見出し画像

人と違うことを言う勇気

僕はこれまで、ひとりの個人として課題を表明すること、意見を表明することの意義や重要性について、いろんな形で説明してきました。

さて、素直な個人の違和感を素直に表明するさい、多くの場合でそれは多数派や常識の意見とはことなるかたちをとります。そのため、自分の心の奥底からの意見を言おうとするほど、その人は少数派、マイノリティとして活動する運命をたどることになるのですが、これには勇気が必要です。今回は、「人と異なる意見を言うこと」に必要となる要素のひとつである、勇気について説明します。

怒られたらどうする

マイノリティとして活動していく人がまず直面するであろう事態に、「誰かに怒られる」があります。人と違うことを言うことは足並みを乱すことですから、連帯感がないだの言われてしかられるとか、あるいは、意味不明なかたちで理不尽に怒られたりすることもあるはずです。

ただ、「怒られたら喜べばいい」というのが僕の意見です。

考えてほしいのですが、「会ったこともなければ会話したこともない、なんなら、こっちはまったく気にかけてない」人の怒りを買うって、すごいことじゃないですが。別にその人に話しかけていないのに、その人が勝手で感情を沸騰させているわけですが、これはやろうと思って簡単にできることではありません。

人が怒るというのは例外なく、「その人の周囲のものごとが『その人』の思うようになってくれない」からです。一般論として、「自分の思い通りにならないことが世の中たくさんある」ということを認めることができるようになるほど、人は怒らなくなるのですが、それを管理できない人が、赤の他人に対して怒るわけです。

この記事で言うところの「怒られる」は、倫理的にまずい発言をするとか、個人を執拗に誹謗中傷するとか、そのようなことをした結果怒られるのとは話がまったく違います。「自分がほんとうに『よい』と思ったことを言った結果怒られた」というのは、好循環が生まれる、生まれそうなことを示すよいインディケーションになります。

多数派の人間にボコボコにされるのは幸せなことと考えた方がいいはずです。宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイと同じで、本質に近づくほど人の怒りを買うものです。英語学習界隈などでも、ネットに投稿した結果として野生の有識者に怒られる、叩かれるというシーンがよくありますが、それは悲観するような結果ではないはずです。

みんなに合わせるとき

とくに有名でも何でもない匿名の個人が多数派の意見を復唱してもなんにもなりません。その人が思ったことを素直に言った方がいいですし、また、その結果が呼ぶのは強烈な共感でも強烈な反感でもどっちでもよいはずです。

足並みをそろえるべきシーンと、そうではないシーンをすみ分けるべき、というのが僕の考えです。ルールを守ったり期待される言動をすべきシーンというのはたくさんありますが、「そうではない」シーンであるのであれば、期待される行動を演じる必要はありません。「自分の意見を言う」というのは、言論の自由で守られる当然の権利です。

たとえば、「語学学習」では他人と連絡調整したり、足並みをそろえたりする必要がまったくない、という話は以前にも述べたことです。どこまで行っても個人的な活動である語学学習に他人が無作法に干渉してくる余地はゼロで、「頼まれてもいないのにアドバイスしちゃう」ことなどはまったく歓迎されません。

…護送船団方式で語学学習をしたいと無意識的に考えている人がいると思うんですよね。(中略)護送船団方式というのは、みんながどの方向に向かうのかがクリアである場合には役立ちますが、学習法や過程に個性の出る語学学習ではまったく役に立ちません。ネット、とくにXでは英語アカウント同士が毎日ケンカしていますし、「すごいひとの寵愛や加護を受けながらみんなで同じ方向に前進する」なんてのはまず無理です。

語学学習で心理的にラクになるためのヒント

足並みをそろえるべきシーンではそろえればいいし、そうではないのであれば、素直な意見を表明したほうがいい、ということです。

反脆弱性

立場が危ぶまれるとされてきたなにかが逆に力づくことがあります。

たとえば、インターネット上で誰もがコンテンツをつくれるようになってから、市場に流通する情報量は大幅に増えました。ブログ、SNS、動画共有サイトの原形のようなものが登場したのは2000年代前半くらいですから、いわゆる「情報爆発」が発生してからいままでで、20年ちょっとくらいの期間が流れたことになります。

そして、ネットでなんでも情報が手に入るようになる、というそのような当時の時代の流れのなかで立場が危ぶまれるとされていたのが、書籍や雑誌といった紙媒体なのですが、2026年現在でも紙媒体はありますし、むしろ、「デジタルデトックス」のような形で、紙を大事にしていく反作用的ムーブメントもあります。スウェーデンの教育現場では、「デジタルから紙」へのシフトが起きているそうです:

今でいえばAIがそうですよね。みんながAIでコンテンツをつくりだすようになってから、人間はいらなくなるみたいな話はそこかしこで言われるようになりましたが、そのような言説で言われているほど人間は不要になっていませんし、「人間らしさ」がむしろより一層重宝されているようにも感じます。

スマホやパソコンの目の前でネットのニュースばかり見ている人であれば、いらなくなりそうと感じるかもしれませんが、一歩家の外を出てそのへんをウロウロしてみると、やはり、いろんな人間が働いたり活動したりしていることを観察できます。家の外や近所にいるのは、ドラえもんのようなロボットではないですよね。

反脆弱性

この、立場が危ぶまれることになってる側が逆に活気づいてくることを、反脆弱的であるといいます。

ここから先は

2,061字 / 2画像
この記事のみ ¥ 300

語学学習に役立てることが可能なメンバーシッププランです。お気軽にご利用ください。

読み放題プラン

¥500 / 月

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?