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なぜ「正しい」学習にしがみついてしまうのか

人は自分が今やっていることがあっているのかどうか気になると、周りの景色をチラチラ見始めます。そしてそのような状況で、「そのやり方間違っているかも!?本当に正しい真の究極の方法はこちら~」と言わんばかりにご丁寧に近づいてくる人を目にすると、ありがたい気持ちでいっぱいになり、その人にメロメロになります。

学校英語をボコボコにするよくある構図に代表されるように、環境や方法などを叩いて、「あなたは悪くないよ」という一言を添えつつ正解にご丁寧に誘導するというスキームは、詐欺のつかみとしてよくあります。いずれにも共通しているのは、「たったひとつの」とか、「真の、究極の」みたいな、シンプルな正解が隠された場所にありますよ、とにおわせること、そして、それをもったいぶってなかなか見せてくれないことです。

真の、本当の、究極の…みたいな、あたかもこれまで言われてきたことが「うそ」だったかのようなワーディングをいろいろな人が、いろいろなところで言っているのですが、なぜそのような人たちが持ってくる「正解」に人はメロメロになってしまうのでしょうか。今回はこのあたりの話をします。

なぜ詐欺的なワーディングにメロメロになるのか

正解にメロメロになってしまう問題を解きほぐした後に出てくるのはやはり弱った心の問題であり、より具体的に表現するなら、「正解への固執」があると思います。自分がうまくいかないのは(自分ではなく)やり方や環境が悪いから、そして、「正しい方法やあり方」がその問題を解決してれる、という無根拠な信念が奥の奥にあると、僕は考えます。

世の中、正解は人それぞれであることはだれもが納得しているはずですし、そこを否定する人は現代ではいないと思います。にもかかわらず、「正解探し」に固執してこれを止めない人がいるというのは、どう考えても変ですよね。「正解は人それぞれで唯一無二の正解はないとわかっているが、唯一無二の正解があってほしい」という勝手な願望なようなものが、詐欺的な意図のもとでなされるメッセージングとうまくかみ合ってしまうのであると思います。

詐欺まがいのメッセージングをする人たちは、「『これで安心できる』という心理的報酬」を売っていると考えると納得できます。そして、それはどこまで行っても空虚であるし、お互いにとってなんのためにもならないことは、火を見るよりも明らかです。

権威主義は語学学習の敵

正解にすがり、ありがたがるというムーブの行きつく先にあるのは、「教祖と信者」の関係です。「お師匠様」のもとでその人を全肯定し、それを正解とみなすのはとてもラクで、その教祖様と違うことを言う人がどっかから出てきたとしても、教祖と一緒にその人を叩けばいいだけです。

教祖にすがるのは安心をもたらしてくれるのですが、ただそれは、もともとやりたかったことではないですよね。英語学習、語学学習をしたかっただけなのに、いつのまにか教団じみた語学クラスタの一員として活動することになった、というのは不気味です。

すごそうな人物にすがるのは典型的な権威主義なのですが、これは語学学習の最大の敵であると僕は考えます。偉い人にすがるのはたしかに安心で、自分自身で思考する必要がなくなるのですが、それはすでに説明したように、語学学習というもともとやりたかったことをなにも前進させません。

なにか英語の話をするときに、「ネイティブは~」と口ずさみたくなる心理も権威主義に似ていて、虎の威を借りたいという心理、権威にすがりたいという無意識の心理のあらわれがあります。素直に、「私は~だと思います」と言えばいいところを、「ネイティブは~」のように、主語を私ではなくネイティブにしてしまうのは、「自分で説明する力がない、思考したくない」と白状しているようなものですし、それは推奨されません。

「何を言った」と「誰が言った」

何かしらの発言が注目される際、「何を言ったか」と「誰が言ったか」のいずれかが重視されます。

「誰が言ったか」が重視される(された)例で典型的なのが、ドラゴンボールのミスター・サタンです。魔人ブウ編で、地球人から元気玉を作るためのエネルギーをめいいっぱい集めるために悟空やベジータが必至の声がけを行っても何も響かなかった状況で、ミスター・サタンの一声だけで地球人を動かすことができました。この例は、いっていることは同じであるが誰が言うかで結果がガラリと変わる好例であるといえます。

他にも誰が言ったかで評価や反応が変わる例はあり、たとえば、ネットの中でも似たような現象はあります。あったこともなければ名前も知らないどこかの誰かにいきなりアドバイスされたりするとほとんどの人は「いらっと」するでしょうが、これも、内容ではなく誰が言ったかで反応が変わる例です。

一方で、「何を言ったか」を重視したほうがいい場合ももちろんあり、たとえばですが、語学学習を含む学問全般がその例です。学問というのは万人に開かれたものであり、権威性や肩書はほとんど干渉してきません。事実、学問の場である学会発表への参加や論文投稿はふつうの一般人でもできます(査読に通るかどうかは別)。あなたは偉くないので参加してはダメ、なんてことはまず言われません。

そして、おおよそ以下のような基準で両者をわけることができるはずです。

合理性ではなく情緒的・感情的な要素が効く場合に、誰が言ったかを重視
例:ミスター・サタンやクソリプの類

合理的・客観的な判断が効く場合に、何を言ったかを重視
例:語学学習を含む学問全般

「権威主義は語学学習をなにも前進させない」とすでに言いましたが、そのようにいえるのは、客観的判断がそれなりに効く語学学習のすがたと、アイドルやお師匠様、教祖的な人を妄信するすがたが重ならないからです。アイドルや教祖を追いかける活動とドライな語学学習は完全に分離すべきことであり、混ぜこぜにする理由はありません。ミスター・サタンのファンになっても、よい気分になる以上のことが得られないのと同じです。

誰が言ったかと何を言ったかは、どっちがよくてどっちが悪い、という話ではありません。ただ少なくとも、語学学習で権威性を重視する必要はないわけですから、こと語学学習に関して言えば、事大主義や権威主義を完全に破棄しても良いと思います。権威主義を捨てることと、ハリボテの正解にすがらないことは同じことを意味します。

語学学習と恥の文化

また、これについては僕もよくわかっていないので詳しく触れることができないのですが、宗教観の違いによって、失敗を「罪」とみなすか、「恥」とみなすかが変わってくるそうです。

罪と恥の大きな違いは、罪の場合それを懺悔したり償いをすることで罪を消すことができるが、恥の場合は「恥を消す」ことができず、一生そのレッテルを背負わなければならない、ということです。「恥をかく行動をした」という事実をいちどつくってしまうと、その人はその恥をずっと抱えながら、恥ずかしい思いをしながら生きていかなければならなくなります。

そして、日本人は恥を重視します。切腹のように、自死を選んで自分や一族の名誉をまもる風習が根付いていましたし、恥をかく行為がそうとうに重い結果であることは歴史を振り返るとわかります。

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