【薔薇と蹄音の凱旋門】第1章 「薔薇庭園の違和感」
第1章テーマは、ドーラン効果(Dolan Effect)
ドーラン効果は【人は「小さな期待外れ」が繰り返されると、それが全体の評価や印象に強く影響するという心理現象】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第1章 「薔薇庭園の違和感」をお楽しみ下さい
序章
秋の風は乾いていた
凱旋門賞で夢を失った日から、まだ時は浅い。歓声に背を向けて帰国した私の胸には、空洞だけが残っていた。だが奇妙な縁に導かれるように、私はいま郊外の一角に立っている
白鷺綾乃の名を掲げた新しい厩舎。その姿を前にしても、なぜ自分がここに来たのか、答えを持ち合わせてはいなかった
門を押すと、軋む音が森に吸い込まれる。白壁に蔦が絡み、庭には赤や桃色の薔薇が咲き乱れていた。競馬の拠点というより、貴族の館に迷い込んだような趣だ
足を踏み入れると、藁の香りとわずかな花の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺激した。外界の雑音が遠のき、世界が静かに切り替わった気がする
その奥から、彼女が姿を現した
白い手袋をはめ、裾を上品に持ち上げて歩む姿は、舞踏会の延長のようだ。だが、最初に口にした言葉は——
「この馬は、鼻孔の開きが素晴らしいのです。呼吸の力はそこから見えるものですから」
優雅な微笑みのまま、馬の鼻先に触れる。指先はまるでガラス細工を扱うように繊細だ。だが視線は鋭く、獲物を観察する鷹のようだった
「それから、蹄の角度。三度目の削蹄で、ようやく理想に近づいたのです」
淑女が蹄の角度を語る。その取り合わせに、口元が緩みかけた。だが笑うより先に、心の奥で何かが静かに揺れた
彼女の言葉は奇異だ。けれど、どこまでも真剣で、目を逸らすことができない。——この人は、ただのお嬢様ではない
綾乃は私を振り返り、問いかけるでもなく視線を送る。その青い瞳は、応答を求めるより先に「あなたも見なさい」と語りかけているようだった
やがて彼女は、歩き出した
「歩様を確認しましょう」
ドレスの裾を持ち上げ、馬の通路を真剣な面持ちで進む。背筋を伸ばし、足の運びを誇張し、時に首をかしげながら
——馬の歩き方を、自ら再現している
その姿は、異様で、どこか滑稽で、それでいて目を離せない
舞ではない。模倣にすぎないのに、彼女の全身が競馬への情熱で満たされているのが伝わる
「どうでしょうか」
振り返った綾乃の頬に、ひと房の髪がかかる。青の瞳が、真剣に私を射抜いていた
言葉は出なかった。否定も肯定もできず、ただ頷くことしかできない
冷静に見ればおかしな行動ばかりだ。だが私は、その一挙一投足に引き込まれていた
胸の奥に、ゆっくりと芽生える感情がある。——彼女を支えたい。まだ形のない願いが、静かに熱を帯びていた
そのとき、馬房の奥で栗毛が鼻を鳴らした
まるで、見届け人のように

翌朝、私は綾乃の厩舎に再び足を運んでいた
正式に「助手として働いてほしい」と告げられたわけではない。ただ、彼女の真剣な眼差しを見たあとでは、離れるという選択肢が消えていた。気づけば私の足は、当たり前のようにこの場所へ向かっていた
扉を開けると、彼女の声が響いた
「颯真さん、馬房の前で直立してください」
私は言われるままに立つ。彼女は手帳を片手に、私の肩幅や立ち姿をじっと見つめ、うなずいた
「調教助手には、威厳が必要ですから。あなたなら理想的です」
その一言に、妙な熱がこみ上げる。けれど彼女の真剣な眼差しの前で、茶化す気持ちは不思議と湧かなかった
「では、執事の役も兼ねていただきます」
耳を疑った。厩舎で、なぜ執事なのか。だが綾乃はすでに、テーブルに銀のポットを置き、ティーカップを並べていた
「馬と向き合う人間は、気品を失ってはなりません。助手も例外ではありません」
私は差し出されたカップを受け取り、黙って紅茶を口にした。香りは上品だが、馬の吐息と藁の匂いが混じり合い、どこか滑稽な光景をつくり出している
その後も彼女の指示は続いた
「馬に近づくときは、歩数を数えてください。十歩で呼吸を合わせるのです」
私は厩舎の通路を数えながら歩いた。彼女も隣で同じように数を唱える。真剣に数を刻むその横顔が、あまりに堂々としているので、奇妙な行為に付き合っている自分さえ正しいように思えてきた
次に彼女は、自ら手袋を外し、馬の耳元に唇を寄せた
「よく眠れましたか」
その声は、舞踏会で交わす囁きのように優雅だ。だが対象は馬だ
私は目を逸らしながらも、耳を澄ませていた
——馬がわずかに瞬きをした。それだけのことなのに、綾乃は満足げにうなずく
「返事をしてくれました」
その表情は本気だった
おかしな行動。だが、そこに迷いはなく、私は奇妙な安心感すら覚える
日が傾き始めた頃、綾乃は蹄鉄を手に取り、しばし見つめてから私に差し出した
「この重みを覚えてください。馬を背負うということです」
私は受け取った。鉄の冷たさが掌に伝わる。視線を上げると、彼女の瞳が真剣に私を射抜いていた
その瞬間、心の奥に微かな誓いが芽生えた
この人は、孤立している。周囲からは令嬢の道楽と見なされている。だが私は知っている。彼女は本気だ。だからこそ、支えねばならない
夜の帳が降り、庭の薔薇が闇に溶けていく
厩舎の灯りに照らされた綾乃は、凛とした横顔のまま、馬の首筋を撫でていた
私はそっと息を吐いた
奇妙で、真剣で、どこか笑える日々の始まりを、受け入れるしかなかった
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↓最後に、第1章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
