【記録される私と、変わっていく私】第5章 「誰にも知られたくない私を、見つけた人」
第5章テーマは、メアリー・コヴァリック効果(Mary Kovarik Effect)
メアリー・コヴァリック効果は【「人は与えられる報酬や結果が、自分の努力や能力によるものだと感じると満足感が高まり、モチベーションも上がる」という効果】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第5章 「誰にも知られたくない私を、見つけた人」をお楽しみ下さい
前回のあらすじ
その日は、朝から少し急いでいた
鏡の前で三つ編みを結いながら、指先が途中で迷子になる
右はいつも通り編めたけれど、左側はどうもぎこちない。まあ、いいや。厩舎の作業で崩れるだろうし——そう思って家を出た
トレセンに着くと、いつも通り廻が厩舎前でメモ帳をめくっていた
「おはよう」
「おはよう」
そのまま作業に入ろうとすると、彼がさらりと言った
「今日、左側だけ逆編みだよ」
一瞬、耳が熱くなった
「……は?」
「三つ目の交差から逆になってる。ほら、ここ」
彼の指が、私の耳の後ろあたりを示す。触れられてはいないのに、妙に距離が近い気がして、思わず後ずさった
「よく気づいたね」
「いつも見てるから」
軽く言われたその一言が、やけに胸の奥に残った
午前の調教が終わって、洗い場で馬の脚を拭いているときも、その言葉が頭から離れなかった
誰も気づかないような小さな違いを、当然のように言い当てる
別に髪型を見てほしかったわけじゃない
なのに、見られていたことが少し誇らしいような、不思議な気分だった
昼休み、事務所前のベンチで弁当を食べていると、廻が隣に腰を下ろした
「右は普通に上手く編めてたけど、左は途中で手順間違えたでしょ」
「……正解」
「やっぱり」
満足げにうなずくその顔が、馬のタイムを当てたときと同じ表情で、思わず笑ってしまった
午後の作業では、彼が計測係に回った
走路の向こうから馬が駆けてくると、廻の親指がストップウォッチのボタンを押す
私がタイムを記録していると、横から覗き込まれた
「字、いつもよりちょっと丸くなってる」
「そんなの自分でも気づかないよ」
「俺は気づく」
即答。自信満々なのがまた可笑しい
その日の帰り道、ふと鏡に映る自分の左の三つ編みを思い出した
廻に指摘された箇所は、まだ少し緩んだまま揺れている
指先でそっと触れながら、口元が自然に緩むのを止められなかった

「君のストップウォッチ、0.2秒早く押す癖があるよね」
廻は、まるで天気の話でもするような口調でそう言った
え、と思う間もなく、彼はポケットから同じ型のストップウォッチを取り出し、私のタイムと自分のタイムを並べて見せる。小数点以下二桁まで刻まれた数字の差
確かに、ほとんどいつも私のほうが0.2秒早い。誰にも気づかれたくない、ちょっとした“癖”だったのに
「嫌だったら、ごめん。でも、あの誤差が、君らしくて好きだ」
何を言ってるんだろう、この人は。けれど、不思議と胸の奥がくすぐったくなる
それからというもの、廻は事あるごとに「今のは0.18秒」「今日は0.21秒」と、私の癖を微妙に更新してくる。計測しているのは、ランニングのタイムでも、料理の茹で時間でもなく、会話の“間”や笑うまでの秒数だ
普通の人なら絶対にやらない
そんなある日、夕方のグラウンドで、私が何気なく「今日は誤差ゼロじゃない?」と笑うと、彼は妙に真剣な顔をした
「いや、今日は……誤差じゃないんだ」
意味が分からず首を傾げると、彼は深呼吸して、まるで数値を発表するみたいに告げた
「統計的に見て、僕といるときの君が、一番穏やかだった」
それは、告白の言葉にしては、あまりにも彼らしい、変なセリフだった
胸の奥にじん、と広がる温かさと同時に、笑いがこみ上げてくる
「……はいはい、変な人」
気づけば、私はそう言っていた
それからの日々も、廻は相変わらず数字で私を測る。記念日の待ち合わせに私が3分遅れれば「今日は3.04分の愛情の熟成時間だね」とか、落ち込んで無言で歩いていれば「今の沈黙は12秒、でも隣にいる時間はずっとだ」とか
普通なら鬱陶しいのに、なぜか心地いい。数字は、彼が私をずっと見てくれている証拠だから
季節がひと巡りして、春
ある朝、いつものように彼が「今日の誤差は?」と聞く前に、私は自分から言った
「ゼロだよ」
「本当?」
「だって、今日からは同じ時間を測るんだから」
差し出された箱の中には、シンプルなリング。廻は緊張で、いつもの計測みたいに深呼吸をしていた
私も笑いながら息を整え、答える
「誤差ゼロで、お願いします」
その瞬間から、私たちの秒針はぴたりと重なった
変な人と笑い合いながら、これからも同じ時間を刻んでいく
以上で、【記録される私と、変わっていく私】の物語はおしまいです
この物語に登場する恋愛心理学の正しい使い方を知りたい方
以下リンクにて確認できます
↓最後に、第5章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
