない。おそらく村井貞勝は、吹抜けにつながる入り口がある地下一階には入っておらず、二階の舞台や三階の回縁と橋を見学していないのではないだろうか。もしそうだとすれば、吹抜けの存在を知ることもなかったことになる。
「間」の解釈
「天守指図」と『信長記』で明らかな違いがあるのは三階(四重目)の「いわの間」「竹ノ間」「松ノ間」の広さである。「天守指図」ではいずれの部屋も12畳敷き(2間×3間)の広さになっているが、『信長記』では「十二間」と記述されている。後述するように「間」は「ま」と読み、一間四方の広さで現在の「坪」に相当し、畳でいえば二畳なので、いずれも24畳の広さがあったと記述されていることになる。
四重目、
西十二間に岩に色々の木を被遊即岩之間と申候
次西八畳敷き龍虎之戦有
南十二間、竹之色々被遊竹間と申候
次十二間、松計を色々被遊候
この違いについて内藤氏は以下のように説明する。
「西十二間ニ(に)岩ニ(に)色々の(乃)木を被遊即岩之(の)間と申候」とあり、この際「間」を「畳」とみれば、『天守指図』の「いわの間」(東西二間×南北三間)に一致する。
内藤氏は何の説明もなく「間」を畳一枚の広さだと解釈し「信長記」の記述は「天守指図」と一致していると主張する。「竹ノ間」「松ノ間」についても同様である。
これに対して宮上氏は以下のように指摘している。
A 『信長記』では十二間(二十四畳敷)とあるのに『指圖』では十二畳の廣さしかない。ただ『指図』A室の「いわの間」という名稱は『信長記』とあつている。(中略)
D ここでも『信長記』の十二間が『指圖』では十二畳しかない。『指圖』にある「竹ノ間」という書き込みは『信長記』と一致。
E またも「十二間」が十二畳しかない。「松ノ間」という書き込みは正しい。
さらに宮上氏は「信長記」と「天守指図」の照合を行った後、以下のように述べている。
以上は『天守指圖』と『信長記』との照合を行つてきたのであるが、その結果兩者が、各部屋の廣さに關してはかなり符合すること、書題も一致する場合があること、が明らかになったと思う。しかしそのことだけでは『天守指圖』が實在した天主の指圖であることにはならない。兩者が對立矛盾するところも多いことがわかつたから、一致するのは、『天守指圖』が『信長記』を史料にして創作されたことを示す證據ともみられるからである。そして、この後者の見方が正しく、『天守指圖』が江戸時代の創作であることを證する重要な事實が、以上の照合の過程で見出されている。
それは三階に關し、『信長記』が「十二間」と記す室を、『指圖』がすべて「十二畳」の廣さに描いている點である。この『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合のように「ケン」と讀むのではなく「マ」と讀む。それが意味するところは一間 X 一間の廣さ、すなわち今日いう一坪なのである。したがって「十二間」とあつたら、畳敷にして二十四畳敷の廣さがなければならない。
ちなみに、内藤氏も「間(ま)」が一間四方の面積を表すことがあることは重々承知していたはずである。というのは昭和32年に内藤氏が発表した論文に以下のような記述があるからである。
古くから、面積を表現する場合柱間一間四方を「間(マ)」と呼ぶ習慣があつたことは清涼殿の二間(フタマ)の例が示している。そして蔭涼軒日録や大乗院寺社雑事記等から室町時代にはその習慣が一般化されていたと思われる。
内藤氏は、一間四方を「間(マ)」と呼ぶ習慣があり、室町時代にはそれが一般化していたということを知っていたなら、なぜ理由をきちんと説明しないままに「信長記」安土御天主之次第に書かれた「間」は畳一枚の広さだと断定してしまったのだろう。
「天守指図」が本物であるという確信があり、読者にもそれが十分に伝わっているという自信があったからかもしれないが、ここは何らかの説明が必要だったのではないだろうか。
広さの単位(畳、てう、間)
「信長記」安土城天守の記述における部屋の広さの説明を見ると、いくつかの異なる書き方をしている。そこで、牛一の日記素稿にもっとも近いとされている尊経閣文庫蔵の『安土日記』から、部屋の広さの表現の出現頻度を数えてみた。
畳敷 23回
てう敷 12回
畳 2回
間 3回
八角四間ほと(五階)
三間四方(六階)
このうち「2.てう敷」の「てう」は「じょう(畳)」のことであり、「3.畳」は二階の「十二畳御門之上」と四階の「南北の破風に四畳半之御座敷両方有之」なので、「畳敷」と同じように「畳」を広さの単位として使っているものが合計37回あることになる。
五階は特殊な八角の部屋なので「八角四間ほと」は、八角の部屋で対辺の距離が4間程度という意味になり、ここでの「間」は長さの単位としての「間(ケン)」である。同様に六階は一辺が3間の正方形の部屋であることを表しており、この「間」も長さの単位の「間(ケン)」である。
つまり、ほとんどの部屋は「畳」を広さの単位として用いており、五階、六階は長さの単位としての「間(ケン)」を用いているが、広さの単位としての「間(マ)」を用いているのは三階の3つの部屋に対してだけだということが分かる。なぜ牛一は、このような表現をしたのだろうか。
間と畳に関する宮上氏の仮説
牛一が部屋の広さを記述するときに「間(マ)」と「畳」を使い分けた理由について、宮上氏は次のような説を唱えている。
『信長記』Ⅰ類本に引用された村井貞勝の安土城天守拝見記録が「間(マ)」と「畳」を併用しているのは、前者が板敷の室、後者が畳敷の室であることを示すものとみられ、當時が「間」から「畳」への呼稱法の過渡期であることを示していて興味深い。
この宮上氏の説に従えば、「間(マ)」で広さが書かれている「いわの間」「竹ノ間」「松ノ間」は板敷の部屋であり、他の「畳敷」「てう敷」と表現されている部屋は畳敷きであることになる。
これはどう考えても変だ。なぜなら、「いわの間」は三階の西側、「竹ノ間」「松ノ間」は三階の南側に位置しており、日当たりや眺望を考えると(特別な場所である五階、六階を除けば)天守の中で、もっとも良い部屋である。おまけに襖には岩や竹や松が描かれている。どう考えても畳敷の座敷でなければおかしい。この3室が板敷で、二階にある「廿四畳敷御物置のおなんと」や一階の台所と思われる「八てう敷御膳を拵申所」が畳敷というのは非常識ではないか。
Asitaka-Jyunnya氏の仮説
安土城復元案に関する多面的な考察をインターネット上で発表しているAsitaka-Jyunnya氏は、この三階の「十二間」に関するブログの中で、以下のような仮説を提示している。
「間」の字は活字では「てう」とは明らかに違う形をしていますが、草書体では「てう」と読めなくも無いことが見てとれると思います。
太田牛一は安土日記編集の際に、村井貞勝の拝見記を写してこの部分を書いたと考えられているので、村井貞勝の書いた「てう」の字が悪筆であった場合、太田牛一が読み間違えた可能性は十分考えられると思います。
https://www1.asitaka.com/sasi/6-12.htm
つまり「間」の草書体は「てう」という文字に似ているので、村井貞勝の書いた「てう」を牛一が読み間違えたため、本来は「十二てう(十二畳)」が「十二間」になってしまったという仮説である。
そこで尊経閣文庫蔵の『安土日記』から「十二間」のと書かれている部分と「十二てう」「八てう」の部分を抜き出してみたのが以下の図である。

原典は尊経閣文庫蔵の『安土日記』の天正七年正月の条
この尊経閣文庫蔵の『安土日記』の例では「てう」とみなすのは難しいが、草書体の「間」が「てう」に近くなることは確かである。もしかすると村井貞勝が書いた拝見記の「間」という文字は、もっと「てう」にそっくりだったのかもしれない。(村井貞勝直筆の史料の中に「間」という文字があるとより明確になる可能性がある)
「間」の問題の結論(仮)
建築用語における「間」は長さを表す単位として使われることが多いが、昔は一間四方の空間を「間(マ)」と呼ぶことがあり、室町時代にはそれが一般化していた。したがって「十二間」は24畳敷に相当する広さである。
しかし、「信長記」の安土城天主に関する記述の中で三階の「いわの間」「竹ノ間」「松ノ間」の広さだけが「十二間」と記述されている理由が不明である。この3室だけが板敷であったという宮上氏の仮説は、この3室が天主の三階の西と南という日当たり眺望のよい部屋であったことを考えると、まず正しいとは思えない。
牛一が部屋の広さを記述する際に、37の部屋については「畳」あるいは「てう(畳)」という単位を使っているのに、なぜ3部屋だけは「間」という単位を使ったのか、合理的な理由は見出せない。
一方、安土城考(その11)と同(その12)で考察したように、「天守指図」が後世の創作である可能性は極めて小さい。その「天守指図」に「いわの間」「竹ノ間」「松ノ間」の3部屋が12畳敷の広さで描かれていることを考えると、「十二間」は「十二畳」の誤りだとしか考えられない。
一般的に、建物の平面図において24畳の部屋を間違えて12畳の部屋として書き写すことはまず考えられない。しかし文章であれば、Asitaka-Jyunnya氏が指摘しているように、「てう(畳)」を見間違えて「間」と書き写すことはあり得る。
あるいは村井貞勝が拝見記を書くときに、うっかり「畳」と書くべきところを「間」と書いたのかもしれない。
「いわの間」「竹ノ間」「松ノ間」の3部屋の広さが「十二間」ではなく「十二畳」であるという100%の証拠はないが、総合的に考えれば、やはり「十二間」ではなく「十二畳」である可能性が高いのではないだろうか。
(「安土城考(その15)」に続く)
安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献 (著者あいうえお順)
Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 十二間と十二畳」https://www1.asitaka.com/sasi/6-12.htm
⼩川守「安⼟城『天守指図』を巡って」2023.3
内藤昌「6尺5寸間の発生に就いて(間の建築的研究ー3)」日本建築学会論文報告集 第57号、1957.7、pp.473-476
内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2(1976a)、同988号、1976.3(1976b)
内藤昌『復元安土城』講談社選書メチエ17、1994.5
内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12
宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)
和田裕弘『信長公記 ー戦国覇者の一級史料ー』中公新書、2018.8
