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【焦げた香りが連れてきた再会】第3章 「笑顔の錯視」

第3章テーマは、非対称的好意反射モデル(Asymmetric Liking Reflex Model)
非対称的好意反射モデルは【人は、誰かが自分にだけ特別に笑顔・目線・態度を向けてくれると、「この人は、自分に好意があるのかもしれない」 と自然に感じてしまう】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第3章 「笑顔の錯視」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

昼前の現場帰り、喫茶ル・ミエルの前を通ると
店の奥から派手な音がした

―ガチャン―

またか、と呼吸が止まった
入るつもりじゃなかったのに、足が勝手に動く
扉を押すと、美月が棚の上でしゃがみこんでいた

「……割れた」

床にはスプーンの山と、飛び散った砂糖の粒
なんのどういう過程なのか分からない惨状だった

「大丈夫か」

声をかけると、美月が顔を上げる
あの、無邪気な笑顔が一瞬だけ咲く

「早見くん! 来てくれたの!? すごいタイミング!」

喜ぶ要素はどこにあった
むしろ悲しめ、と思うのに、笑ってしまった俺のほうが負けだ

「……タイミング悪いだろ」
「え? よかったけど?」

よかったのか
本気で言っているらしい
美月は立ち上がろうとしたが、スカートの裾に何か引っかけて
また別のスプーンを転がした

「……なんでそんなに、毎回……」

言いかけた瞬間、美月が近づいてくる
近い
距離の詰め方が異常に自然なのは、もはや才能だと思う

「ねぇ、早見くん、怒ってない?」
「怒ってない」
「ほんとに?」

覗き込んでくる
目がまっすぐすぎて、嘘がつけない

「……怒れない」
「ええぇ〜なんで!? 怒っていいよ!?」

怒ってほしいのか
この人はときどき、何が正解かわからなくなる

美月が床の砂糖を片付けながら続ける

「わたしね、人に怒られると逆に落ち着くんだよね〜」
「……変わってるな」
「うん、自覚はある!」

胸を張るな
なぜ誇る

スプーンを拾っていると、美月が俺の指先をつついた

「ありがと。助けてもらってばっかだね」

その言い方は、他の客にも同じように言うんだろう
サービス精神の一部
わかっているはずなのに、今の“ありがと”だけは、どこか違って聞こえる

「……別に」

誤魔化すみたいに視線を逸らしたが
美月はその横からまた顔をのぞかせてくる

「ねぇねぇ、見て! 新しいエプロン買ったの!」

エプロンの裾をつまんでひらひらさせる
至近距離で
布より距離感をひらひらさせるほうが気になる

「かわいくない?」
「……似合ってる」
「ほんと!? 嬉しい!」

はじけるように笑って
美月は跳ねるようにレジのほうへ戻っていく
あの笑顔は誰にでも向けるものだ
それは知っている

……はずなのに

カウンターの奥で、別のお客と話している美月の横顔を見ていると
どうしてか、さっきより少しだけ笑顔が薄い気がした

そんなわけない
被害妄想だ

そう思うのに、俺に向けた一瞬の笑顔だけ、妙に強く残っている

「早見くん、これ読んで!」

呼ばれてカウンターへ行くと
美月が新しいメニュー表を差し出してきた

「今日から“春ブレンド”出すの! ほら、試飲して!」

差し出されたカップを取ると
美月が身を乗り出すようにして覗き込んできた
距離が近い
いつもより、さらに

「どう? 苦い? 甘い? 飲める?」
「……飲める」
「よかったぁ〜!」

嬉しそうに笑う
また、その顔がこっちだけ向いている気がしてしまう

俺にだけ特別なわけがない
そう言い聞かせながら
でも、確かに何かが胸に残る

美月はカップを両手で包み

「ねぇ、早見くんが来るとさ……なんか、うまくいく気がするんだよね」

と言った

他の客に言う声ではない
少しだけ、柔らかい

心臓が一瞬だけ跳ねた
音が聞こえたんじゃないかと思うほど

「……根拠は」
「ない!」

即答だった

なのに、その無根拠の笑顔が、妙に胸に刺さる
春ブレンドの香りが、少しだけ甘く感じた

翌日、店に寄る気はなかった
本当に、なかった
ただ、現場の帰り道が“たまたま”同じ方向だっただけだ

ル・ミエルの前まで来ると
美月が窓越しに外をのぞいていた
目が合った瞬間、ぱぁっと顔が明るくなる

「早見くん! 今日も来てくれたの!?」
「……たまたまだ」
「たまたま……はぁ、好き……こういうの」

何が好きなのか説明してほしい
聞く勇気はない

店に入ると、美月が急に裏から大きな箱を抱えてきた

「見て! 新しいトレイ買ったの! これで絶対落とさないから!」

その宣言の直後
トレイの端がカウンターに引っかかって
ガタンッ、と派手な音をたてた

「……落としてないよ!? 今のは、落としてない! 引っかかっただけ!」「……どっちでもいい」

思わず笑ってしまう
怒りより笑いが先に来るあたり、もう末期だ

「笑った〜! やった!」
「……何がやった、だ」

美月は満足そうに胸を張る
その笑顔は店中の誰にでも見せる“サービススマイル”のはずなのに
俺に向くときだけ、少し形が違うように見える

……見えるだけだ
そう思い込もうとしていると、美月が突然言った

「今日さ、早見くん専用のテーブル作ったんだよね!」
「……は?」
「こっちこっち!」

有無を言わせず腕を引かれる
手首に触れる指が温かくて、落ち着かない

店の隅に、小さな二人掛けのテーブルが置かれていた
ランチョンマットが一枚だけ、丁寧に敷かれている

「ここ、早見くん席!」
「……俺だけなのか?」
「うんっ! 他の人には使わせてないよ!」

完全におかしい
けれど、全力で真剣なので否定しづらい

「どう? 特別でしょ?」
「……いや、特別っていうか」

言いかけると、美月が椅子の背もたれに手を置き
顔を近づける
また距離がゼロに近い

「早見くん、今日なんか元気ない?」
「……別に」
「あるよ。だって顔がちょっと、こう……むにっとしてる」

むにっとしてるとはなんだ
意味不明なのに、なぜか刺さる

美月が胸の前で手を組み
まるで祈るみたいな声で続ける

「ねぇ……笑ってほしいな」

また心臓が跳ねた
美月は気づかない
気づかないまま、さらに追い打ちしてくる

「だって、わたし……早見くんの笑った顔、すごく好きだから」

瞬間、呼吸が止まった
思わず視線を下に落とすと、美月がのぞき込んでくる

「ね? ね?」

この執拗な確認の仕方、ほんとにズレてる
だけど、嫌なズレじゃない

「……そんなこと、言うな」
「なんで!? 本当のことなのに!」

それが本気なのか、無自覚なのか、判断できない
その曖昧さが、一番やっかいだ

店の奥でチリンとベルが鳴った
新しい客が入り
美月は「いらっしゃいませ〜!」と弾む声で駆けていった

いつもの“みんなに向ける笑顔”に戻る
その笑顔はたしかに綺麗なのに
俺に向けられた時ほどの熱がないように思えた

……錯覚だ
錯覚に決まっている

それでも、胸の奥がざらつく

しばらくすると
美月が取り皿を持って戻ってきた

「はいこれ、早見くんだけのクッキー!」
「……なんで“だけ”なんだ」
「え? だって今日焼いたやつで一番形いいんだもん。ほら、ラッキーだよ?」

クッキーは確かに綺麗に焼けていた
丸くて、香りもいい
だが、渡し方が妙に丁寧すぎる
両手で包むみたいに差し出してくる

「食べてるとこ、見てていい?」
「……落ち着け」
「落ち着いてるよ?」

絶対落ち着いてない
けれど、本気で嬉しそうだ

少し噛むと、美月がほっと息をついた

「よかったぁ……変な味じゃない?」
「……普通」
「普通って最高じゃん! やった!」

あの笑顔が弾けるように咲く
まぶしくて、目を逸らした

この笑顔を見ていると
“自分にだけ向けられている”ような錯覚がまた浮かぶ

錯覚のはずだ
そう思いながら
でも――もしほんの少しだけ特別なら

心の奥で、そんな都合のいい願いが小さく灯った

自然と、手がカップに触れていた
春ブレンドの香りが、また甘く感じる

「ねぇ、早見くん」

美月が戻りながら、小さく囁いた

「今日……来てくれて、すごく嬉しかったよ」

その声は、他人には聞こえないくらいの小ささで

返事をする前に、美月はまた客のほうへ走っていった

―錯覚でもいい―
そう思えるほどには、もう戻れないところまで来ている気がした

次章へ

↓最後に、第3章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓


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