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【焦げた香りが連れてきた再会】第5章 「君が焦がしたのは、料理だけじゃない」

第5章テーマは、情動転移拡張理論(Affective Transference Extension Theory)
情動転移拡張理論は【人は、ある状況で強い感情(恐怖・安堵・守られた感覚)を経験すると、その時そばにいた人に対して 感情を上乗せしてしまう(転移) という現象】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第5章 「君が焦がしたのは、料理だけじゃない」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

夜の風は、昼間よりも静かで、冷えていた
店の裏口に停めた消防車の赤い光が、壁に淡く揺れている

「……早見くん、ほんと、ごめん……」

救護用の椅子に座った美月が、しゅんと肩を落としている
エプロンの端が少し焦げていて、指先には黒いすす
火の気はもう完全に消えた。煙も数分前に収まった

俺は深く息を吐く
焦げた匂いが、胸の奥のどこかを静かに締めつけた

「どこも、火傷してないな?」
「う、うん……熱かったけど、全然平気……」

そう言う割に、声が震えていた
強がりだ。昔から変わらない

「……で、なんで鍋の横に……布巾置いた?」
「いや、その……乾かそうと……」
「火の横で?」
「……乾くかなって……」

ちょっと泣きそうな顔で言うから、怒れない
怒るより先に、頬が緩む

「お前、ほんと……」

言いかけて、言葉が途切れる
胸の奥の緊張がまだ引かない
火を見た瞬間、身体が勝手に走り出した
あの時のことが、脳裏に残っている

美月を抱きかかえて外へ運んだとき
腕の中で、小さく震えていた

それを思い出すだけで、少し息が乱れる

「……また焦がして」

ようやく言葉にしたのは、それだけだった
叱るつもりだったわけでもなく、呆れたわけでもない
ただ、何かを言わないと、自分の動揺がこぼれそうで

美月は、気まずそうに視線を落とした
膝の上で手を重ね、指をきゅっと握りしめる

「……ごめんね。迷惑かけてばっかりで」
「別に。迷惑とか、思ってねぇよ」
「……ほんと?」
「嘘ついてどうすんだ」

美月が、少しだけ顔を上げる
照明の光が涙の粒を照らしていた

「……怖かった?」

小さな声
掠れた声

俺は一瞬、返事に詰まった
怖かった
胸が焼けるみたいに
握った彼女の腕が、もし離れていたらと思うだけで、息が詰まる

でも、そんなこと――言えない

「……別に」

強がり返す俺に、美月はじっと目を向けてくる
あの、真っすぐで、なんでも見透かす目

「嘘だ。だって早見くん、抱きしめた時……すごい震えてたよ?」
「お、俺じゃない。お前が震えてただけで……」
「え? わたしそんな震えてた?」

違う
俺だ
でも言えるわけがない

「とにかく、無事ならいい。焦げても……まぁ、お前だし」
「なにそれぇ……褒めてる? けなしてる?」
「知らん」
「もぉ……」

口を尖らせた美月は、ほんのわずかに笑った
涙の跡がまだ残っているのに、笑う
泣き顔のまま笑うから、余計に胸がざわつく

「早見くんが来てくれて、すっごく安心したよ」

その一言が、だめだった

心臓が一拍、強く跳ねた

焦げた匂いが、ふっと薄れていく
代わりに、胸の奥が熱くなる

―何なんだ、この感覚は―

この数ヶ月、俺の中に積み重なってきたものが
突然、形を持ち始めたような……そんな、嫌なほど分かりやすいざわつき

美月は、ただ無邪気に笑うだけだ
でも、その笑顔は俺の意識のど真ん中に刺さる

「ほんとにありがとうね。助けてくれて」
「……仕事だし」

そう答えた声が、自分でも驚くほど低かった

安堵と、緊張と、別の何かが入り混じって
俺の理性が、ゆっくりと焦げ落ちていく音がした

美月がふっと近づき、俺の袖を小さくつまんだ

「……ねぇ。もう少しだけ、そばにいていい?」

その距離が、恐ろしく近い

胸の奥の何かが、じわりと限界へ向かい始めた

美月が袖をつまんだまま、じっと俺を見ていた
泣いた後の顔なのに、どこか安心したような表情で

「……こわかったよ」

小さな声だった
さっきまで平気そうに笑っていたくせに、急にこんなふうに弱さを見せる

胸の奥が、きゅっと縮まる

「だからさ……ちょっとだけでいいから……いてほしくて」
「……ああ」

断れるわけがない
俺の中の理性も、仕事人としての判断も、全部が静かに降参していく

美月は俺の袖をつまんだ指をそのまま握り、指先を重ねてくる
手が小さい
温かい
そして―なんでこんなに近いんだ―

「ねぇ、早見くんってさ」
「……ん」
「いつも、わたしがやらかしても怒らないよね」

怒れないんだよ
お前が困った顔すると、怒るとか無理なんだよ

だけど口に出すのは、違う

「……諦めてるだけだ」
「えー、ひどーい」

美月が笑う
その笑いが、いつもより柔らかい
泣いた後の笑顔は、胸の奥にじんわり染みる

「でもね、今日ほんとに思ったんだ」

俺の手を握る力が、ほんの少し強くなる

「早見くんが来てくれなかったら……って考えたら、足ガクガクで」
「それは……まぁ、火だし」
「ううん、違うの。火もこわかったけど……」

言葉が途切れる
その沈黙が、逆に心臓をうるさくした

「早見くんに……会えなくなるのが、一番こわかった」

息が、止まった気がした

なんでそんなことを、真顔で言うんだ
なんでそんなことを、俺に言えるんだ

「……言いすぎ」

それが精一杯だった

美月は困ったように笑って、肩をすくめた

「だって、ほんとだもん」

言葉足りねぇのはこっちだ
全部飲み込んだまま、うまく言えない

胸がうるさい
呼吸が浅くなる

美月が、そっと俺の手を離した
代わりに自分の胸の前で手を合わせる

「ね、あのさ」
「……ん」
「これからもし、また焦がしちゃったら……」
「おい、また焦がす前提かよ」
「えへへ……なるべく気をつける……つもり……だけど……」

“つもり”のあたりで濁すな

「でもね、そのとき……」

美月が、ふっと顔を上げて、真っすぐに言う

「また来てくれる?」

反則だろ、その聞き方

灯りの下で、美月の目は涙の跡も消えて
ただただ、まっすぐ俺を見ている

逃げられるわけがなかった

「……行くよ」

短く答えた瞬間、美月の顔がぱっと明るくなる

「ほんと?」
「ああ」
「やった……!」

子どもみたいに喜ぶのも、相変わらずだ
その姿に、思わず口元が緩む

「ただし。焦がす前に、呼べ」
「えっ」
「焦がしてからじゃ遅いだろ」
「……たしかに」

納得してる場合か

「それに……」

言いかけて、喉がつまる
今までの全部が胸に詰まって、うまく言葉にならない

でも、言わないと終われない気がした

「……お前が困ってるなら、呼べ。ちゃんと来るから」

美月は息をのんで、ゆっくりと微笑んだ

「……うん。じゃあ、いっぱい呼ぶね」
「やめろ」
「えー、いいじゃん。だって―」

美月が一歩近づく
距離がまた、恐ろしく近い

小声で囁く

「早見くんが来てくれるの、すっごく安心するから」

胸が跳ねた
理性なんて、とっくに焦げ落ちてる

もう隠すのも無理だ

「……勝手にしろ」

それだけ言うと、美月は嬉しそうに笑った
ただの笑顔なのに、俺にはとんでもない報酬みたいに響く

焦げた匂いは、もう残っていない
代わりに、静かに温かい空気だけが残った

美月は扉の方へ歩きながら、振り返って言った

「ねぇ、早見くん」
「……何だ」
「これからも、よろしくね」

まるで告白みたいなその声に
俺は耳の後ろがじんわり熱くなるのを感じた

「……ああ」

その返事だけで、十分だったらしい
美月は満足そうに笑って、店の中へ戻っていった

扉が閉まっても、胸の奥の熱はしばらく引かなかった

―焦がしたのは、料理だけじゃない―
俺の理性も、ずっと前からだ

そして、気づけば笑っていた

……困ったやつだ、本当に

そう思うと、不思議と肩の力が抜けた
夜風が少しだけ、やわらかく感じた

以上で、【焦げた香りが連れてきた再会】の物語はおしまいです
この物語に登場する恋愛心理学の正しい使い方を知りたい方
以下リンクにて確認できます

↓最後に、第5章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓


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