安土城考(その15)天守指図と信長記②
前回は吹抜け構造と「間(マ)」の問題について書いたので、今回から「天守指図」と信長記の記述内容との照合をしてみたい。
尊経閣文庫蔵の『安土日記』は最上階が一重目であるが、他の信長記は地階(石蔵)が一重目なので、地階から順に検証していくことにする。
ちなみに「天守指図」と『安土日記』などの史料との照合については、すでに内藤氏の論文、書籍にまとめられているので、是非それを参照していただきたい。(内藤1976a:98-115、内藤1994:168と169の間の「安土城天主関係史料比較①②、内藤2006:180-187)
(注1)ここから先、特に断り書きがない限り、指図は「天守指図」を指し、信長記は尊経閣文庫蔵の『安土日記』を指す。
(注2)講談社から出版された内藤1994は1976年に「国華」に発表された内藤1976a, bをまとめた書籍であり、内藤2006はその文庫版なので、その内容はほとんど同一である。
地階(一重目:石倉)
信長記には地階に関する記述はない。Ⅱ類本、Ⅲ類本には「石くら之内を土蔵ニ御用」と書かれているが、その間取りについては記載されていない。
指図は以下のようになっている。

一階(二重目)
信長記には以下のように記述されている。
(A)十二畳敷、墨繪ニ梅の御繪を被遊候
(B)同間内御書院有是ニ遠寺晩鐘景氣被書、まへに盆山被置也
(C)次四てう敷、雉の子を愛する所
(F)御棚ニ鳩計かゝせられ
(D)又十二てう敷ニ鵝をかゝせられ鵝の間と申也
(E)又其次八畳敷唐之儒者達をかゝせられ
(G)南又十二てう敷
(H)又八てう敷
(I)東十二畳敷
(I')御縁六てう敷
(J)次三てう敷
(K)其次八てう敷御膳を拵申所
(L)又其次八畳敷御膳拵申所
(M)六てう敷御南戸
(N)又六畳敷、何も御繪所金也
(O)北之方土蔵有
(PQ)其次御座敷廿六畳敷御なんと也
(S)西六てう敷
(T)次十七てう敷
(U)又其次十畳敷
(V)同十二畳敷
一方、指図は以下のようになっている(アルファベットは内藤氏が照合のためにつけたもの)。

部屋A
信長記のAには12畳敷で梅の墨絵が書かれていると記述されていて、指図のAは西側南の一間に壁か襖がないものの東西3間、南北2間の12畳の広さであり、かつ「すみゑ」とあるので一致している。
宮上氏は、Aの部屋は梅の墨絵が描かれており、Bに書院(壁際に設けられた造り付けの机)があると記述されていることから、信長の居間であると断定した上で、居間の隣には寝室である納戸があるのが当時のきまりなのに、それがないのはおかしいと指摘している(宮上1977b:9)。これは実に不思議な指摘である。隣に寝室である納戸がないのであれば、このAの部屋は信長の居間でないという証拠なのではないだろうか。さらに、山頂に建てた天主に住むことを考えた信長の居室が一階にあったとは思えない。
部屋B
信長記のBには「まへに盆山被置也」と書かれていて、指図のBにも「ぼんさん」と記されていて一致している。
部屋C
Cについては信長記、指図ともに4畳敷で一致している。ただし宮上氏は「この室には棚が付いていたとあるのに『指圖』のC室には棚がない。」(宮上1977b:9)と指摘している。この棚は信長記のFの「御棚ニ鳩計かゝせられ」を指していると思われるが、内藤氏は、Dの東側にあるFのことだと解釈している(内藤1976b:25)。つまり、信長記の安土城天主に関する記述は村井貞勝の『天主拝見記』を写したものであり、村井貞勝は指図におけるA室からD室に入り、C室、F室を見たあと、D室からE室に移動したのだろうと推測している。ちなみに、信長記のⅡ類本、Ⅲ類本では「次四てう敷御棚に鳩之御絵をかゝせられ」と修正されている。(宮上氏は仮にこの「四てう敷」が指図のFだとすると、指図のFは3畳しかないので、広さが一致していないと主張しているが、指図を見てわかるように「たな」と書かれた部分を含めてみれば広さは4畳であり、信長記の記述と指図は一致している。)
部屋D、E、G、H、I、I'
D室、E室、G室、H室、I室、I'室については、信長記の記述と指図は一致しており問題はない。
部屋J
J室については、信長記は「次三てう敷」であるが、指図では台形の部屋になっている。これについて宮上氏は信長記の「次三てう敷」を指図のJ室に対応させるのは無理だと述べている。仮に指図のJのような不整形な部屋があったとしても、それは畳敷ではないのが常識だからというのが、その理由である。
しかし、室町時代後期には部屋全体に畳を敷き詰めるようになり、「畳」が面積を表すモジュールとして機能していたことを考えれば、指図のJ室が仮に板敷であっても、3畳相当の広さであることを示すために「三てう敷」と記されていても不思議はないのではないだろうか。
部屋K
K室について宮上氏は広さは一致しているが、部屋の中央に「炉(ろ)」があるのは問題であり、「『御膳を拵申所』というのは、御膳の支度をする座敷を意味するはずである。また『䑓所』は別棟にするのが貴族住宅の常識である」と指摘している(宮上1977b:12)。なお、宮上氏は「この室とて御繪所は金だったのであるから」(宮上1977b:12)と述べているが、これはNの説明に「何も御繪所金也」(どれも金碧障壁画が描かれていた)とあるのでKにも金碧障壁画があったと解釈している。しかし、この「何も(いずれも)」は、NだけでなくMもという意味かもしれない。
部屋L
信長記では8畳敷と書かれているが、指図ではその倍くらいの広さがある。宮上氏は広さの違いに加えて、信長記では「御膳拵申所」と書かれているのに、指図では「御もの置」となっている点についても違いがあると指摘している(宮上1977b:12)。
これに対し内藤氏は「Lの平面規模は一致をみないが、北側の半分は、内部に棚がまわり、食器類の収納場所と考えられ、残り南半分をとれば「御膳拵申し所」として矛盾はない」と述べている(内藤1976b:26)。
部屋M、N、O
部屋の広さは信長記と指図で一致している。
部屋PQ
信長記には「御座敷廿六畳敷御なんと也」とあるが、指図ではPとQを合計すると32畳(Pの東の端にある階段を除けば31畳)あり、一致していない。(ちなみに宮上氏は「二室合わせると三十六畳あつて一致しない」(宮上1977b:12)と指摘しているが、どう見ても36畳ではなく32畳である)。
これに対して、内藤氏は3本の柱の書き漏れがあると考え、Qの部屋の西側一間(4畳)は別室になっているので12畳、Pの部屋は、東の端の階段のある一間四方を除いて14畳であるので、PQの合計は26畳になり、信長記の記述に一致すると述べている(内藤1976b:26)。
部屋S、T、U
Sは信長記と指図とも6畳敷で一致している。Tの部屋の信長記の記述は「次十七てう敷」となっているが、Uが「又其次十畳敷」となっているので、「次十七てう敷」は「次十てう敷」の誤記だと考えれる。つまりTUともに10畳敷であり、指図と一致している。
部屋V
V室は信長記で「同十二畳敷」と書かれているが、指図では8畳敷で一致していない。これについては内藤氏は「御もの置」と書かれている4畳敷のXを含めて考えれば、VX合計で12畳となり矛盾はしないと説明している(内藤1976b:26)。
7つの納戸
一階の説明は各部屋関する記述の後に「御なんとの數七つ」「此下ニ金灯爐つらせられ候」という文章が続いている。まず、この7つの「なんと(納戸)」について、宮上氏と内藤氏の解釈を見てみよう。
納戸を広辞苑(第四版)で調べると「衣服・調度類をおさめておく室。中世以降は一般的に屋内の物置をいい、ここを寝室にも用いた」とある。さらに、様々な文献を調べると、室町中期以降、戦乱などによって治安が悪化したことを背景に、壁で囲まれ比較的頑丈に作られていた収納用空間の納戸が、寝室に利用されるようになったというのが通説らしい。
さて、信長記には天主一階に7つの納戸があったと記述されている。内藤氏は、指図で「御なんと」と記されているP、Q、Wに加えて、G、H、M、Nの4つの部屋が納戸だと推定している(内藤1976a:107)。(注:Mについては信長記でも「御南戸」と書かれている)
一方、宮上氏は、この内藤氏の解釈について「しかし、既に『なんと』として(信長記に)記される室が丁度七つあるのであるから、その解釋は認められない」(宮上1977b:12、カッコ書きは筆者)と述べている。
宮上氏が信長記に「なんと」と記されていると主張する7つの部屋はM、N、QP、S、T、U、Vなのだが、信長記に「なんと」と書かれている部屋はM、QPのみであり、N、S、T、U、Vには「なんと」に相当する文字はない。Ⅰ類本だけでなくⅡ類本、Ⅲ類本、Ⅳ類本にも、これらの部屋には「なんと」の文字はない。宮上氏が参照していた信長記には本当に「なんと」の文字があったのだろうか。「なんと」の文字がある部屋がM、QPにしかないにもかかわらず「丁度七つある」と書いたのだとすれば、これは捏造でしかない。
納戸は一般的に、外に面した窓がない閉鎖的な部屋で、主室の奥や側面に配置されることが多く、かつ出入口が限定されているものが多い。そういう観点でみると、中央の吹抜け構造に沿って設けられたP、Q、W、G、H、M、Nの各部屋は納戸にふさわしい部屋のように思われる。
金灯炉
一階の説明の最後にある「此下ニ金灯爐つらせられ候」について、内藤氏は「『此下』が指す位置は明確でないが吹き抜けに面しての事と思われる」(内藤1976b:107)と述べている。指図には、この金灯爐に相当する記載はない。
村井貞勝の拝見順路(一階)
前にも書いたように、信長記における安土天主に関する記述の原典は、村井貞勝が林秀貞とともに安土城内部を見学した時の拝見記だというのが通説である。そこで信長記の記述から村井貞勝の拝見順路を推定してみたい。
スタートはAで最後はVである。部屋Cの項で述べたように、A室からD室に入り、C室、F室を見たあと、D室からE室に移動している。その後はアルファベット順に移動したと推定される。最後Vを出た後、その南側にある階段で二階の登ったと考えられる。平面図に矢印で順路を描くと以下のようになる。納戸のWについて信長記に記述がないのは、村井貞勝が立ち入らなかったからだと思われる。

(注)村井貞勝の拝見順路を赤矢印で表記
(「安土城考(その16)」に続く)
安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献 (著者あいうえお順)
Asitaka-Jyunnya「天守指図考察 十二間と十二畳」https://www1.asitaka.com/sasi/6-12.htm
内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2(1976a)、同988号、1976.3(1976b)
内藤昌『復元安土城』講談社選書メチエ17、1994.5
内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12
宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)
