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【薔薇と蹄音の凱旋門】第2章 「執事兼助手の日常」

第2章テーマは、フット・イン・ザ・マウス効果(Foot-in-the-Mouth Effect)
フット・イン・ザ・マウス効果は【「相手の状態を尋ねたうえで、お願いをすると成功率が上がる」という心理効果】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第2章 「執事兼助手の日常」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

厩舎に通う日々は、気づけば当たり前のものになっていた

朝は藁の交換から始まり、馬体を拭き、蹄を点検する。昼には調教に付き添い、夕方には飼い葉桶の前でじっと立つ
そんな雑務の合間に、私は紅茶のポットを磨き、銀のスプーンを並べ、彼女の座る席に整然とティーカップを置いていた

助手と執事。その境目は曖昧だが、彼女の中では自然な順序らしい

綾乃は今日も優雅な姿で厩舎を歩く
馬房を覗き込み、わずかな鼻息の違いに耳を澄ませる。その眼差しは、華奢な体に似つかわしくないほど強靭だ
だが私に向けられるときは、不思議と柔らかさを帯びる

「減量の疲れは、まだ残っていません?」

藁を運んでいた私に、彼女は何気なくそう尋ねた
問いかけは短く、声色は軽やかだ。けれど胸の奥に、思いもよらない温度が広がった

減量——騎手にとっては誰にも触れられたくない傷跡のようなもの。私はそれを隠すことに慣れていた。だが、彼女は当たり前のように口にした

「……問題ない」

私は短く答え、藁を馬房に放り込んだ。視線を向けると、彼女は頷き、まるで何事もなかったように次の馬へ歩いて行った
それだけのやりとりだった

だが、藁の埃に紛れるようにして胸の奥に沈んでいたものが、不意に浮かび上がる
——この人は、私の内側を見ている

馬房の隅に積まれた鞍を拭きながら、その感覚がじわじわと広がっていく
言葉を尽くすわけでも、慰めるわけでもない。ただ一言、体調を気遣うだけで、心の奥に隙間風が通った

午後、調教を終えた帰り道。綾乃はドレスの裾を少し持ち上げ、泥の跳ねを避けながら歩いていた。私は無言で彼女の歩調に合わせ、手に持ったタオルで自分の額を拭った

彼女がふと立ち止まり、こちらを振り返る

「本当に大丈夫ですか」

そう繰り返す声は、あまりに自然で、私の返事を必要としない響きを持っていた
私は口を開きかけ、言葉を飲み込む
——心配しているのではない。ただ、私を「こちら側」に引き寄せている

夕暮れ、馬房に灯りをともすと、橙色の光が藁に広がった。綾乃は紅茶のカップを口に運び、静かに息を吐いた。その横顔は、馬と未来だけを見据えている

私は彼女の後ろに控え、わずかに身を正した
助手であり、執事でもある。奇妙な立場だが、不思議と居心地は悪くなかった。むしろ、胸の奥に小さな熱が灯っている

心を開いたわけではない。だが、扉の隙間が少しだけ広がった
その隙間を作ったのは、彼女の何気ない一言だった

夜明け前、厩舎の空気は冷たく、馬たちの吐息だけが白く立ちのぼっていた。私は藁を抱え、眠そうにまぶたを瞬かせる栗毛の馬の前に置いた
背後で衣擦れの音がする。振り返ると、綾乃がドレスの裾を押さえ、真顔で掃き掃除をしていた

「執事としても完璧でなくては」

そう言いながら、豪奢な装いで箒を動かす姿は、奇妙な威厳を帯びていた
馬房の隅で一頭が鼻を鳴らし、まるで笑っているかのように聞こえる

その後も彼女の「日常」は私を振り回した
紅茶を用意するよう頼まれ、馬の世話を終えた手でポットを持つと、彼女は満足げに頷いた

「調教師は執事を従えることで、馬にも信頼されるのです」

論理は飛躍している。だが彼女の眼差しは真剣で、こちらの苦笑を許さない。私はカップを磨き直し、銀器をきちんと揃えた

昼前、調教を終えた馬を引き返す道すがら、彼女はふと足を止めた

「颯真さん、今日は本当に疲れていません?」

その問いはまた唐突で、しかし柔らかい
私は息を整えながら「問題ない」と答える。だが彼女は納得しない。青い瞳でまっすぐこちらを射抜き、沈黙を貫く
根負けしたように「少し残っている」と口にした瞬間、彼女の表情は晴れやかに緩んだ

「なら安心です」

意味のわからない言葉だった。だが、その笑みを前にすると、自分の弱さを告げたことが正しかったように思えてくる

夕刻、厩舎の窓から差し込む西日が赤く藁を染めていた。綾乃は帳簿を手にし、私を見上げた

「助手兼執事として、明日からも頼りにしています」

その口調は、舞踏会で紳士に手を差し伸べる貴婦人のように優雅だった。だが内容は、雑務の延長にすぎない
私はわずかに笑いそうになり、堪えた

馬房に並ぶ馬たちは、静かにこちらを見ている。まるでこの奇妙な主従関係を承認しているかのように

私は深く息を吐き、蹄鉄を片手で確かめた。冷たい鉄の感触が掌に残る
おかしな行動に巻き込まれながらも、不思議と心は軽かった

——彼女の隣にいる自分を、自然に受け入れていた

次章へ

↓最後に、第2章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓


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