安土城考(その4) 心柱説の信憑性
石倉(穴蔵)の礎石
石倉(穴蔵)内部には、礎石が整然と並んでいることで知られている。

昭和15年からの発掘調査によれば、礎石の数は本柱(ほんばしら)の 礎石と推定されるものが91個、束石(つかいし)又は控柱(ひかえばしら)の 礎石と思われるものが10 数個である。この本柱の礎石はほぼ2.1メートル間隔で東西南北10×10の格子状に整然とならんでいる(石倉の形は正方形ではなく、不等辺七角形なので本柱の礎石は91個である)。
不思議なことに、このほぼ中央だけ礎石がない。この礎石がない部分に何があったのかが今回のテーマである。
石倉(穴蔵)は昭和と平成に2度発掘調査が行われていて、この礎石がない部分には穴があったことが分かっている。この穴は「穴蔵中央ピット」と呼ばれている。
「安土城考(その1) 『復元安土城』を読んで」で紹介した池上右平の「天守指図」では、この位置に宝塔の絵が書かれているのだが、ここには掘立式の心柱があったと主張する研究者がいる。
心柱説
最初に心柱説を唱えたのは、「天守指図」は池上右平が創作した偽書であり、それをベースにした内藤案は間違っていると主張した宮上茂隆である。宮上は1977年に「国華」998号および999号に掲載された論文において、天主台中央に礎石がないのは、そこに掘立柱(心柱)が立っていたためだと解釈し、自身の安土城天主復元案に掘立式の心柱を置いている。この宮上復元案は天守を石倉(穴蔵)の中に建てるという案で、不等辺八角形の天守台いっぱいに天守を建てるという内藤案に比べるとかなり小さい。
この案はすでに歴史の中に埋もれつつあるが、掘立式の心柱を中心にした天守の復元案がある。たとえば佐藤大規は2007年に、広島大学文学部の紀要「史学研究」第255号に掲載された「安土城天主の平面復元に関する試案」の中で、心柱を前提とした平面復元案(各層の平面図・柱割)を提示している。また、同「史学研究」283号の「安土城天主の構造および外観に関する復元考察」の中で、前論文の平面復元を踏まえて、構造(心柱の役割、荷重経路)、外観(層数・屋根構成・意匠)について詳しく検討し、立面復元・断面復元の考察を加えた復元案を発表している。
さらに広島大学の中村泰朗が、前田記念工学振興財団の研究助成(2019年度)による研究成果「最新の発掘成果に基づいた安土城天主の復元的考察」の中で1階から3階までの平面図を、2021年から建築史学会の学会誌「建築史学」の76号(2021年3月)に「安土城天主に関する復元的考察(その一)―一階から三階までの部屋割り―」を、81号(2023年9月)に「静嘉堂文庫蔵『天守指図』および安土城天主内藤昌復元案に関する考察」を発表しているが、この中の復元案(中村案)は掘立式の心柱を前提にしている。
昭和と平成の発掘調査の結果
掘立式の心柱があったかどうかは、発掘をすればわかるのではないかと誰もが思うだろう。実際、昭和15年と平成12年に天主跡の石倉(穴蔵)の発掘が行われている。
礎石がない中央部分の発掘によって何がわかったのか、まず、昭和15年の発掘調査結果を見てみよう。(発掘調査結果の出典は、滋賀県主催の「『幻の安土城』復元プロジェクト・歴史セミナー」の資料「安土城復元研究の過去・現在・未来」である)
・中央央柱眞の礎石の欠如せる部分
叩き漆喰の跡が認められず
埋土らしい軟土層のあることが認められた
→試にその部分を掘り下げた
→約二尺平方の大さにて深さ約四尺許の穴のありしことが判明
穴の中には全部燒土と思しき土砂及び木炭化せる木片等が充滿
燒土層の中から褐(旧字体)色の壺の破片十數箇を發見
燒土の部分と地山の部分とはその境界がはつきりしてをり・・・
天主と同時のものか、燒亡後に掘られたものか・・如何なる用途のものであつたか・・明らかに為し得なかつた
穴の底の狀況其他より考へて少くも掘立柱の穴とは考へられなかつた
「平成の安土城天主跡発掘調査 ~平成の調査から見えてきたこと~」2023.3.26
昭和の発掘調査では「穴の底の状況その他より少なくとも掘立柱の穴とは考えられなかった」が結論である。
次は平成12年の発掘調査の結果をみてみよう。
・中央ピット
昭和15 年度に調査されたが平面や内部の形状などの詳細が不明。
→調査後に埋め戻された土を除去して内部を再調査した。
深さ約1.1mで底面に達する。
地山の岩盤層に掘り込まれている。
底面は南西から北東方向に緩やかに傾斜
壁面の北から東は袋状だが、それ以外ではほぼ垂直に近い角度で立ち上がる。
→断面形状は長靴形になる。
出土遺物から、今回掘削した埋土は昭和15 年の調査後に埋められたものと判断。
昭和15 年に出土した備前焼甕と同じものと思われる破片が多数出土。
また、金属製ボタンやガラス瓶の破片が出土。
この遺構の機能については、昭和の報告書の見解は超えられないが、掘立柱の可能性も捨てきれない。
「平成の安土城天主跡発掘調査 ~平成の調査から見えてきたこと~」2023.3.26
「昭和の報告書の見解は超えられないが」という表現と「掘立柱の可能性も捨てきれない」は、どう考えても矛盾している。昭和の報告書の結論は「少なくとも掘立柱の穴とは考えられなかった」なので、この見解は超えられない(つまり掘立柱の穴とは考えられない)と書きながら「掘立柱の可能性も捨てきれない」とはどういうことなのだろう。滋賀県には掘立柱の穴であったという可能性を残さなければいけない事情でもあるのだろうか。
掘立柱の歴史
掘立柱は、地面に穴を掘り、柱を直接土の中に埋めて建てるという、日本で最も古くから行われてきた建築技法である。縄文時代には主に高床式倉庫や、祭祀を行う建物に使われきた。その後、一般の住居にも使われるようになったが、平安時代以降、寺院などの大規模な建物には、礎石の上に柱を置く建築技法が一般的になっていく。その理由は柱の腐食を防ぎ、建物の寿命を延ばすことができるからである。
伊勢神宮では、社殿を20年ごとに新しく建て直す式年遷宮が行われているが、これは掘立柱が腐ったら建て替えるという古来のサイクルを儀式化したものだと言われている。
掘立式の心柱を使った建築物の中で最も有名なものは法隆寺の五重塔だろう。世界最古の木造五重塔だが、その心柱は「掘立柱」である。約3メートルの深さに心礎が置かれ、その上に心柱が立っている。しかし、心柱が掘立式である五重塔はそれほど多くないらしい。
佐川正敏の論文「日本古代木塔基壇の構築技法と地下式心礎、および
その東アジア的考察」によれば、仏教寺院の木塔において地下式心礎が主流だった時期は6世紀末から7世紀前半で、「地下式心礎は7世紀末〜8世紀初頭の法隆寺五重塔と法輪寺三重塔が最後の事例であり、 奈良時代以後はない」のだそうだ。奈良時代以降の五重塔の心柱は地上に礎石を置き、その上に建てられている。
掘立柱は、柱が自立するため、梁を渡すのが容易であり、構造がシンプルで素早く建てられ、地震の揺れを地面に埋まった柱が吸収・分散する特性があるというメリットがある。しかし一方で、柱が直接土に触れているため、長くても数十年で柱の根元が腐ってしまうという欠点がある。
このため、寺院等の比較的大きな建築物には、建物の寿命を延ばすために、柱を土から離すことで腐食を防ぐことができる礎石式が用いられるようになったと考えられる。(ちなみに、一般の民家では江戸時代に入るまで、手軽に建てられる掘立柱が広く使われていたようである)
天守に掘立柱を使った事例
では天守に掘立柱が使われていた事例はあるのだろうか。調べてみると、そもそも天守に心柱がある事例自体が少ない。安土城の天守に掘立式の心柱が用いられていたという説を唱えている佐藤大規によれば、「天守に心柱を設ける例は、姫路城天守が有名であるが、意外とその例は少なく、大洲城天守(愛媛県)や福山城天守(広島県)など数例しかない」そうである。(出典:三浦正幸監修『よみがえる真説 安土城』学習研究社、2006年3月、p.12)
問題は心柱が掘立式であるかどうかである。例えば、姫路城の天守には東西二本の心柱(高さ約24.6m・根元直径約95cm)が使われているが、地階床の礎石の上に立っており、掘立式ではない。大洲城の天守は2004年に伝統工法で木造復元されたものであるが、発掘調査で確認された礎石位置を突き合わせており、心柱は礎石の上に立っている。福山城の天守の心柱も礎石の上に立てられたもので掘立式ではない。
(心柱という制限を外して)掘立柱を使った天守の事例をインターネットで調べてみると丸岡城(福井県)と高松城(香川県)が見つかった。
まず丸岡城の場合、従来、天守の10本程度の柱が掘立柱であったと言われてきた。しかし、吉田純一の研究によれば、創建時は天守台を2尺5寸ほど掘り下げた床下空間が埋められたために掘立柱になったもので、当初は床下空間に礎石を置いて建てられた柱であったのだそうだ。つまり、丸岡城の掘立柱は事後的に掘立式になったものなので、掘立柱を用いた天守の事例にはあたらない。
丸岡城天守の特徴のひとつであった掘立柱に関して、新たな史料を用いながら考察してきた。その結果を列挙すれば、以下のようになる。
① 天守台の上面に深さ 2 尺 5 寸ほど掘り下げられた床下空間があり、東西中央列および入側境の柱は創建時にはその底面に据えられた礎石にたつ礎石立であった。
② その後、床下空間が埋められたために東西中央列と入側境の柱は根元がその土に埋まり、掘立柱になった。
③ 床下空間が埋め込まれたのは、貞享 5 年の東西中央列の柱の入れ替えの改修に伴うものと思われ、丸岡城天守の掘立柱はこの時、発生したとみることができる。
FUT福井城郭研究所年報・研究紀要 第4号、FUT福井城郭研究所、2017.4、pp.48-50
一方、高松城の場合には天守の柱のうち4本が掘立柱だったと言われている。高松市の公式ホームページによれば、「田」の字状に並んだ礎石の空白部分の4箇所で直径約1.5~2メートル,深さ1.5メートルの柱穴が発見されており、高松城の天守は、掘立柱と礎石を併用した他にあまり例の無い変わった構造であった。ちなみに、このうち北西と南東の柱穴には直径30センチメートル余のツガ科の丸柱が70~80センチメートル残っており、放射性炭素C14年代測定法(AMS法)によって、西暦1630年から1660年に伐採されたものと推定されている。
発掘結果から見た妥当性
先に述べたように平成12年に安土城天主跡の石倉(穴蔵)の発掘が行われている。この発掘調査報告書の一部である「特別史跡安土城跡発掘調査報告 12[図版編]」には、安土城跡天主台穴蔵中央ピットの写真と平面図、断面図が掲載されている。これらの図表は、滋賀県が主催した「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナーの資料に転載されており、資料はネット上で公開されている。

出典:滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」p.53

出典:滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」p.54
この平面図および断面図をみると、中央ピットの大きさは1.3m×1.5mで深さが1.1m程度である。また形状は円筒形ではなく、方形でもない。また、底は平らではなく、礎石が地中に埋められている形跡はない。この中央ピットを心柱を立てた穴であるとするには、いくつか疑問がある。
柱の腐食問題
先に述べたように掘立柱は柱が直接土に触れているため腐食しやすい。環境にもよるが短ければ数年で、長くても数十年で柱の根元が腐ってしまう。仏教寺院における木塔の心柱が掘立柱になっている事例は、法隆寺五重塔と法輪寺三重塔が最後で、 奈良時代以後はない(佐川 2003:127-129)。ちなみに、法隆寺の五重塔の心柱は、1949年(昭和24年)の解体修理時に基部が大きく腐食し、ほぼ宙吊りになっていることが判明している。
安土城築城の大工棟梁は岡部又右衛門であるが、この岡部又右衛門は熱田神宮の宮大工の棟梁であったので、伊勢神宮の式年遷宮(社殿を20年ごとに新しく建て直す神事)のことも、掘立柱の根本が腐食しやすいことも十分承知していたはずである。その岡部又右衛門があえて掘立式の心柱を採用したとは思えない。
ちなみに仏教寺院における木塔の心柱の場合、根腐れを防止するために根巻き板が用いられる。たとえば旧中宮寺跡と法輪寺の場合、心礎上面に心礎の根元を固定するための粘土がドーナッツ状に巻かれ、その粘土の内面には心柱の根腐れを防止するための 根巻き板の断片が残存しており、法隆寺でも地下式心礎の心柱根巻き板の痕跡が残っていたという(佐川 2003:133)。
安土城天守の中央ピットの発掘では、柱の根元を固定するための粘土も、根腐れ防止のための根巻き板も発見されていない。
穴が小さくて浅い
発掘によって明らかになった安土城天主の中央ピットは心柱の穴としては小さすぎる。仏教寺院の木塔と比べるのは適当ではないのかもしれないが、心柱を据えつける心礎据付け穴の大きさは、旧中宮寺では一辺 が 3m、法輪寺では一辺が約 4.5m、飛鳥寺では約 10m四方である(佐川 2003:130)。安土城天守の中央ピットの場合は1.3m×1.5mなので、その大きさは例にあげた木塔の心礎石据付け穴の1/5〜1/50しかない。
さらに穴の深さもかなり異なる。安土城天主の中央ピットの深さは 1.1mであるが、旧中宮寺は 1.8m、法輪寺は約 2m 、飛鳥寺で約 3mである。
一方、高松城の4本の掘立柱の柱穴は直径が約1.5~2m,深さは1.5mである。安土城天守の中央ピットより少し大きく少し深い。信長公記などから推測される安土城天守の本柱の太さは1尺5寸四方(45cm角)であり、直径30cmと推定されている高松城の掘立柱よりかなり太い。
こうしたことを考えると、安土城天主の中央ピットは天主心柱の穴と考えるには小さく、かつ浅い。
穴の底は礎石がなく平らでもない
仏教寺院の五重塔や三重塔の心柱は礎石の上に建てられる。これは地下式の心柱でも同じで、穴の底に礎石が置かれている。しかし安土城天守の中央ピットでは礎石は発見されていない。ちなみに、4箇所で柱穴が発見された高松城の場合、1.5mの柱穴の底には礎石が発見されている。
おまけに平成12年の発掘調査結果によれば、安土城天守の中央ピットの底は平らではない。常識的に考えれば、柱穴の底には礎石を置くか、礎石を置かないのであれば、せめて底を平らに整えるのではないだろうか。
まとめ(結論)
安土城天主跡の石倉(穴蔵)中央には、礎石が欠落した「中央ピット」と呼ばれる穴が存在する。この穴をめぐり、宮上茂隆氏らは巨大な天主を支える「掘立式の心柱」があったと主張しているが、昭和と平成の二度にわたる発掘結果などから考えて心柱の柱穴とは考えられない。
第一に、発掘調査の結果をみると中央ピットは1.3m×1.5m、深さ1.1mと、仏教寺院の五重塔・三重塔における地下式心礎の穴、あるいは高松城の四本の掘立柱の柱穴に比べて小さく浅すぎる。おまけに中央ピットの底面は不整形で礎石もなく、柱を支える構造として極めて不自然である。
第二に、建築技術の合理性から考えても天主の柱を掘立式にするとは考えにくい。掘立柱は長くても数十年で根元が腐食するため、奈良時代以降に仏教寺院等の建築で掘立柱が用いられた事例はほとんどない。恒久的な天主を目指した信長はもちろん、宮大工であった岡部又右衛門が掘立柱を採用したとは思えない。
昭和の発掘調査では「掘立柱ではない」と結論づけられており、出土した焼土や壺の破片からも、この穴は荷重を支える柱穴ではなく、宗教的な儀礼や宝塔の設置に関連する空間であった可能性が高いと考察されている。しかし、平成の発掘調査結果では「昭和の報告書の見解は超えられないが」と書きながら「掘立柱の可能性も捨てきれない」という結論になっている。
ちなみに心柱説に基づいて天主の平面復元案を提案している佐藤大規は中央ピットについて「これは発掘を担当した木戸雅寿氏の教示によると、掘立式の心柱の跡と考えられ」(佐藤 2007:p.8)と述べている。この木戸雅寿氏は滋賀県文化財保護課参事員であり、平成の発掘調査のメンバーでもある。木戸氏は(中央ピットは掘立柱の穴とは考えられないという)昭和の報告書の見解は超えられないという発掘報告書を書きながら、なぜ「掘立式の心柱の跡だと」断言できるのか、実に不思議である。
安土城考(投稿一覧)
https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献(順不同)
内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12
宮上茂隆「安土城天主の復元とその史料に就いて(上)(下)」国華第998号、第999号
佐藤大規「安土城天主の平面復元に関する試案」史學研究255号、広島史学研究会、2007.2、pp.1-22
佐藤大規「安土城天主の構造および外観に関する復元考察」史學研究283号、広島史学研究会、2014.3、pp.22-52
中村泰朗「最新の発掘成果に基づいた安土城天主の復元的考察」前田記念工学振興財団研究報告、2020.6
中村泰朗「安土城天主に関する復元的考察(その一)―一階から三階までの部屋割り―」建築史学」76号、建築史学会、2021.3
中村泰朗「静嘉堂文庫蔵『天守指図』および安土城天主内藤昌復元案に関する考察」建築史学」81号、建築史学会、2023.9
滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)
佐川正敏「日本古代木塔基壇の構築技法と地下式心礎、およびその東アジア的考察」東北学院大学論集. 歴史と文化40号、2003.6、pp.126-143
吉田純一「丸岡城天守の掘立柱について」FUT福井城郭研究所年報・研究紀要 第4号、FUT福井城郭研究所、2017.4、pp.48-50
三浦政幸監修『よみがえる真説 安土城』学習研究社、2006.3
高橋和生「安土城の復元」(https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle/)
Asitaka-Jyunnya「安土城復元案」(https://www1.asitaka.com/index.htm)
