「置きに行ってる人」を減らしたかったのか?
気づいたら「置きに行ってる人をどうするか」という話になっていました。
でも、その問いの立て方自体が、少し違っていたのかもしれません。
少し立ち止まると、見えてくる景色がありました。
ある部長セッションでのことです。
社長との対話が終わったあと、参加者のみなさんに「引っかかったこと」を出してもらいました。すると、かなり早い段階から、いろいろな声が出てきました。
理想と現実のギャップ。
戦略という言葉の曖昧さ。
トップのメッセージと現場感覚のズレ。
そして、組織の中で、“置きに行っている人をどう扱うのか”、という話。
「置きに行ってる社員、残念だけどいるよね…」
「今の仕事に固執しちゃったりね…」
「どうしたら減らせるんだろう…」
そんな静かな対話が始まりました。
たしかに、そう見える場面はあります。
少し引いているように見える。
無難にまとめているように見える。
どこか、前に出ない。
でも、少しだけ立ち止まってみると、見え方が変わってきます。
置きに行くというのは、単なる怠慢なのか。
あるいは、本人なりに合理的に考えた結果なのか。
そもそも、“置きに行く人”という括り方でいいのか。
あの場面、この場面で、自分たちだって少し置きに行っていなかったか。
そんな話になっていきました。
途中で、社長との質疑応答の場面を振り返りながら、
「さっき、みなさんも置きに行ってませんでした?」
と投げかけたら、場がどっと笑いに包まれました。
たぶん、図星だったのだと思います。
他人のことは見える。
でも、自分が置きに行っているときは、案外わからない。
これは、よくあることです。
人は、自分を守ろうとするとき、必ずしも大げさな防衛をするわけではありません。
黙る。
無難にまとめる。
少しだけ距離を取る。
余計なことは言わない。
いったん様子を見る。
そういう形で、静かに“置きに行く”ことがある。
しかも厄介なのは、それが本人にとっては、かなり自然で、かなり合理的に見えることです。
余計なことを言って損したくない。
空気を壊したくない。
わざわざ目立ちたくない。
今ここで言っても変わらないかもしれない。
それなら、少し引いておこう。
そう考えること自体は、ある意味とても自然です。
だからこそ、途中でこんな問いが立ち上がってきました。
本当に減らしたいのは、
“置きに行ってる人”なのだろうか。
それとも、
“人が置きに行ってしまう状態”なのだろうか。
この違いは、小さく見えて、実はかなり大きいと思っています。
人を見始めると、だんだん話は管理や矯正の方向に向かいます。
あの人を変えよう。
あの人にもっと主体性を持たせよう。
どうしたらやる気を出してもらえるか。
もちろん、そういう視点が必要な場面もあります。
ただ、それだけだと、見えなくなるものがあります。
その人がなぜそうなっているのか。
どんな場だと人は置きに行いやすくなるのか。
逆に、どんな関係性や空気があると、人は少し前に出られるのか。
本当は、そこを見たいはずなのに、気づくと人の話になっていく。
気づくと、状態ではなく、個人の属性の話になっていく。
ありのままを受け止める、というのは、案外むずかしいものです。
人はすぐに意味づけをします。
しかも、できるだけ扱いやすい形で。
「あの人はそういう人だから」
「やる気がないんだろう」
「保守的なんだよ」
「年齢的にも仕方ない」
そうやってラベルを貼ると、少し安心します。
わかった気がするからです。
でも、その瞬間にこぼれ落ちるものもある。
その人が置きに行ったのではなく、
その場が置きに行かせたのかもしれない。
あるいは、役割や空気や評価の構造の中で、
置きに行くことが最も自然な選択になっていたのかもしれない。
だとしたら、私たちが見たいのは、やはり“人”というより“状態”です。
置きに行く人をなくしたい。
そう言うと、少しわかりやすい。
でも本当に扱いたいのは、
人をそうさせてしまう場の重さだったり、
防衛したくなる関係性だったり、
言わない方が得だと思わせる学習だったりするのかもしれません。
そして、もうひとつ厄介なのは、
自分がその状態に入っているとき、自分では気づきにくいことです。
他人の置き方は見える。
自分の置き方は見えにくい。
だからこそ、対話が要るのだと思います。
「あれ、今ちょっと置きに行ってたかもしれない」
「言われてみると、さっきは少し守りに入っていたかも」
「自分だけの話じゃなくて、この場全体でそうなっていたのかもしれない」
そんなふうに、自分ひとりでは見えにくいものが、対話の中で少しずつ見えてくることがあります。
置きに行くことそのものを悪者にする必要はありません。
それもまた、人がその場で生き延びるための自然な反応であることが多いからです。
ただ、その状態が常態化すると、組織は少しずつ息苦しくなっていきます。
本当のことは語られにくくなり、
無難な言葉ばかりが増え、
見えているのに触れないことが、静かに積み重なっていく。
だから大切なのは、
“置きに行く人を減らす”ことよりも、
“置きに行かなくて済む状態をどう増やすか”
なのかもしれません。
それは、ずいぶん遠回りに見えるかもしれません。
でも、たぶんそのほうが自然です。
人を変えようとするより、
人が少し前に出やすくなる場を育てる。
ラベルを貼るより、状態を観る。
正そうとするより、何が起きているのかを一緒に眺める。
そういう関わりのほうが、案外遠回りに見えて、自然なのかもしれません。
人をどうするかではなく、人がどうなっているのか。そこから始まる対話もあるのだと思います。
