【薔薇と蹄音の凱旋門】第3章 「理想と現実の衝突」
第3章テーマは、ナッジ的逆効果(Reverse Nudge Phenomenon)
ナッジ的逆効果は【ナッジ(選択をそっと後押しする仕掛け)が逆に働き、自由を制限されたと感じた相手が、あえて逆の行動を取る現象】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第3章 「理想と現実の衝突」をお楽しみ下さい
前回のあらすじ
朝の光は澄んでいたが、厩舎の空気は冷えていた
外から届く声は冷笑ばかりだ。「お嬢様の道楽」「長くは続かない」――壁越しに聞こえるその響きは、藁よりも湿っぽく、心をじわじわと濡らす
私は馬の毛を撫でながら耳を塞いだ。だが、声は頭の内側にまで残る。支えるべきか、距離を置くべきか。答えの出ない問いが胸を往復していた
綾乃は机に向かい、黙々と調教日誌を書いている。背筋は真っ直ぐ、筆の運びは迷いがなく、その姿だけ見れば誰よりも自信に満ちているように見えた
けれど、帳簿の隅に重ねられた未使用のエントリー用紙は、孤立を物語っていた
「嫌なら、出てもいいのですよ」
不意に投げかけられた言葉は冷たかった。視線は紙から外れず、声だけが私の胸に届いた
短く、鋭く、逃げ道を示す言葉。それは拒絶にも慰めにも聞こえる
私は答えられずに馬房の藁を整えた。指先に乾いた感触が残る
――ここを出てもいい。
その言葉はむしろ、扉を閉ざすどころか開いてしまった
目を上げると、綾乃は黙って私を見つめていた。青い瞳は揺らがず、ただ結果を待っている
逃げろと言いながら、視線だけは「残れ」と訴えているようだった
私は気づいた。彼女は真剣すぎるがゆえに、不器用に相手を遠ざけるのだと
ならば答えは一つしかない
「俺が残ります」
声はかすれていたが、確かに響いた
綾乃はわずかに目を見開き、それから静かに頷いた
机の上のペンがころりと転がり、床に小さな音を立てる。その音がやけに大きく響いた
厩舎の外からは再び笑い声が届く。だが、その笑いの中に立つのは自分しかいない
支えるのは、他の誰でもなく、自分だ
馬が鼻を鳴らした
その短い響きが、決意を受け入れる合図のように思えた

夜が降りた厩舎は、昼間のざわめきが嘘のように静かだった。馬房に灯したランプの光だけが、藁の海を淡く照らしている
私は桶を抱え、水を注ぎ足しながら思った。ここに残ると決めたのは自分だ。ならば、この場所の重さも笑われる孤独も、引き受けるしかない
「颯真さん、立ってください」
振り返ると、綾乃が手帳を小脇に抱えていた。青い瞳は真剣そのものだ
「支えると仰ったのですから、まずは姿勢からです」
彼女は指先で私の肩の位置を測り、背筋をぐいと押し上げた
「助手兼執事に必要なのは、威厳です」
言葉は滑稽だが、圧は本気だ。馬よりも厳しい調教師に思えて、私は苦笑を飲み込んだ
「次は歩幅を揃えます」
綾乃はドレスの裾を摘まみ、馬房の通路を往復し始めた。足を高く上げたり、急に止まったり。まるで舞踏会で馬術を披露しているような、不思議な光景だった
「馬は人の歩みを感じ取ります。助手が乱れてはなりません」
私は無言で後を追った。通路の端で馬が首を伸ばし、こちらを眺めている
鼻先が小さく震え、笑っているように見えた
稽古のような歩行を終えると、綾乃は紅茶を用意し始めた。ランプの下で、ティーカップに映る光がきらりと揺れる
「疲れていませんか?」
またその問いかけだ。彼女は当然のように尋ね、私の答えを待たない
「問題ない」
そう口にしても、彼女はわずかに眉を寄せ、温かいカップをこちらへ差し出した
真剣なおかしさに包まれながら、不思議と心は軽くなる
外ではまた、冷たい声が飛び交っているのだろう。だが厩舎の内側には、奇妙な秩序があった
綾乃は調教師であり、どこか夢想家で、そして私を助手兼執事として扱う
おかしいのに、真剣だから笑えない。だが笑みが喉の奥に小さく灯る
カップを置く音が、馬房に静かに響いた
「これからも、残ってくださるのでしょう?」
答える代わりに、私は蹄鉄を手に取った。冷たい鉄の感触が、決意を確かめるように掌を満たす
「俺が支える」
綾乃は短く頷き、窓の外を見た。夜風に薔薇の香りが混じる。灯りに照らされた横顔は、孤独を纏いながらも揺るぎなかった
私はその隣に立つ。笑われても、奇妙でも、ここでなら前に進める
馬の吐息がふっと響き、夜の厩舎を包み込んだ
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↓最後に、第3章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
