【コラム】文章読本を文章読本する
世の中には文章読本という本がある。いやジャンルがある、というべきかも知れない。しかし、誰でも書いていいというわけではなさそうである。功成り名遂げた、大家と言うべき作家でないと書いてはいけないようなのだ。まあ、ネット上のこんな片隅に書き散らすのなら、別に私のような人間がしてもいいのかも知れないが、さすがにそこまで図々しくはない。なので、今回のコラムはこれまでに書かれ、出版された文章読本を取り上げ、書評めいたことをしてみたい、文章読本を文章読本してみたい、という目論見である。
確かに私はその手の本を多く読んできたかも知れないが、すべてを網羅しているとはとても言えない。なので、とりあえずいつものようにネットで「文章読本」と検索してみたら、ウィキペディアのページに行き当たった。というか、文章読本で項目がわざわざ作られている。それによれば日本で初めて文章読本なるものを書いたのは谷崎潤一郎のようである。昭和のはじめのことだ。そして川端康成やら、三島由紀夫といった大家が同じような本を残している。実のところ、私はこの人たちの文章読本は読んでない! しかし、地元の図書館に行ったら『吉行淳之介選 日本ペンクラブ編 文章読本』という文庫本があったので、借りてきた。つまりアンソロジーである。下の写真にある偉大な作家の皆様もやはり文章読本を残してきているので、それらのいいところを抜粋したものだ。これなら手間がないし、手っ取り早い。

しかし、この手の文章読本も大まかに二つの系統に分かれるような気がする。つまり文章論、日本語論的なものと、より実践的な小説作法的な二つの種類である。つまりスポーツに例えるなら、引退したプロ野球選手が適当な指南書を書くにあたり、身体の鍛え方、筋トレの仕方だけを書いても話にならない。とは言え、変化球の球の握り方だけを詳しく解説してもそれだけではプロ野球のピッチャーへの道は遠いというものだ。筋肉も必要だし、それ以外の細かな技術も併せて身につけてこそプロの野球選手である。それと同じように、プロの作家になるためには言語学的な日本語についても、細かな小説作法も併せて身につけるべきである。
ということは、やはり文章読本とは作家志望の若者に向けられて書かれたものがほとんどである。小説などでなくとも、博士論文を書き上げたい大学院生であったり、企画書を上司に認めさせたい若いサラリーマンのような、自分が書く文章を磨き上げたい人が手に取る本だろう。なので、大家と言われるような作家でないと話にならないし、編集者も相手にしてくれない。そうした文章読本の中でお手本として取り上げられるのは、たいてい大作家の名文である。夏目漱石であったり、森鴎外であったり、志賀直哉だったりする。なかでも志賀直哉は前記のアンソロジーなどにもよく出てくる。曰く志賀直哉の文は平明で、癖がなく、簡潔でまとまっている、若い皆さんもぜひお手本とすべきである、などと。しかし、そんな名文を読まされて真似したところで、褒めてくれる人などいないのも想像できそうである。ただの真似っこでは駄目なのだ。
そのあたり、大作家の名文以外の、一般に我々がよく目にする新聞記事や求人広告の文章を取り上げて日本語を論じているのが井上ひさしの『自家製 文章読本』だ。私はむしろこのやり方のほうが、作家を目指す若者には丁度いいんじゃないか、という気がしないでもない。確かに大作家の名文に触れることは意義があるだろう。画家だって音楽家だって、偉大な過去の芸術家の作品に触れて、その高みを意識しないことには、目指すべき山も見えないだろう。しかし、作家の文章においては違うような気がしてならないのである。志賀直哉の名文を提示されて「はい、これがあなたが目指す文章です。見習って真似しましょう」と言われても、そんなのは不可能だし、意味のない行為である。書きたいもののテーマが同一なら参考になるかも知れないが、そんなことが一致することなど、まずありえない。はっきり言うなら、若い作家の中の「俺はこういうものを書きたいんだ」という情熱には、昭和の大作家の文章など、なんの見本にもならないのではないか、という気がしてならないのだ。しかし、もっと地に足についた身の回りの文章のほうが参考になる。例えば、とあるキャバレーの求人広告の一部。
花にも色々あるがキャバレーの花もいいものだ。我々は不況こそチャンスとして水商売を土台に総合レジャー産業にチャレンジし続けています。我々は若い! 若いから何でも可能なのだ!

確かのこのような勢いのある文章こそ、見習う面があるのかも知れないし、そもそも我々が普段の生活で主に目にするのは、こんな文章がほとんどである。この井上ひさしの本が発行されたのは昭和62年(1987年)だが、当時と現在の状況は大違いと言ってもいいだろう。求人広告であろうと、新聞記事でもそうだが、必ず書いた本人とは別の誰かの校正が入っていることは明白だからだ。そして一般の人々が触れていた素人の文章(例えば新聞の投書など)でも、それは同じである。ところが、現在は状況が全く違う。言うまでもなく、21世紀の現在ではインターネット上の掲示板や、SNSが生まれている。そして我々はそんな普通の人々が書いた普通の文章を一日の間で多く目にしている。当然、第三者の校正など通っていない。昭和の時代ではまったく考えられなかったことだろう。
かなり昔のことだが、21世紀のはじめの頃、私は2ちゃんねるに入り浸っていた。そして当時馬鹿みたいに嵌っていたスキーについての情報を集めようと2ちゃんねる内の「スキースノボ板」通称スス板を毎日のようにチェックしていたのである。SNS全盛期の現在からすれば、今の若い人は2ちゃんねるとはどんな掲示板なのか知らないかも知れないが、誰もが好きなようにスレッドを立てて、話題を募る、そんな仕組みだ。例えばスス板なら誰かが「越後湯沢の雪ってどう?」とスレッドを立て、それに対して様々な匿名の別人が情報を書き込んでいく、というスタイルだ。そのスス板にある日、匿名の女性がスレッドを立てた。しかし、その内容が、何とも分かりづらく、彼女が何を聞きたいのか、何を発信したいのか、まったく意味不明だったのである。もう二十年以上前なので詳細は忘れてしまったが、つまり、頭の悪そうな文章で、何を言おうとしているのかもぼんやりとし、誰を非難しているのか、どうとでも受け取れる悪文だったのだ。となると、意地の悪いことで知られる2ちゃんねらー達がぞろぞろとそのスレッドに集まり、彼女の文章を添削し、加筆校正し、一種の文章講座のようになってしまったのである。そう、こうした事態は二十世紀にはまずなかった。(ただ二十世紀にもパソコン通信があり、同じようなコミュニティはあったと思うが、私はまだ参加していないので、ここで語れるようなことなにもないのである。)もちろん2ちゃんねるやSNSがすべてではない。『小説家になろう』であったり、もちろんこのnoteもそうである。二十一世紀の現在、我々を巡る日本語の環境も少しずつ、変貌している最中なのかも知れない。
そんなわけで、本題である。私がこれまで読んできた文章読本の中で特に気に入った、参考になったとも言える本を三冊ばかり紹介したい。いずれも20年くらい前の本なので書店には並んでいないだろう。しかし三冊とも私の地元の図書館で借りることが出来たので、手に取ることはそう難しくないはずだ。まずは、
『スティーブン・キング 小説作法』スティーブン・キング

である。著者については説明するまでもない、モダンホラーの巨匠である。わかりやすいタイトルをそのまま受け止めるなら、大作家であるキングが小説家を目指す若者たちに向けて、懇切丁寧に小説の書き方をアドバイスしている本だ、と受け止める方がほとんどだろう。しかし、そのあたり、少し違う。最初の章のタイトルは「生い立ち」である。そう、この本はキングのエッセイでもあり、どのようにして大作家への道を歩き始めたかを語る回顧録風の本でもある。しかし、後半は違う。ちゃんとした小説作法そのものの様相を呈している。とはいえ、前半のエッセイにこそキングがいかにして自らストーリーを生み出す作家になっていったのかを知れて面白い。若き日のキングはとにかくたくさん本を読み、映画を見ていた、ということだ。実は私は個人的にも、小説や漫画など、自分で物語を生み出そうという衝動を起こす原動力となるのは、そうしたたくさんの物語を消化することだ、と思えるのだ。たくさん摂取すれば中には消化不良を起こすものも出てくる。つまり「これは違うんじゃないか」「こうしたほうがいいんじゃないのか」という思い、衝動が生まれるだろう、それは小説や漫画を自ら書きはじめるきっかけになるのは確実だからだ。ある作家はそんな行為を「神殺し」と呼んでいた。神様が作ったこの世界に不満がある、自分の世界を新たに創造したい、それが神殺しだというのである。 前半の「生い立ち」が終わると「文章とは何か」「道具箱」「小説作法」と続いていく。ここからがいわゆる文章読本になってくる。「道具箱」の中のエピソードを紹介したい。キングがまだ子供の頃、大工をしていた叔父の仕事を手伝って網戸の取り換えをした時のこと、叔父は道具がいっぱいに詰まった木製の重い道具箱を現場まで運んだ。しかし実際に使ったのはドライバー一本だった。キング少年はどうしてもそれが腑に落ちずに、指摘する。すると叔父は返した。
「ああ。でもな、スティーブ」叔父は屈み込んで道具箱の取っ手を掴みながら言った。「何があるか、ここへ来てみなきゃあわからないからな。だから、道具はいつも、全部持っていた方がいい。そうしないと、思ってもいなかったことに出っくわして弱ったりするんだ」
存分に力を発揮して文章を書くためには、自分で道具箱を拵えて、それを持ち運ぶ筋肉を鍛えることである。備えがあれば困難にぶつかっても立ち往生せず、目的にかなった道具を手にとって、ただちに仕事にかかれるだろう。
これは教訓である。もちろん、小説を書く上での教訓だ。あらゆることに備えて準備しておけ、自分が書きたいのがミステリィだからといってミステリィだけ読んでおけばいいというものではない。他のジャンルも、いやノンフィクションの本も読んだり、映画もたくさん見たりして準備しておけ、でないともしもの時に躓いてしまう。道具箱にはたくさんの道具を揃えておけ、と。さらに次の「小説作法」では、キングの筆も乗ってきてより実践的な記述になる。用例を並べ、批評し、どこがいい、どこが悪いとキングなりの文章術が開陳されているのだが、もちろんここにそれらすべてを引用することなど出来ない。しかし、シンプルなキングの考えを抜き出すなら、ここだろう。
私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして大団円のZ地点へ運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にするための会話。この三つで小説は成り立っている。
うーん、あまりにもシンプルな小説作法である。これ以上でもないしこれ以下でもない。全くその通りなのだが、ならこのやり方を実践すれば誰でもキングのような大作家になれるかと言えばそうでもない。話はそこまで単純でもないが、詳しくはこの本を読んでもらい、キングの薫陶を直に受けてみるべきである。あなたが作家を目指しているのなら、間違いなく時間の無駄にはならないだろう。それよりもこの本の一番のトピックは「小説作法」の後に収録されている「後記」ではないだろうか。キングがこの本を途中まで書き上げた1999年に彼は交通事故に遭い、脚の骨を複雑骨折するという重傷を負う。というより、危険運転の車に跳ね飛ばされたので、亡くなってもおかしくないような大事故だった。キングを跳ねたのはスミスという名の、過去に何度も事故を起こしていた危険人物だった。その事故の場面、
スミスは私が意識を取り戻すのを見て、救急車がこっちへ向かっている、と言った。少しも慌てた様子はなく、それどころか、まるで上機嫌だった。杖を膝に横たえて岩に腰かけたスミスは、同病相憐れむ快感に耽っている。お互い、とんだ災難だったなあ、とその顔は言っている。事情聴取に答えて彼は「マーゼルのチョコレートがほしくなって」ブレットを連れてキャンプ地を出たと供述した。数週間を隔ててこれを聞いた私は、すんでのことに、自分の小説から抜け出したような人物に殺されるところだったという感慨に打たれて、こみ上げる笑いを禁じ得なかった。
いや、読んでいた私も声を出して笑ってしまった。(不謹慎)
『若い小説家に宛てた手紙』バルガス・リョサ

そして二冊目、こちらも大作家であり巨匠、2010年のノーベル文学賞の受賞者である。ちなみにスティーブン・キングも物凄い実績で経歴なのだが、ノーベル文学賞はエンタメ系の作家には贈られないそうなので、キングの受賞はなさそうだ。実は私もバルガス・リョサの本にはかなり強い影響を受けている。特に出世作の『都会と犬ども』には雷に打たれたようなショックを受けたほどの衝撃だった。読みながら本が手放せない、完全に惹きつけられて身動きも出来ない、そんな読書体験である。私がそうした強烈な体験をしたのは他には『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー、『ときめきに死す』丸山健二、の二冊である。私の中のオールタイム・ベストはこの三冊になる。どれも多感な十代や二十代前半に読んだものなので、このラインナップが更新されることはもうないだろう。
それはともかく、本書は題名通り、若い作家あるいは作家を目指している無名の若者から届いた手紙に対して返信し、自らの文学論、小説作法を授けるという内容である。文章読本でありながらも、書簡形式の文学書とも言える内容だ。前のキングのところで紹介した小説を書くことは「神殺し」だと言ったのはこのバルガス・リョサなのだが、それ以上にストイックに文学に向き合うことを彼は求めている。南米、それもマッチョ志向の強い新大陸で育った彼は文学に浸ることなど女々しいこと、という価値観の中で若き日を過ごしたそうだ。現在の日本であってもそんな傾向も無きにしもあらずだが、二十世紀のペルーではなおのこと強かった。それなのに文学に向き合うのはよほどの覚悟を必要としたのだろう、確かに私の個人的な経験からも肯ける主張だ。とにかく小説を書く、という行為は孤独である。みんなと手を取り合って、協力してチームワークを発揮して、ということとはおおよそ縁遠い。なぜかと言えば、小説を書く時はいつも一人である。それも周囲の雑音をシャットアウトした上で取り組まねばならない。「飲みに行こうぜ」と誘われても断らなければならないかも知れないし、いつの間にか友人が減っていくのにも耐えねばならない。もちろん、そうした友達付き合いと小説書きを両立させて、一方でワイワイと遊び、一方であっという間に小説を書き上げる、なんて器用なことをしている人もいるかも知れないが、基本的に小説を書くなんて行為は孤独である。もちろん、私が異様に筆が遅いのでそんなことを言っているだけかも知れないが、キングやリョサなどの売れっ子作家でもない限り一日の24時間の中にどうやって執筆時間をひねり出すか、というのが大問題になる。なので、リョサのこの言葉は一種の戒めとして聞こえる。
文学の仕事というのは、暇つぶしでも、スポーツでも、余暇を楽しむための上品なお遊びでもありません。他のことすべてをあきらめ、なげうって、何よりも優先させるべきものですし、自らの意思で文学に仕え、その犠牲者(幸せな犠牲者)になると決めたわけですから、奴隷に他ならないのです。(中略)フローベルは、「ものを書くのはひとつの生き方である」と言いました。これを言い換えると、ものを書くというのは美しいが、多大の犠牲を強いるものであり、それを仕事として選びとった人は、生きるために書くのではなく、書くために生きるのである、となるでしょう。
あなたは重たいなあ、と思うかも知れないが、ここまでストイックに文学に向き合ったからこそ、リョサはノーベル文学賞にまでたどり着いたのだろう。とにかく本書は多岐にわたり、実践的である。章ごとに小説という文学の細部を分解して論じ、手紙という形式を取っているために、解りやすく若い作家を導いている。章のタイトルだけ並べるならこんな具合だ。「説得力」「文体」「語り手。空間」「時間」「現実のレヴェル」「転移と質的飛躍」などなど。さらに現実のレヴェルの中では、最も短いとされるある短編小説を引用して論じている。それはこんな短編だ。
彼が目を覚ましたとき、恐竜はまだあそこにいた。
この一文がその短編小説の全てだ。南米の小説と言うとガルシア・マルケスに代表されるマジック・リアリズムが有名だが、この一文もそんな荒唐無稽かつ魔術的な印象を受ける。もちろんそんな南米であっても、リアリズム小説と幻想文学の境界はきっちりとあるのだが、小説というものを書く行為は、フィクションをいかにもっともらしく読者に感じさせることが全てだ、とそう思わせる一文である。そのあたり、リョサに直接語ってもらおう。
ある小説の言葉と構成が効果的で、しかも読者を納得させるにふさわしいものになっているということは、テキストの中で、テーマ、文体、それに視点が完全に適合し、申し分なく融合しているということにほかなりません。そのような小説を読んだ読者は、そこで語られている内容から暗示を受け、作品世界の中に引き込まれてしまいます。その時、読者は作品の語り口のことなどすっかり忘れ、この小説には技巧や形式が存在せず、現実が具体的な形をとって現れ、文字で書かれた人生そのもののように思われる登場人物や風景、事件を通して人生が目の前に現れてくるように感じるはずです。小説の技法の偉大な勝利とはそういうことを言うのです。
まったく、私も心の底からそんな小説を書きたいものである。
『まだ見ぬ書き手へ』丸山健二

三冊目、先ほども『ときめきに死す』がオールタイム・ベストだと言ったがその本の作者である。丸山健二は23歳の時に当時としては最年少で芥川賞を受賞して文壇にデビューしている。私も若い頃はこの人の本を小説からエッセイまでかたっぱしから読んでいた。しかし最近は離れている。というのも、21世紀になってからは、難解になりすぎて何が何やらついていけないような小説を立て続けに発表しているからだ。本書はそんな難解な本を書く前に出された文章読本である。いやしかし、本書を文章読本というのは無理があるかも知れない。前の二冊、キングもリョサも当たり前だが、日本語論的な部分はない。もちろん原著は英語とスペイン語で書かれたからなのだが、それでもそれぞれの言語での文章論、言語論的な記述は多い。しかし、丸山健二のこの本には日本語論、文章論的な面はほとんどない。過去の偉大な作家の名文を取り上げて、これがいいあそこが悪いなどと論じている部分など皆無だ。なら本書には何が書かれているのか?
まず丸山健二は小説家を目指す若者「あなた」という存在を作り、彼に向かって語りかけている。この点はリョサの本と似ているが、もっと実践的であり具体的だ。そんな指導は生活の事細かな面にも及んでいる。いや小説を書き続けるための挟持をどのように持つか、普段の生活と両立させるためのアドバイスが全ページに渡って続いている。それでも最初の章では「私の待ち望むまだ見ぬ書き手」と題し、どのような人物が小説を書き始めるのがいいか、勧めている。それはこんな人物だ。
あなたは形にこだわるのが嫌いで、決められたレールの上を行くことに嫌悪感を抱き、力の強い者に従うことを忌み嫌い、人の上に立ちたがるような夢も抱かず、反抗心が強く、正義感も強くて、だが矛盾だらけで、その矛盾に苦しみ、やり場のない怒りと棄て場のない悲しみを併せ持ち、虚無的でありながらも決して逃げることはない、というような人間ではないでしょうか。もしそうだとすれば、あなたは間違いなく、第三のタイプなのです。(中略)あなたに筆を取ってもらいたくて私はこれから延々と語りつづけ、この一冊をあなたに贈ろうと考えているのです。
いや、もしある人が書店や図書館でこの本を見つけて手に取ったとしたら、その人はすでにこのタイプなんじゃないか、という気がしないでもない。世の中の大部分の人は小説なんか書かないからだ。それでも次の章「書きながら書き方を身につける」から指導はより実践的になる。しかし前述したように、用例や基準とするべきような大家の名文などは出てこない。この本にはそういうものは皆無なのだ。その代わりにあるのは具体的な指導、助言、教示である。「書き出したら振り返るな」「細部にこだわるな」「会話を使いすぎるな」「結論を急ぐな」などなど。そうしてとにかく第一作の小説を書き上げたあなたに丸山健二はこう告げる。「七回書き直せ」と。正直な所、私も何回か書き直したことはあるが、さすがに七回はない。この書き直せというのは、推敲して添削し、少し手を加える程度の修正ではなく、一度書いた原稿を横に置いてはじめから書き写せ、と言っているのだ。その過程で最初のアラが見えてきて、より良いものに直っていく、というのだが、確かにその通りと肯ける反面、あまりいじくりすぎてもどうなんだろう、というのが私の正直な感想である。二回か三回でも充分じゃないだろうか。ただドツボにはまって永遠と堂々巡りをするはめになってしまうような気がしないでもないのだが。
それはともかく、丸山健二は七回書き直したらすぐに新人賞に応募するようなことをせず、二作目三作目も同じようにして書き進め、三作の小説を完成させてからその中の一番良いものを新人賞に応募しろ、とアドバイスする。そうすれば、賞を取るだろうから、二作目を書きますと言って四作目を書き進めろ、だそうである。もちろん、こんなに上手くいくことはまずない。ただ書いては応募し、書いては応募していても駄目だ、と言っているのだろう。それに現在では新人賞に応募することが作家としてデビューする全てではないからだ。確かにこの本が書かれた頃にはインターネットなどまだ一般的ではなかったし、新人賞に応募するぐらいしかその手段はなかったわけだが、丸山健二の口うるさい指導はさらに続き、あなたが作家としてデビューし、そこそこ名前が売れた存在になってからも終わることはない。「近づいてくる下らない人間を遠ざけろ」「恋愛を安易に作品に持ち込むな」そして「孤独に近づきすぎるな」
小説を書くという行為は孤独と接近しがちである。そしてそれ自体が作品のテーマにもなり得る。しかし丸山健二はこう戒める。
その淵を覗き込むだけならまだしも、底へ向かって降りるということになると、更に危険は増します。ただ魅力的だからといういい加減な気持ちで、ろくに腹も括らないで試すと、安っぽい自殺というような残念な形でせっかくの人生を終えてしまうでしょう。これまで多くの芸術家が自ら命を絶ったのは、その覚悟と、強靭な精神を持ち合わせていなかったからなのです。
確かに胸に刺さるような忠告だ。小説だけでなく、芸術や創作という行為には誰にも理解されないと思い悩んだり、失望して自暴自棄になったり、ふさぎ込んだり、そんな重い気分に苛まれることがよくある。だったら小説なんか書かなきゃいいじゃん、周りの人はそう言うだろうが、本当にその通り、止めてもいいのである。現に私も何十年も小説を書いたりしてきたが、一時期は馬鹿馬鹿しくなって筋トレとスキーに嵌っていたこともある。バルガス・リョサにしろ丸山健二にしろ、生活のすべてを投げ売って、ひたすらストイックに文学と向き合うことを求めている。しかし一方で軽く考えることも必要だ。安易な手段を取らないためにも……
もちろん丸山健二もそのあたりのことは考えている。本書ではまるで口うるさい小姑のようにネチネチと、箸の上げ下げにも注文をつけるような細かい助言を続けてきたが、最後の最後でそれらをすべてひっくり返す部分がある。
文学の、無限の大海原のただ中で、水平線の彼方から突如として現れるあなたを楽しみに待っています。そして、私とは正反対の姿勢で、つまりこの本を一笑に付しながら、私をあっと言わせるような作品を引っさげて登場する書き手をも、それ以上に楽しみに待っています。
たしかにその通り、今回紹介したキングにしろ、リョサにしろ、丸山健二にしろ、いや夏目漱石とか志賀直哉の名文なども、参考程度に胸に止めおけばいいのだ。小説なんてものは誰でも自由に参入できるものなのだから、こうでなければいけない、なんて肩肘を張る必要などないのである。
と、ここまで今回のコラムを書き続けてきた私も、作家を目指す若者に向けて何やらアドバイスをしたい、という図々しい気持ちが頭をもたげてきた。職業作家でもない私の忠告なんて鼻で笑われそうだが、何十年も小説を書き続けていれば言いたいことも積もっているのである。しかしこれから長々と論を張るのも無粋だろう。なので簡潔に、たった一行だけのアドバイスを残して今回のコラムを終わりにしたい。
まあ、好きなように書けばいいんじゃないですかね〜(ハナホジ)
