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声を上げることが、希望になる時代に—あなたの声を消さないためのトーンポリシング論


国会前や新宿駅前で、連日デモが行われている。若者たちを中心に、さまざまな年代の人たちが声を上げ始めた。高市政権への抵抗であり、改憲への反対だ。


私はその光景に、大きな希望を感じている。長年、沈黙してきた人たちが、ようやく声を上げ始めたからだ。「どうせ変わらない」「私ごときが声を上げていいのか」そう思い込まされてきた人たちが、ようやく街頭に出てきた。

そんな人たちの姿に鼓舞された。だからこそ、今、このコラムを書こうと決めた。私も「物書きでもない自分ごときが政治的なコラムを書いていいのか」と思っていたけれど、書くことで声を上げることにした。自分なりの連帯を示そうと思った。希望を消さないためにも。私にできるのは、トーンポリシングという概念を通じて、声を上げ始めた人たちが、次にさらされる構造について、言葉にすることだと思うから。

「言い方が問題だ」という封じ方

誰かの訴えに出会ったとき、その内容そのものではなく、「その言い方が気になる」と感じることがある。「怒りすぎじゃないか」「もっと穏やかに言えばいいのに」「そんなふうに言われたら、誰だって反発するよ」などなど。

対等な関係、権力差のない場面では、こうした言葉は「助言」や「注意」として機能しうる。しかし、そこに権力の非対称性がある場合、たとえば社会的に優位な立場にいるマジョリティが、マイノリティに向けてそう語るとき、事情はまったく異なる。その「助言」は一方的な規制や制圧となり、訴えているマイノリティの痛みや背景を見えにくくし、訴えそのものを矮小化する。この構造を「トーンポリシング」と呼ぶ。

私はこのトーンポリシングには、大きく三つの形があると考えている。

(1)矯正型トーンポリシング――外から加えられる抑圧

もっとも典型的なのは、社会的に優位な立場にいるマジョリティが、マイノリティの語りに向ける「矯正型トーンポリシング」だ。差別に怒りの声を上げた人に対して、「そんな言い方では誰にも届かないよ」「もっと建設的に話せば、味方が増えるのに」と返すようなケースがこれにあたる。

一見、対話を促す「善意」のように見えるこれらの言葉は、実のところ、怒る自由や叫ぶ権利を封じようとするものでもある。その背景には、マイノリティの怒りや痛みに直面したとき、自分の実存が揺さぶられることへの不安と防衛がある。だからこそ、マジョリティは、マイノリティの「語り方」の問題にすり替えることで、自らの安定を保とうとする。

(2)迎合型トーンポリシング――内側からの検閲

より見えにくく、より深く根付いているのが「迎合型トーンポリシング」だ。これには二つの形がある。

一つは、マイノリティが同じマイノリティに向けて行う形だ。マジョリティのまなざしを内面化したマイノリティが、「マジョリティをざわつかせない語り方」を「正しさ」として、同じマイノリティに要求する。「気持ちはわかるけど、あの言い方は運動のイメージを悪くする」「もっとソフトに伝えれば、無党派層に届くのに」といったように。

もう一つは、マイノリティが自分自身の語りに向ける形だ。声に出す前から、「これを言ったらどう見られるか」を先回りして計算し、切実さや、怒り、鋭さを自ら削いでいく。

この自己への迎合型は、外部から見えない分、より深く内面化された抑圧として機能する。その背後には、マジョリティからの承認欲求や、抑圧され続けてきた劣等感を、他のマイノリティへの優越感で補填しようとする心理的機構がある。そして、語りを整えることが「よいこと」とされるなかで、マイノリティの語りのざらつきや鋭さは徐々に平準化され、均されていく。「怒っていないマイノリティ」「話のわかるマイノリティ」ばかりが信頼される構図のなかで、語りの多様性と連帯の可能性は、静かに損なわれていく。


(3)複合型トーンポリシング――善意を装った搾取
最も質が悪いのが「複合型トーンポリシング」だ。「正しい語り方を求める矯正」と「迎合としての抑制」が重なり合う形のトーンポリシングである。

たとえば、進歩的でマイノリティに共感的な自分を他のマジョリティに示したいマジョリティがいるとする。そのマジョリティは、マイノリティの語り方に「こう言えば伝わるよ」と頼まれてもいないのに助言を与える。「あの言い方じゃ損しちゃうよね」「ちゃんと伝えたいなら、もっと冷静なほうがいい」などと言って。

こうした言葉は、一見するとマイノリティの「味方」のようでいて、実際には、他のマジョリティの称賛を得るために、マイノリティの語りを矯正しようとする行為だ。「わきまえた自分」を演出し、自分の評価を上げるためにマイノリティの語りを利用する。こうすることで、マイノリティの語りを抑圧する。

3つのトーンポリシングの具体例

この三類型は、現実の場面において、どのように作動するのか、具体的な事例を挙げて説明したい。

ケース1:職場でハラスメントを訴えた女性

矯正型
・上司や会社側から「そういう激しい言い方じゃ誰も聞いてくれない」「冷静に話してくれれば対応できる」と言われる。
迎合型
・同僚の女性から「気持ちはわかるけど、あの言い方だと会社でやりにくくなるよ」と言われる。
・本人が「面倒な人と思われるかも」「私の言い方が悪いのかもしれない」と葛藤する。
複合型
・「理解ある」男性同僚が他の男性社員のいる場で、ハラスメントを受けた女性社員に「君の言ってることはもっともだ。でもあの言い方では逆効果だよ」と言う。

ケース2:改憲反対デモに参加しようとしている市民

矯正型
・与党の政治家や与党寄りのメディアから「過激で非難ばかりしている」「感情的なデモより建設的な対話を」「過激なやり方では賛成派を増やすだけだ」と言われる。


迎合型

・同じ反対派の市民から「プラカードの言葉が過激すぎる」「あのシュプレヒコールは引く人がいる」と言われる。
・市民本人が「こんな言い方、職場の人に見られたら過激と思われる」「私ごときがこんな風に声を上げていいのか」と葛藤する。
複合型
・リベラル系の知識人が「憲法への懸念はわかる。ただあのデモは逆効果だと思う」と語る。

ケース3:SNSでフェミニズムについて発言した女性

矯正型
・男性から「そんな攻撃的な言い方じゃ誰も賛同しない」「ヒステリックに見える」と指摘される。
迎合型
・同じ女性やフェミニストから「過激なフェミニズムはむしろ運動のイメージを悪くする」「もっと穏やかに発信している人の方が変化を生んでいる」と言う。
複合型
・「フェミニズムに理解のある男性」がSNSでフェミニストの女性に「君の言ってることは正しい。でもあの言い方では反発を招くだけだよ」と言う。

学校教育は「大成功」した―迎合型を育てる装置

これほどまでに、今の日本社会でトーンポリシングがこれほど深く根付いているのは、偶然ではない。それは学校という場で、長年にわたって、制度的に育てられてきたものだからだ。

学校教育はしばしば「失敗した」と言われる。政治的無関心、従順な市民、異議を唱えない人間を生んだ、と。しかし私はそれを「失敗」とは思わない。むしろ、学校教育は設計通りに機能し「大成功」を収めたのではないか。

教室は権力の非対称性が極めて明確な空間だ。教師は評価し、進路を左右し、日常を支配する強者であり、子どもは弱者だ。その空間で、教師たちは日常的に子どもたちにトーンポリシングをしてきた。「先生にそういう言い方はダメ」「もっと丁寧に言いなさい」「感情的になっても誰も聞いてくれないよ」などと言って。

しかし、教師たちを単なる「加害者」として責めることはできない。かれら自身もまた、同じ教育システムの中で「いい子」であることを求められ、トーンポリシングを内面化させられてきた犠牲者でもあるからだ。かれらは、自分が受けた抑圧を「教育」という善意の名のもとに、無意識に再生産させられている。

さらに「子どもらしくあれ」という暗黙の要求が学校空間には存在する。「子どもらしさ」とは、一見微笑ましい言葉だが、実際には「子どもらしくない」子どもの怒り・疑問・異議申し立てを無効化する機能を持っている。「なぜこのルールがあるの」と問えば「素直じゃない」。「それはおかしい」と言えば「生意気」。「嫌だ」と言えば「わがまま」。

内容ではなく、異議を唱えること自体が裁かれる。これは矯正型トーンポリシングそのものだ。このような矯正型トーンポリシングに晒され続けた果てに、子どもたちは学習性無気力に陥ることとなる。

そして教師自身も、トーンポリシングをされ続けてきた。政治的な問題意識を持つ教師、権力に批判的なスタンスをもつ教師は、「日教組だ」「偏向教師だ」「パヨクだ」といったレッテルを貼られ叩かれた。その圧力の中で、教師たちは自己検閲するようになり、政治性が漂白されたノンポリの教育が長年行われてきた。

ここに深い逆説がある。「偏向教育を排除する」という言葉は、中立に見えて、実際には権力に都合のいい方向への偏向を完成させる行為だったのではないか。ノンポリこそが最大の政治性だった。

政治を語らない教育は、現状を肯定する教育だ。異議申し立てや怒りを表す言葉や手段を与えられないまま子どもは大人になる。だから、大人になって社会から「もっと穏やかにデモをしろ」と言われたとき、それに反論する気概や言葉を持てないのである。学校がそれらをあらかじめ奪ってきたからだ。

学校は社会の縮図だ。学校にとって都合のいい「いい子」を育てる装置は、そのまま権力にとって都合のいい「いい市民」を育てる装置でもある。「子どもらしく」が「市民らしく」になり、「穏やかに、従順に、異議を唱えずに」が内側の価値観として定着していく。

だから今、改憲の危機に直面して人々が声を上げようとするとき、もし自分の中で「そんな声高なやり方、言い方では伝わらない」という自己検閲の声が聞こえてきたら、その声は権力に由来するものではなく、学校や社会の中で培われた、自分の中の「いい子」から由来しているものだと気づいて欲しい。

日本社会に深く根付く迎合型の自己検閲

三類型の中で、日本社会に最も深く根付いているのは、迎合型の自己検閲だと私は考えている。

日本の「空気を読む」文化は、単なる対人配慮ではなく、権力の意向を先読みして自分を合わせる訓練でもある。「迷惑をかけない」という倫理は、デモや声を上げる行為を「迷惑をかける行為」として道徳的に裁く倒錯した機能を果たしてきた。60年・70年安保の記憶は「政治運動=過激・危険」というイメージと結びつき、世代を超えて内面化されてきた。

「どうせ変わらない」「声を上げても無駄」という感覚は、無力感ではない。無力であるよう、長い時間をかけて学習させられた結果だ。抑圧が長く続くと、外からの監視がなくても、人々は自分の中に監視者を住まわせる。フーコーが言うところのパノプティコンの内面化だ。残念なことに、学校はその監視者を、子どもに内面化させる場所として機能してしまった現実がある。

戦略としてのトーン調整と、権利としての怒り

とはいえ、たしかに「穏やかに伝えた方が効果的」という意見には、一定の合理性もある。しかし、戦略としてのトーン調整と、トーンポリシングは区別されなければならない。

自分の意志で、目的のためにトーンを選ぶのは主体的な判断だ。問題は、他者がその選択を奪うとき、あるいは自分自身がその選択肢を持てなくなるとき。怒りを怒りとして表現する権利は、戦略以前の問題である。

そもそも「穏やかに言えば聞いてもらえる」という前提自体、検証が必要だ。穏やかに言い続けた結果、ここまで来てしまった、という現実がある。歴史を見れば、社会の大きな変化の多くは、「穏やかではない」表現や行動から始まっている。デモを「逆効果」と言う人が、その判定を通じて何を守ろうとしているのか。そこを問い返す必要がある。問題は効果ではなく、誰が「効果的かどうか」を判定しているかだ。

活動家スタンスと教育者スタンス—チューニングという概念

ここで一つ、正直に告白しなければならない。私自身も、マジョリティに自分の訴えを伝えようとするとき、自分の語りを調整することがある。一見すると、迎合型トーンポリシングに見えるその行為は批判されるべきことなのか。この問いを考える時、私は活動家スタンスと教育者スタンスという2種類のスタンスについて考える。

まず、社会変革のために問題を可視化し、不正を前にして怒りの声を上げること。それは社会を変えるための正当な行為だ。これは、活動家スタンスの核心にある。

しかし私は教育者でもある。教育者スタンスは、相手の変容を粘り強く見守り、すぐには届かないかもしれない言葉を、それでも投げかけ続けることが核にある。そのために、ときには自分の語りを調整する。私はこれを迎合型トーンポリシングではなく、「チューニング」と呼びたい。

チューニングとは、自分の痛みや怒りを否認せず、しかしそのまま手放すのでもなく、相手との関係を諦めないという意志のもとに、それをどう届けるかを意識的に選ぶことだ。

ここで重要なのは、チューニングは迎合型トーンポリシングとは本質的に異なるということだ。迎合型トーンポリシングは、マジョリティの承認を得たいという欲望や、抑圧を内面化した結果として、無意識に自分を検閲してしまうことだ。

対してチューニングは、「この人との関係を諦めたくない」「この人に気づいてほしい」という意志から生まれる、意識的な選択だ。つまり、同じ「自分の語りの調整」であっても、それが無意識の服従から来るのか、意識的な関与から来るのかによって、その意味はまったく異なる。

私はこの二つのスタンスを、状況に応じて行き来している。この人との関係を諦めたくないときは教育者スタンスに立つ。粘り強く、じっくりと、相手の変容を待つのだ。怒りを感じていても、それをそのままぶつけるのではなく、チューニングしながら届けようとする。それは妥協ではなく、長期的な変容への投資でもある。

一方で、あまりに理不尽で、許せないと思うときは活動家スタンスに立つ。怒りの声を上げ、問題を可視化する。ここではチューニングはしない。怒りをそのまま言葉にすることが、問題の輪郭を社会に刻みつける行為になると考えるからだ。

この両スタンスの往還は、一貫性のなさではなく、相手や状況を読みながら、どちらのスタンスが今必要かを判断する、実践的な知恵だと私は捉えている。そして、この知恵こそが、社会の理不尽に抗いながらも、自分自身が燃え尽きることなく社会に関わり続けるための「持続可能性」を支えるものになるはずだ。

そして、この往還を可能にするためには、ある前提が必要となる。それは、自分が今どちらのスタンスにいるかを自覚することだ。無意識に自己検閲しているのか、意識的にチューニングしているのか。その違いを自分の内側で見分けられることが、迎合型トーンポリシングに陥らないための、防衛線となる。

言葉を持つことが、一歩を可能にする

改憲の危機という現実の恐怖が、長年の学習された無力感を上書きしつつある。人々が声を上げ始めた。しかし人々は今、矯正型・迎合型・複合型の三つのトーンポリシングが作動する構造の中にいる。

だからこそ、知恵が必要だ。自分が上げた声に投げかけられた言葉が、トーンポリシングなのかどうかを見極める力。そして、自分が他者の訴えをトーンポリシングしていないかを問い返す習慣が。自分の声が矮小化されないために。そして、他者の声を消さないためにも。この構造を言語化することに意味があると、私は思っている。言葉を持つことで、自分に起きていることが見える。「なぜ私は声を上げられないのか」が、個人の弱さではなく構造の問題だとわかる。それだけで、内なる監視者の力は少し弱まる。完全には消えなくても、「これはトーンポリシングだ」と名指しできることが、一歩を踏み出す力になる。

声が消える瞬間を見つめることが、すでに抵抗の始まりだ。「また自分を検閲している」と気づくこと。その気づきは小さいかもしれないが、無意識の服従とは決定的に異なる。

トーンポリシングという言葉を知ると、これまで見えていなかった鎖が見えるようになる。見えた鎖は、もう以前と同じようには機能しなくなるのだ。

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