【シンクロのレシピ】第2章 「気づいてるくせに」
第2章テーマは、シグナル増幅バイアス(Signal Amplification Bias)
シグナル増幅バイアスは【自分が発した好意や関心のサインを、相手が「気づいている」と思い込み過ぎる心理的誤差】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第2章 「君のすべてが“ありがち”に見える」をお楽しみ下さい
前回のあらすじ
曇り空の午後
光が入りきらない美術準備室は、湿った空気と絵の具の匂いで満ちていた
窓際の机には、玲蘭が肘をつきながらノートを広げている
授業の終わりのチャイムが鳴っても、彼女は動かない
「……ねぇ夢凪(ゆな)。ちょっと見てて」
彼女の声はいつもより少し低くて、いたずらを仕掛ける前のようだった
私はスケッチブックの上で筆を止めて、ゆっくり顔を上げる
玲蘭(れいら)は真剣な表情でペンを走らせていた
ノートの端に、ぐるぐるとした線を描き始める
円、矢印、記号。最後に小さな模様
「ふふ……これを見れば、ドキッとするはず」
独り言みたいな声
でも、その“誰か”が誰なのかは、すぐに分かった
彼女は、わざわざ私の席の方へノートを滑らせる
「ねぇ、これ、どう思う?」
私はページを覗き込む
そこには、少し歪んだハートのような形と、意味ありげな線が絡まっていた
「……これ、ハートかな? かわいいね」
そう言った瞬間、玲蘭の肩がピクリと跳ねた
ペンを落とし、頬がわずかに赤くなる
「かっ……かわいいって、なにそれ! べ、別に可愛くなんかないし!」
彼女は慌ててノートを引き寄せ、机を指先でトントン叩く
音が小さく響いて、空気が少し揺れた
「いや、だって、丸みがあって……優しい形だなって」
「ちょ、ちょっと! そんな分析いらないの!」
「……分析じゃなくて、感想だよ」
玲蘭は顔を真っ赤にして、手で頬を隠す
でも、その指の隙間から、少しだけ笑っているのが見えた
「夢凪ってほんと……そういうとこ、ずるい」
「ずるい?」
「無自覚で言ってる感じ。反則よ、それ」
彼女はそう言いながら、ノートの端をびりっと破いた
そして、丸めた紙を私の手に押しつける
「これは……なに?」
「開けなくていい!」
「……うん」
私は素直に頷いて、それをポケットにしまう
玲蘭は小さく咳払いをして、机の上の絵筆を整え始めた
外の曇り空が少し暗くなって、部屋の中の色が変わる
灰色の光が玲蘭の金髪を静かに照らして、赤みの残る頬だけが小さな灯のように見えた
私は黙ったまま筆を取り直し、彼女の横顔を少しだけスケッチした
描くというより、線に気持ちを写しているみたいだった
「……夢凪、また描いてるの?」
「うん。玲蘭の、今の顔」
「ちょ、ちょっと! 見ないでって言ったでしょ!」
彼女が慌てて手を伸ばしてくる
でも私はノートをひょいと避ける
その仕草に、思わず二人とも笑ってしまった
笑うたび、玲蘭の頬がさらに赤くなる
怒ってるのか、照れてるのか分からない
けれど、その境界のあたりが一番きれいだと、私は思っていた
彼女は筆先をつまんで、私をじっと見る
「……ねぇ夢凪、もし私が変なことしても、笑わないでね」
「……変なことって?」
「今はまだ秘密」
そう言って彼女は背を向けた
肩越しに見える髪の動きが、曇り空の下でも柔らかく揺れる
私は静かに息を吸い込む
さっきまでよりも、少しだけ空気が甘く感じた
玲蘭はまだ気づいていない
自分の描いた“暗号”が、もう私の中では、ただの記号じゃなくなっていることを……
「……不思議だな」
つぶやく声は、ほとんど自分だけに聞こえるほど小さくて
でも確かに、そこには笑みが混ざっていた
彼女の怒る声
それが、少しだけ好きだと思った

翌日も、曇り空だった
空の色はまるで玲蘭の気分を写しているようで、どんよりとして、だけどどこか落ち着かない
美術準備室の隅で、彼女はまたノートを開いていた
昨日と同じ席。昨日と同じように、頬杖をついて
ただ違うのは――ペン先が何度も止まること
「……ねぇ、夢凪。昨日の、ちゃんと見た?」
「うん。見たよ」
「……ほんとに?」
「……うん。ハート、かわいかった」
その瞬間、ペンの音が止まった
玲蘭の肩がぴくりと動いて、また赤くなる
「か、かわいくなんて……! もう、そういうのやめて!」
「……やめたほうがいい?」
「そ、そういう意味じゃないの!」
彼女は両手でノートを閉じ、深呼吸した
「いい? 今日はね、昨日の続き
“言葉じゃなくて気づかせる作戦”を実行するの」
「……作戦?」
「そう。夢凪が気づくかどうかのテストよ」
私は頷きながら、彼女の動きを見ていた
玲蘭はペンを握り、真剣な顔でノートに描き始める
曲線、星、矢印、そして――またハート
だけど、今度のハートは途中で途切れていた

「……これ、見たら何か感じない?」
「うん。……途中で終わってるの、なんか切ないね」
玲蘭の目が一瞬、見開かれた
次の瞬間、顔を覆って机に突っ伏す
「ち、違う! そういう深読みしないで!」
「……あ、違うの?」
「違うの! ただ、ペンのインクが切れただけ!」
彼女の声が少し裏返っていた
その可笑しさに、私は笑いをこらえるのが大変だった
でも、笑ったら怒るだろうから、かわりに窓の外を見て、曇り空の向こうに逃がした
「……ねぇ、玲蘭」
「なに?」
「どうしてそんなに、気づかせたいの?」
しばらく沈黙があった
彼女は机の上の鉛筆を一本一本、整えるように動かしていた
「……夢凪って、たまに意地悪」
「そうかな」
「気づいてるくせに、知らん顔するんだもん」
彼女の声は拗ねたようで、それでいて少し寂しげだった
私は答えを探すように視線を下げた
ノートの端に描かれた線が、どこか玲蘭の表情に似ている気がした
「……気づいてることもあるけど
言葉にすると壊れちゃいそうで」
玲蘭はゆっくり顔を上げた
曇り空の光が瞳に落ちて、色を淡くしていく
「……そういうの、ずるい」
「ずるい?」
「そう。私のほうが、いちいち動揺して損してる感じ」
「……玲蘭らしいね」
「なにそれっ!」
彼女は反射的に消しゴムを投げた
それが私のスケッチブックに当たって、ころんと転がる
二人の間に、小さな沈黙と笑いが混ざる
「……ねぇ夢凪」
「うん?」
「“気づかせる作戦”……失敗かも」
「そう?」
「だって、私のほうが、気づかされてる気がする」
その言葉を残して、玲蘭は窓のほうを向いた
髪が少し揺れて、曇り空の光に溶けていく
その背中が、どうしようもなく愛しく見えた
私はスケッチブックを開いて、彼女が描いた未完成のハートをそっと写した
そして、線の続きに小さな丸を一つ足す
「……ねぇ玲蘭」
「なに?」
「これ、完成したよ」

玲蘭が振り向いた
少し困ったように、それでも嬉しそうに笑った
「……ずるい。ほんとにずるいんだから」
彼女の声は、曇り空の中で少しだけ晴れた
その笑みを見ていると、胸の奥で、昨日よりも少し強く、何かが鳴った気がした
私は筆を置き、小さく息をつく
「……やっぱり、玲蘭の“怒る声”って好きだな」
聞こえないように呟いたその声は、たぶん曇り空に吸い込まれていった
だけどその空の下で、二人の間の空気だけが、少しだけ明るかった
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↓最後に、中学生時代の夢凪のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
