安土城考(その12)「天守指図」創作説の問題点(下)
前回は「天守指図」創作説の信憑性を検討する上で重要なポイントの一つである「アリバイ」について検討したので、今回は「動機」について考えてみたい。つまり「天守指図」を作る動機はあったかである。
つまり安土城天守が焼失してから、池上右平(あるいは他の誰か)が天主台を実測して図面を作成した可能性がほぼないことは確かである。しかし、天主焼失以前に描かれた図面を参考にして、右平(あるいは誰か)が「天守指図」を創作したという可能性は残されている。
そこで今回は「天主指図」創作の「動機」について考えてみたい。
指図とは何か
まず「指図」の位置付けについて確認しておこう。指図とは、日本の伝統木造建築で大工が主に作成する基本的な設計図で、建物の平面図を指す。柱の位置・間取り・建具の配置・部屋の名称などが記されており、施工や墨付けの基準として現場で用いられる実務的な図面である。
一般的に、大工が施主の要望や計画に基づき描き、普請(工事)の指針として作成される実務のための図面が指図であり、現代の詳細設計図より簡潔であるが、現場指向的だと言われている。
室町時代末期以来の工匠家である岸上家や、江戸時代を通して幕府の京都大工頭を世襲した中井家には数多くの指図が伝わっている。
ちなみに中井家に伝わる指図を含む絵図等は、デジタルアーカイブになっているもの(京都大学貴重資料デジタルアーカイブの中井家絵図・書類)もあれば、建築指図のみを収録した書籍も出版されている(谷直樹編著『大工頭中井家建築指図集』思文閣出版, 2003.2)。
宮上論文における動機
1977年に「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」を『国華』998号、999号に発表した宮上氏は、加賀藩作事方御大工であった池上右平が「天守指図」を創作したと推定している。
池上右平は、池上家の三代目の新左衛門正次のことで、池上氏と同じ加賀藩作事方御大工であった栗林仁左衛門の息子で、池上家二代目新左衛門政乗に実子がなかったため池上家に婿養子になったと伝わっている。
二代目政乗の時代には池上家の知行は50石から100石に加増されているが、右平が江戸詰の時に「奢侈著しい等の不行跡があって」10人扶持10石取りに降格されている(内藤2006:160)。
そこで宮上氏は以下のように推測する。
右平が百石の知行相続に難行したのは、彼の實父が大工であつたことが大きな原因の一つだつたろうということである。奢侈著しい等の不行跡というのも、要は武士の家格にふさわしくないということであり、知行を減らす口實だつたとのではないかと思う。その證據に、右平の実子の四代目萩原新左衛門正則は享保三年に作事奉行になつても父の十人扶持十石が二十人扶持に變つたにすぎないのに、次に権六郎和往が養子として作事奉行萩原家を繼ぐと享保十二年精勤の故をもつていつきよに六十石に加増のうえ姓を池上の舊に復せられている。恐らく彼の場合は實家が武士だつたのであろう。(中略)したがつて右平が多くの技術書を著しているのも、偶然とは思えない。そうした努力が武家官僚社會における彼の出身の低さをカバーし、また不遇な地位の向上に多少とも役立つことが意圖されていたのではないかと推察される。
つまり右平は、武士ではない大工の息子なので、奢侈著しいという口実で知行を百石から十人扶持十石に減らされた。それで右平は自分の出身の低さをカバーするとともに、地位の向上に役立つだろうと考えて「天守指図」を創作したというのが宮上氏の推論である。
父親が武士でなかったから知行を減らされたとか、実家が武士だったから加増され姓を元に戻すことを許されたとか、これらはすべて宮上氏の想像にすぎない。ましてや「天守指図」を創作することによって、大工の息子という出身の低さをカバーしようとしたとか、地位向上のために役立つだろうと考えたとか、すべて宮上氏の根拠のない想像に過ぎない。
ここに書くべきことではないのかもしれないが、当時、宮上氏は36,7歳で東京大学工学部建築学科助手であった。博士号取得は1979年なので、もしかすると博士論文執筆中だったのかもしれない。当時の東京大学における内規やルールは知らないが、一般的に博士号を取得するには、博士課程(後期)に3年以上在籍し、所定の単位を修得した上で、博士学位論文の審査と最終試験(博士論文に関する口頭試問であることが多い)に合格しなければいけない。また博士論文提出の条件として、査読付き論文や国際学会での発表という条件が付けられていることが多い。(宮上氏的な根拠のない想像に過ぎないが)宮上氏も査読付き論文や学会での発表という実績作りに苦労していたに違いない。それが「天守指図」の創作が大工としての地位向上につながるという発想に結びついたのではないだろうか。
右平降格事件の真相
先に述べたように、「天守指図」の筆者である池上右平は池上家三代目の新左衛門正次その人であり、加賀藩作事方御大工であった栗林仁左衛門の息子なのだが、池上家二代目新左衛門政乗に実子がなかったため池上家に婿養子になったと伝わっている。池上家は代々、加賀藩の重臣(家臣でありながら1万石以上の禄高の家老)八家の一つ奥村家の作事奉行を務めており、建仁寺流(江戸時代の社寺建築における主要な流派の一つ)の正当な流れを汲む建築を専門とする家系である。また、主君奥村時成の時代に、右平は萩原と改姓し、知行が100石から10人扶持10石に減らされている。
石川県金沢城調査研究所の主幹(建造物担当)である正見泰氏の研究によれば、この右平の降格は、内藤氏の言う「奢侈著しい等の不行跡があったから」ではないことが判明した。もちろん、宮上氏の妄想のように「実家である栗林家が武士ではなかったから」でもない。
正見氏の研究によれば、延宝7年(1679年)に、右平の実兄である栗林又七が江戸で事件を起こし、その責任をとって自害している。この「又七の自害によって栗林家は断絶し、又七の男性の血縁者はことごとく召放または御免」(正見2013:86)となっている。正見氏は、又七の弟である右平は「実兄又七の江戸表での事件に連座し、一旦召放となったと考えられる」(正見2013:87)と推察している。
一旦召放となった右平は、事件のほとぼりが冷めるのを待って、主君である奥村時成の命によって帰参している。正見氏は「おそらく内藤氏が考えたように右平が有能であったこともあって」帰参させたのだと言う。ただし、藩の意向によって処罰を受けた者をすぐに帰参させるわけにはいかないので、萩原弥太夫という新しい名前を与え「名目上、全くの別人として新規採用扱いで復職させたのではなかったか」(正見2013:87)というのが正見氏の推測である。
ちなみに加賀藩陪臣には、上から「給人」「中小将」「小将」「歩組」「足軽」「小者」という階層構造になっており、降格前の池上家は「給人」であったが、帰参した右平は「中小将」という階層に格下げされている。これは「給人」として召し抱えるには藩の許可が必要なので、藩の許可が必要のない「中小将」、知行は10人扶持10石にしたのではないかと正見氏は述べている(正見2013:99-100)
これで右平の降格事件の謎が解けた。右平が降格された理由は、江戸における本人の奢侈著しい不行跡でもなければ、出身が武士でなかったことでもなかった。実兄又七の起こした事件に連座させられ、右平は一度召放(役職を解任)になったものの、その有能さを認めている主君(奥村時成)が、萩原弥太夫という新しい名前を与えて10人扶持10石で新規に召し抱えたという形をとったからである。
指図を創作する動機はあるか
宮上氏は、右平が、大工の息子という出身の低さをカバーしようとして、あるいは、地位向上のために役立つだろうと考えて「天守指図」を創作したと述べている。
では、江戸時代の大工等が、出世のため、あるいは自分の技量を世に示すために過去の建築物の指図を想像で描くことがあったのだろうか。
インターネットを使って事例を探してみたが、一つの指図も見つけることができなかった。日本には、この稿の最初で触れた中井家絵図だけでなく数多くの指図が残されているが、それらは現存する建物か、あるいは過去に実在したと考えられる建物の指図であり、過去の建築物を想像で描いた指図は一つもない。(もしあるのであれば、是非お教えいただきたい)
ただ、大工等が過去の建築物の指図を想像で描いた事例が100%ないことは証明できない。それは「悪魔の証明」と呼ばれるものだからである。「悪魔の証明」とは「~は存在しない」「~をしていない」といった消極的な事実を証明することが、事実上不可能であることを指す言葉である。
ちなみに、日本の司法制度では、刑事事件の場合は全ての立証責任が検察官にあり、民事訴訟では、当事者の双方にそれぞれ法律要件ごとに立証責任が割り振られる。この立証責任の割り振りや事実の認定では、事実が存在すると主張する利益がある方に立証責任が割り振られることになっており、事実の不存在の証明が求められることはない。もちろん犯罪の場合、容疑者にアリバイがあって、その犯行が不可能であるという証明が可能な場合もあるが「江戸時代に不特定の大工等が想像で過去にあった建築物の指図を描いた事例はない」という証明は、誰にもできない。
常識的に考えれば、そうした事例が見つからないということは、江戸時代の大工等が、出世のため、あるいは自分の技量を世に示すために過去の建築物の指図を想像で描くことはなかったと考えてよいのではないか。
学会等で安土城天主の間取りや平面図を発表することが、研究者としての実績になるからといって、江戸時代もそうだったと考えるのは浅はかなことのように思える。
正見氏の論文「加賀藩御大工頭への昇任に関する考察」を読むと、御大工頭への昇任者がどのように選ばれていたのかが分かる。加賀藩のお抱え大工は、上から御大工頭、御大工、御扶持方大工という職が決められていたので、御大工頭は御大工の中から選抜されることになる。この研究の結果は「加賀藩では、一定年齢(概ね40才)に達している御大工の中から【世襲的傾向】、【年功序列的傾向】、【能力主義的傾向】の各要素を勘案し、御大工頭昇任者を選定していた節が窺われた」(正見2011:1466)というものであった。
これだけを読むと世襲的要素が強かったと思うかもしれないが、論文をきちんと読めば、親・子・孫と三代続けて御大工頭に就任した事例は、西田家と清水家でそれぞれ一度だけに過ぎず、四代続けて御大工頭になった事例はない。おまけに代々のお抱え大工でなくても御大工頭に昇任している事例や「親が御扶持方大工以下であっても、子供本人の能力が認められれば、昇進の過程が極端に不利になることはなかった」(正見2011:1465)ということも分かっており、かなり実力主義であったことが窺われる。
言うまでもなく、ここでいう実力とは、想像で過去の建築物の指図を創作するという能力ではなく、実際の普請における活躍の度合いである。
まとめ
宮上氏は1977年に発表した論文の中で、池上右平が大工の息子という出自の低さをカバーするために、類まれな技量を示す目的で「天守指図」を偽造したと推測した。しかし、正見泰氏の研究により、右平の降格は本人の不行跡や出自によるものではなく、実兄(栗林又七)が起こした事件への連座によるものと判明した。
知行が100石から10人扶持10石に減らされたのは、一度召放になった右平を、右平の有能さを評価していた主君・奥村時成が別名(萩原弥太夫)を与えて新規採用の形で救済したのが実態であることも分かった。
宮上氏の説は「過去の建築物の図面を創作することが地位向上に繋がる」という現代の研究者的発想に基づいているが、これは江戸時代に通用するものではない。江戸時代の大工が、出世や技量誇示のために「過去の建物を想像で描く」という文化・事例は確認されていない。指図はあくまで実務的な設計図面であった。ちなみに加賀藩の御大工頭への昇任を分析した正見氏の研究によれば、評価軸は実際の普請(工事)における能力や年功にあり、空想的な図面の作成が昇進に寄与する余地はなかったと思われる。
以上のことから、池上右平(あるいは他の大工等)が「天守指図」を創作する個人的・社会的動機は認められない。宮上氏の動機説は根拠のない想像に過ぎず、右平の家系背景や当時の武家・大工社会の仕組みから見ても不自然であると言わざるを得ない。
(「安土城考(その13)」に続く)
安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862
参考文献 (著者あいうえお順)
⼩川守「安⼟城『天守指図』を巡って」2023.3
滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)」2023.3、https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5391312.pdf
正見泰「加賀藩御大工頭への昇任に関する考察」日本建築学会計画系論文集 第76巻 第666号 pp.1461-1467、2011.8
正見泰「加賀藩の大工史料の信頼性に関する考察(上)(下)」「金沢城研究」、石川県金沢城調査研究所、2012.3(第10号)pp.40-71, 2013.3(第11号)、pp.81-104
高橋和生「安土城の復元」https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle
内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12
内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2(1976a)、同988号、1976.3(1976b)
満田高久「幻の安土城天主の復元研究の思い出」鯱光、2017.11
満田高久「池上家『天守指図』の 安土城天主史料としての重要性とその天主の構成について」、2025.2
宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)
