【語学】ネイティブ信仰の弊害
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今回は、「ネイティブ信仰」という、語学学習者の中で過剰にケアされてしまっている考え方の弊害について説明します。「ネイティブ信仰はどうでもいい」という命題を受け入れることは、学習者の肩の荷をひとつおろす一助になるはずですし、今回の記事は多くの学習者にとってうれしい内容になるはずです。
なぜ「ネイティブ」とひとこと言いたくなるのか
「ネイティブ」という言葉を使う人の意図は上下の対比です。ネイティブの優れている点らしきものを示して、それをもとにしてノンネイティブとのコントラストを示す。それに続けて、持論や自分のサービスへの誘導を行う、というのが、世の中の伝統芸能みたいになっています。また、「ネイティブ」というワードの使用者はなぜかノンネイティブが多数派です。
これは、ネイティブの優れた点(?)を説明して、それを学べ、取り入れろ、という上から下に流れるアプローチです。ネイティブ=優秀、という共通の思い込みがあるからこそ、「いかにも」なイメージに人がどんどん吸い込まれていくのだと思います。お手本があり、そこを目指せばよいという、ある意味非常に明快な構図であるため、結果的に多くの人が「ネイティブ」と言いたがるようになるのでしょう。
英語学習業界がコンプレックスビジネスと揶揄されていることがありましたが、個人的にこれは半分あっていると思います。カタコトのサムライイングリッシュではずかしい思いをしたくない。英語をいざ使うシーンで恥ずかしい思いをしたくないから頼れる誰かに任せたいけど、どうにもならない。そのような「コンプレックス」につけいって煽るのが、現代の英語サービスの常套手段です(実際に湧いてくるネット広告のクリエイティブを見れば、そのような意図を容易に想像できます)。
「ネイティブ」というワードのもつ煽る力はとても強いです。なんかかっこいい、自信にあふれている、みたいな、勝手な妄想でネイティブのすごいところを勝手に肥大化させていき、それに応じて自分をみじめな思いに追い込んでいきます。
ただ別に、ネイティブは頭がいい、優秀、すごい、ということはありません。欧米列強に追い付け追い越せのモーレツ精神がまだこびりついている結果なのかもしれませんが、「欧米=すごい」という勝手につくった縦の心理が、現代の学習者を苦しめているのかもしれません。
ネイティブは、なにか人知を超えた高度な技能、能力を身に着けているわけではないのですが、意識的にせよ無意識的にせよそのように思ってしまうのは、やはり不自然です。ホモサピエンスであれば身体能力は同じで、別にネイティブのみに備わる特殊能力などはありません。マラソンに有利な身体能力を持つ民族、みたいなのはありますが、民族差による脳や感覚器官の違いが言語の運用能力を分かつ決定的要因になることはありません。
ノンネイティブは悪か
ネイティブを絶対的正義として据える、ネイティブを「正解」とみなしてこれをあがめたてまつるネイティブ信仰の場合、その思想が強まれば強まるほど、「ネイティブらしくないこと」が悪として認識されるようになります。
そしてたいていの場合、ネイティブ思想が先鋭化すると、「正義と悪」の二項対立に収束します。たとえば、日本人の中で、そもそも英会話の表舞台に出たくないという心理を持つ人は一定数いると思いますが、これも、ネイティブらしくない要素を自分から表に出して、正義による糾弾を浴びたくないという心理が深層にあると思います。また、ノンネイティブかどうかは見た目からもなんとなくわかりますから、ネイティブらしくない外観を持つノンネイティブ・スピーカーは、存在自体が悪であるというとんでもない結論に帰結してしまいます。
ネイティブ信仰が渦巻く世界の場合、ネイティブらしくない要素を糾弾することは正義の執行であり、悪の住人は正義執行におびえながら生活することになります。正解と不正解を出せる状況で、不正解を出してしまったという事実は常に批難の対象になりますから、とても心穏やかに過ごせる状況ではなくなります。
ネイティブを正解にしたがる心理
「絶対的正義」を据えるネイティブ信仰はどう考えても穏やかではないのですが、令和の現代においてもこれがまかり通っています。それはなぜかと感じると思うのですが、実は、世の中がネイティブを正解として据えたがる心理を僕はなんとなく理解できます。
これは前回の話でも説明しましたが、正解が何かを与えられると、人は喜ぶのがふつうです。というのも、何が課題で何をすべきかという基盤そのものがない場合、人は迷いますから、誰かから与えられる「正解」は、強力なモチベーション誘発剤として機能します。
正解を目指せばよい、正解にマッチしないものは不適である、という思考のフレームワークはシンプルですし、誰でも理解できます。それがあってるかどうかは別として、正解を与えられそれを目指すことをよしとする思考基盤は、世の中の流れを統一する手段としては効果的です。
なぜ世の中の流れを統一する必要があるかというと、それが「商業主義」に結びつくからです。世の中、「ネイティブ」というラベルがついた書籍、アプリ、サービス、スクールは履いて捨てるほどありますが、それらはすべて、ネイティブ信仰をダシにしてきれいに誘導された大衆の誘導先になる地点です。
とにかく人々は、正義と悪という二項対立が好きです。戦隊ものや勧善懲悪系の時代劇ドラマに代表されるように、正義が悪をボコボコにするという構図は、痛快・爽快な気分にさせてくれます。
平たく言ってしまうと、「ネイティブ信仰には人々をラクにさせる要素があり、信仰することで得られるある種の安心感がある」ということです。どう考えてもおかしいネイティブ信仰には、心理的安息を与えるというかくれた側面がある、といっても問題ないと思います。
上下の優劣と左右の対比
これは僕の意見になりますが、ネイティブとノンネイティブをもし比較したいのなら、上下の対比ではなく左右の対比にすべきです。ある言語の獲得に対する経路の違いを強調して、両者の特徴を示す、これが健全な区別です。左右のコントラストなので、優劣はありません。
具体例で説明します。まず、音声言語学的アプローチで母語の発音をマスターした人はいないでしょう。日本語スピーカーの中で、IPAのチャートを使ってていねいに母語の発音を覚え、「ネイティブ日本人」のきれいな発音を覚えた、というケースはないはずです。
わをんの「ん」の音が6種類あること、なにぬねのの「に」の子音は /n/ じゃないこと、しゃしん(SHASHIN)とあんぱん(ANPAN)の「あ」の音は同じではないこと、などをほとんどの日本人は知らず、説明されてはじめて「言われてみれば確かに~」となります。逆に、(たぶんですが)ノンネイティブ日本語学習者はこのあたりの音的特徴は理解していると思います。
母音の経路が日本語ネイティブと日本語ノンネイティブで違うことが事実ですが、そこに、「優劣」は当然発生しませんし、「ふーん、違うんだ」程度の感想しか出てきません。これが、左右の対比です。
立場を逆にして考えよう
立場を逆にすれば一瞬でそのおかしさに気づくが、それをしないととたんに認識がおかしくなってしまう、ということは日常生活でよくあります。
たとえば、「これをするだけで誰でも英語がペラペラに!」のような訴求に疑いの目をむけることなくメロメロになってしまう日本人は今も昔も一定数いますが、たいして、「これをするだけで誰でも日本語がペラペラに!」という言葉に懐疑的な目を向けない日本人はまずいません。かりに、「これだけで日本語ペラペラ!」のようなメソッドを肯定してしまう日本人がいるのであれば、その人は詐欺的な意図を持っている人です。
上記の対比では、どちらも本質的にはまったく同じことを言っているはずなのですが、「立場」が変わるだけでその認識がまるで異なるものになります。この例の場合は、「誰でもペラペラになれる方法があってほしい」という無根拠な願望を持つかそうではないかという立場の違いが判断の誤りの本質になるのですが、今回話題にあげている「ネイティブ信仰」でも例外ではありません。
ネイティブに負けないなんちゃらみたいな、すでに説明した縦の意識をつくりたがる訴求もありますが、あれも立場を入れ替えるだけで、その話がちゃんちゃらおかしいことがわかります。「ぼくたち日本語ネイティブに負けないように、君たちも頑張りなさいね」などのようなことを言っている日本語ネイティブがいたら、シンプルに「イタい」ですよね。
認識の能力は、どの立場からそのものごとを見ているかに応じて、ものすごい程度で揺さぶられます。これは錯視のようなもので、素直に見れば実体がわかるにもかかわらず、思い込みや立場のせいでそれがひずめられてしまうということです。英語ネイティブが日本人にとって神様仏様のようにうつってしまうのは、英語ネイティブが本来的に持つ神々しさに眼がくらんでいるのではなく、その人の立場から出てきた妄想の産物を見ているからです。
また、たとえばですが:
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