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【焦げた香りが連れてきた再会】第4章 「焦げの法則」

第4章テーマは、報酬予測誤差理論(Reward Prediction Error Theory)の対人応用
報酬予測誤差理論は【人は「こうなるだろう」と予測した結果より、良いことが“予想外に”起きた時の方が、強い喜びや印象を残す】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第4章 「焦げの法則」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

現場帰り、ル・ミエルの前を通った瞬間、いやな音がした

――パァンッ

破裂音に近い何か
嫌な予感しかしない
ため息をひとつ吐いて店へ入ると、案の定だった

「……どうした」

美月が両手を上げて固まっていた
キッチンの奥で、鍋から黒い煙が細くのぼっている

「ご、ごめん……! 焦がした!」
「見ればわかる」

怒鳴るつもりはなかったが、少し語気が強くなった
すると美月は、なぜか満面の笑みを浮かべた

「早見くん、来るタイミング天才じゃない!?」

褒められるところじゃない
なぜ笑う。火事のリスクだぞ

「……笑うな」
「だって、焦げたら早見くん来るんだもん。安心しちゃって」

安心するところでもない
なのに、本気で言っている

鍋を火から下ろしながら、煙の匂いが鼻をつく
高校時代のプリン爆発事件が脳裏をかすめた
焦げの匂いは、嫌いなはずなのに
今は、少しだけ違って感じる

美月が俺の横で、肩をすぼめながら覗き込む

「怒ってる……?」
「……怒ってない」
「やっぱり! よかった〜!」

怒る流れじゃないのに、なぜこうなる
もっと落ち込むと思っていたが、予想を超えて明るい
この人の反応だけは、いつも俺の予測から外れる

「ねぇ……代わりに、新しいの作ってみたいんだけど……」
「……また焦がすだろ」
「今回は焦がさない気がする!」

なぜ言い切れるのか、その根拠を教えてほしい

「手伝ってくれたら焦がさないかも!」
「……俺は消防士で、料理人じゃない」
「知ってるよ。でも、早見くんいるとなんか上手くいくんだよね」

その言い方が妙に胸に引っかかった
他の客にも同じように言うんだろう
そう決めつけたいのに、声の温度が少し違う気がしてしまう

美月がたまごを割ろうとして、早速殻を半分落とした

「……なんで毎回……」

もう言い切る前に、美月が笑う

「落ちると思ったでしょ? ほら、落ちた!」

嬉しそうに言うな

「せめて、落とさない方向で努力を」
「努力してるよ! ほら、見て」

真剣な顔でたまごを混ぜているが、腕が妙に大きく動く
派手にボウルを揺らすから、液が飛び散る
そのたびに俺は自然と手を伸ばしてフォローした

「はいこれ! 落ちると思ったでしょ!? 落ちなかった!!!」
「……うるさい」

落ちなかったことを誇らないでほしい
だが、思わず笑う
笑いたくないのに、笑ってしまう自分に気づく

美月が近くに寄ってきて、腕がかすかに触れた
わざとじゃない
けれど、不思議と離れられない距離だった

「ねぇ……今日、早見くん……いつもより優しい感じする」
「……いつも通りだ」
「えー、そんなことないよ? だって、ちょっと笑ってたもん」

見られていたのか
視線を逸らすと、美月が嬉しそうに覗き込む

「ほら、また笑った!」
「笑ってない」
「笑ってるよ。あとで思い出して恥ずかしくなるやつだよ」

何もかも予測外だ
怒ると思えば笑い、落ち込むと思えばなぜか跳ねるように元気になる
この明るさは、平気で人の心をずらしてくる

「さっきの焦げたやつ……ほんと申し訳なかったよ?」

ようやく反省するかと思ったら、美月は胸に手を当て、真剣な顔で言った

「でも……来てくれて嬉しかった」

……予測できなかった
その一言が胸に落ちて、思わず息が止まる

美月は気づかないまま、続ける

「焦がすのは悪いことだけど……でもね、早見くんが来るって思うとちょっと安心するの」
「……安心する理由がおかしい」
「おかしいよ? でも本当なんだよ?」

胸の奥で、何かがわずかに軋んだ
この人の言葉はいつも軽くて、ズレていて、予測できない
そのくせ、ときどき妙に真ん中へ落ちてくる

焦げの匂いがまた少しだけ漂った
嫌いではない
―今は、むしろ―

美月がふと微笑んだ
いつもの明るい笑顔じゃなく、静かで、綺麗なほうの笑顔

「ねぇ……また助けてくれる?」

言うまでもない
言わなくてもわかる

なのに、美月はまっすぐこちらを見て言い切った

「わたし……早見くんが来ると、嬉しいんだ」

それは、予測の外だった
だけど、予測外なのに……悪くない

むしろ―ほんの少しだけ、期待している自分がいた―

新しく作ったスープを飲みながら、美月が突然言った

「ねぇ、早見くんってさ……怒らないよね?」
「怒ってる」
「えっ、怒ってたの!?」
「今のは……嘘だ」
「もうっ!」

本気で驚いた顔が可笑しくて、思わず湯気の向こうで肩が揺れた
美月はスプーンを持ったまま、じーっと俺をにらむ

「笑ってる?」
「笑ってない」
「笑ってる顔だよ、それ〜!」

そう言いながら、彼女は俺の顔を覗き込もうと身を乗り出してきた
距離が近い
近いけど……退けない

美月は顔を近づけたまま言う

「ねぇ、なんで怒らないの?」
「……お前の想像ほど、俺は優しくない」
「優しいよ? だって私、焦がしても怒られたことないし!」
「それを誇るな」
「誇ってないよ? でも、ちょっと得意」

どこがだ。すると美月は、スープを一口飲んで、なぜか涙目になった

「……うん。薄いねこれ」
「お前が作ったんだろ」
「そうなんだけど……ねぇ、もう一回作ってもいい?」
「今から?」
「うん!“今なら”なんか作れる気がする!」

その根拠のない自信はどこから来るのか

「さっきも言ったけど……早見くんいると、うまくいくんだよね」

口調がいつもより少しだけ静かで、胸の奥に落ちてくる
俺は言葉の選び方が下手だから、ああやって軽く言われると、妙に戸惑う

「じゃあ……最後に一回だけ」
「やった!」

美月は跳ねるようにキッチンへ戻る
スープ鍋を覗いた瞬間

「……あっ!」
「おい」

予測した通りの声
予測した通りのミス
でも、美月はくるりと振り返って笑った

「落ちた! けど、落ち方がきれいだった!」

褒めるところじゃない

俺は深いため息をつきながら、鍋を押さえる
美月の手が触れた
指先がほんの少し震えて、すぐ笑って誤魔化した

「……ありがと」
「別に、助けたわけじゃない」
「でも、助かったよ?」

言い返せなかった
たかが鍋を押さえただけなのに、そんな風に言われると妙に困る

「ねぇ、早見くん」

美月がスプーンを握ったまま、急に顔を上げた
普段より真面目で、でもやっぱりどこかズレている目

「わたしさ……早見くんには、なんか“変な自分”でちゃうんだよね」
「……変なのは前からだ」
「ひどっ。でも、そういうことじゃなくて!」

頬を膨らませて言い返す美月
俺の言葉を真剣に受け取る癖がある
そこがまた予測しづらい

「焦がすし、空回るし、落とすし……でもね」

美月は、焦げた鍋の前で胸を張った

「早見くんといると、ぜんぶ好きな“失敗”に見えるんだよね」
「……お前、ほんとおかしい」
「うん! 自分でもわかってる!」

分かってるなら直してほしい

だが次の瞬間、彼女は少しだけ照れたように笑った
いつもの明るさとは違う、柔らかい笑い方

「でもね……“おかしい自分”を見せたい人って、そう多くないよ?」

……また予測を裏切られた

鍋の向こうで、美月が少し肩をすくめる

「だからさ……焦がしても、怒んないでね?」
「怒らない」
「ほんと? 約束?」
「怒ったことないだろ」

美月はほっとしたように胸をなでおろし
次の瞬間

「じゃあ、次も焦がしちゃうかも!」
「焦がす前提で言うな」

いつものズレた宣言
だけど、その“予測できない言葉”が、少しだけ心を軽くした

美月が鍋を覗き込み、真剣な顔で言った

「よし、今度こそ……絶対に焦がさない!」

……十秒後

「――あっ」

その声で、なんとなく心が温かくなったのは気のせいじゃない

予測外。でも悪くない

今日の終わりは、そんな感じでいいと思った

次章へ

↓最後に、第4章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓


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