【焦げた香りが連れてきた再会】第2章 「スープと境界線」
第2章テーマは、パーソナルスペース侵入理論(Personal Space Intrusion Theory)の転用
パーソナルスペース侵入理論は【人には無意識に「これ以上近づかれると緊張する」という 個人空間(パーソナルスペース) がある。しかし、好意のある相手がその空間に自然に入り込むと、脳は 「近い=親密な関係かもしれない」 と錯覚してしまう】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第2章 「スープと境界線」をお楽しみ下さい
前回のあらすじ
仕事が終わるころ、夕暮れの街を歩いていた
帰り道に何気なく“いつもの店”の前を通ると、ドアが勢いよく開いた
「早見くんっ! 待ってた!」
待ってた?
俺は約束なんてしていない
「これ、今日はどうしても渡したくてさ!」
押しつけられた紙袋は、手のひらにずっしり重かった
温かい。いや、熱い
「スープ作ったの! 感謝の気持ち!」
感謝、だと?
そのわりに、彼女の顔は満面の笑みで、距離も近い
腕が触れそうなくらい
「……なんでスープ」
「だってね、風邪ひいたら困るでしょ。ほら、消防士さんって体が資本だし!」
言うと、美月は胸を張った
なぜか誇らしげ
たぶん、自信満々なことだけは伝わってくる
「……ありがとう。でも、本当に作ったのか?」
「ひっど! 私だってスープくらい作れるよ!」
嘘だろ、と思ったが、口には出さない
包みからうっすら漂う香りに、胸の奥がわずかにざわついた
焦げ……ではないが、どこか既視感のある“加減を間違えた匂い”
美月はさらに近づき、俺の腕を軽くつつく
「ねぇ、今ちょっと疑ったでしょ」
「……別に」
「顔に書いてあるもん。“絶対ヤバい味だ”って」
図星すぎて反応できない
美月はくすっと笑った
歩道の脇に寄ると、彼女は当然のように横に並んだ
さっきより距離が近い
近すぎて、袖同士が少し触れた
「ねぇ、ここ座ろ?」
店先の小さなベンチに、彼女はぽんぽんと手を置いた
座るスペースは二人でぎゅうぎゅうになるくらい
嫌なわけじゃないが、これは……まあ、狭い
「……立ってる」
「えー、座ろうよ。渡すだけなのに、早見くんすぐ帰っちゃうし」
不満げに唇を尖らせ、ぐいっと手首を引かれた
無自覚の力が強い
結局、俺は隙間に押し込まれるように座った
横顔が近い。息も近い
不自然なのに、不思議と嫌じゃない
「ねぇねぇ、中身見てほしい!」
紙袋をぐいっと俺の膝に乗せ、さらに身を寄せてくる
胸元の髪がかすかに触れ、肩越しに覗き込む仕草
距離の概念がないのか、それとも俺の感覚がおかしいのか
スープのフタを開けると、もわっと湯気が立つ
……見たことのない色だった
「……これは、何味だ?」
「愛情味!」
「……味じゃない」
「えっ、じゃあ愛情って素材?」
そうじゃない、と言いたいのに、彼女が真剣すぎて言いづらい
美月は身体ごと俺に寄りかかり、スープを覗き込む
「具はね、玉ねぎと鶏肉と……あと何か入れたんだけど忘れた!」
「忘れるな」
「だってね、忙しくて!」
忙しい人間が、なぜスープを作る余裕はあるんだ
突っ込みたいが、距離が近くて集中できない
美月はスープを見つめたあと、俺のほうに身を戻した
……戻りすぎて、額が軽く触れそうになる
「ねぇ……飲んでほしいな。お願い」
声が、やけに近い
その目に悪意がないから余計に困る
「……一口だけな」
「やった!」
喜びの声が耳に響く
美月はその勢いのまま、俺の隣にさらに寄って、足まで触れそうな距離に収まった
一口飲んだ
味は―まあ、なんというか……説明しづらい―
「どう……?」
「……ああ。がんばったな」
「えへへっ、嬉しい。じゃあ成功だ!」
成功してない
だが、否定したらこの笑顔が曇りそうで言えない
沈黙がおりる
ベンチの隣幅は狭いはずなのに、不思議と広がった感じがした
肩が触れるたび、美月の体温が静かに伝わってくる
「ねぇ早見くん……また来てね」
「……仕事のついでだ」
「その“ついで”が、すっごく嬉しいんだよ」
夜風が流れていく
スープの湯気はもう消えていたが、胸の奥だけ妙にあたたかった
そして俺は思った
……次は“ついで”じゃなく来てもいいかもしれない、と

次の日
仕事の合間、無意識にル・ミエルの近くを通っていた
足が勝手に動いたと言えば嘘になるが、自覚したくない気持ちもあった
店の前まで来ると、ちょうど美月がゴミ袋を持って外に出てきた
目が合った瞬間、顔がぱっと明るくなる
「早見くん! また来てくれたの!?」
「……いや、たまたま通っただけだ」
「たまたま……三日連続で?」
痛いところを突いてくる
口を閉じると、美月はにやっとした
近づいてくる距離が、また妙に自然だ
「ねぇ昨日のスープ、どうだった?」
「……飲んだ」
「そうじゃなくて! 味の感想!」
味の感想は……まあ、言葉にしづらい
沈黙していると、美月がさらに寄ってくる
肩が触れそうな近さ
近すぎるだろ、と言いたいのに、言えない
「怒ってない……よね?」
「怒ってない」
「よかったー。なんかね、もっとおいしく作れる気がしたんだよね」
気がしただけで作るな
そう言いかけた口を、美月の笑顔がふさぐように消していく
「今日のも飲んでほしいなぁって……」
そう言って、また紙袋を差し出してきた
昨日のデジャヴのようだ
開ける前から、スープの重みが心にのしかかる
「……お前、毎日スープ作るのか」
「うん! 早見くんに元気でいてほしいもん」
その言葉が予想外で、返事に詰まった
どんな理由だそれは
だが、真剣に言っているから困る
「今日はね、ちゃんと味見したよ!」
「……何回」
「三回!」
味覚が壊滅的な人間の“味見三回”が、何の保証になるのかわからない
だが、美月は誇らしげだった
店の脇にあるベンチに座ろうとした彼女が、俺の手を引いた
体勢を崩し、隣に座らされる
「はい、あーん」
「……誰がするか」
「じゃあ自分で飲んで!」
蓋を開けると、今日のスープは昨日よりも色が濃い
勇気を振り絞って一口
……昨日よりパワフルな味だった
「どう……?」
「……お前、ほんと頑張ってるな」
また同じ返事になってしまった
でも、美月は嬉しそうに笑う
その笑顔に、拒否も否定も入り込む隙がない
「ねぇ早見くん、ちょっとこっち向いて」
そう言って、美月が体ごと寄りかかってくる
距離が近すぎて、呼吸の間隔がわかるくらい
髪が肩に触れて、少しだけくすぐったい
「昨日より顔色いい気がする。スープ効いた?」
「……効いてない」
「効いてるよ。だって顔が柔らかいもん」
柔らかい?
自分の表情なんて、意識したことがない
思わず視線を逸らすと、美月がまた前に回り込んでくる
「逃げても見えるよ」
逃げてない
ただ、これ以上近づかれると心臓がうるさいだけだ
「……距離、近い」
「えっ? そうかな? 落ち着くのに」
落ち着くのはお前だけだ
そう思ったが、口には出さなかった
風が吹き抜けていく
スープの湯気が頬に当たり、少しだけ暖かい
美月が俺の手元を覗き込みながら続ける
「明日ね、もっとおいしく作るから
だから……また来てほしいな」
「……仕事のついでだ」
「その“ついで”、私けっこう好きなんだけどな」
まただ
その“好き”はどんな意味だ
問いただしたい気持ちと、聞きたくない気持ちが同時にせめぎ合う
美月は立ち上がり、スカートの裾を整えると、俺の正面に立った
距離はやっぱり近い
「帰るの? 送ろっか?」
「……逆だ。送るのは俺だろ」
「えー、いいの? じゃあ一緒に帰ろ!」
一緒に帰るとは言ってない
言ってないが、なぜか自然に横を歩いていた
美月の足音がすぐ隣で響く
肩が時々触れて、俺の歩幅が微妙に乱れる
「ねぇ……今日さ、すごく嬉しかったんだ」
「……何が」
「全部!」
また“全部”だ
だが、今日は否定する気にはならなかった
家までの半分の道で、美月が急に立ち止まる
「ここまででいいよ! ありがと!」
笑顔のまま、軽く手を振る
少し離れただけなのに、急に静かになる
「じゃあね、早見くん。また明日も……ね?」
答えられなかった
代わりに短く頷くと、美月は満足げに笑い、踵を返した
歩き出した背中を見送りながら、胸の奥に微かな熱が残る
……明日も、ついででいい
自然とそんな言葉が浮かんだ頃には、すでに足は家ではなく、来た道へ戻っていた
次章へ
↓最後に、第2章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
*この話は以下の方から紹介されました
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