一次情報を重要視すべき理由
僕はYouTubeやnoteで、「一次情報を大事にしよう」というメッセージを出しています。一次情報とは、誰の手も加わっていないなまの情報のことで、現場の情報、ありのままの情報と言い換えてもいいと思います。
なぜ一次情報を重視するのかという話はnoteでもたびたびまとめてきたのですが、今回あらためてそのまとめを、自分で役立てるという目的もかねてやってみたいと思います。
現実をただしく認識する仕事
まず触れておきたいことは、一次情報の認識はけっこう難しい、ということです。
一次情報とは、自然界でありのままに存在する事実のことです。顕微鏡でしか観察できないとか、望遠鏡がないと観察できない、みたいな、物理的制約があって観察しにくいこともありますが、基本的には、人間に備わっている五感をつかうことでそれらは観察できます。原っぱに咲く花の形や数、色合い、香りを知りたければ、その原っぱに行って五感を発揮すればそれでよい、ということになります。
目の前にあるものを素直に理解すればよいというのはその通りで、それができればよいのですが、実はこれがけっこう難しいのが現実です。特に大人や、社会的立場の制約をつよく受ける役割の人であるほど、建前などが表に出てきてしまい事実をうまく認識できなくなります。
たとえば、部屋の中の象という慣用句がありますが、これも、明らかに目の前に見えているのに触れようとしないことがあることを示す言葉です。事実が目の前にあり、しかもそれがクリアであるが触れようとしないというのは、上下関係などの立場からそれをしにくいという背景に起因します。
また、色眼鏡の存在なども事実を曇らせる要因のひとつです。妄想があると、「現実はこうなっている」というドライな情報ではなく、「現実はこうであってほしい」というその人の勝手な願望が、いつのまにか事実に置き換わってしまうことになります。正義とか正しさとかが暴走するのもこのパターンで、目の前の現実、事実ではなく、自分が信じている妄想が「正義である」として暴走するのは、ネットではよくあります。
一次情報をただしくとらえるのは難しいのですが、逆に言うと、それをとらえることができれば後はラクになります。一次情報はぶれることのない錨、アンカーであり、話の立脚点になりますから、そこを拠り所にしているかぎりどこかに漂流したり流されたりすることはなくなります。
現代のネットの英語界隈はやたら忙しいというか、大変そうな雰囲気があります。学習法はこれがいい、参考書、書籍はこれがいい、おすすめのYouTuberはこの人だ、みたいな、人の迷いを生み出すコンテンツがわんさかあるのですが、そのような迷いも、一次情報で断ち切れます。
語学学習における事実(一次情報)とは、会話や英語でのやり取りの運用現場です。「ネイティブは言う、言わない」系のコンテンツに疲れている人もいるはずですが、そのような徒労も、「現実を見に行って観察する」という一次情報の回収で対応できます。これは、YouTuberとかが言う、「ネイティブがよく使う表現!」を立脚点にするか、現場のなまの情報をそれにするかの違いです。
なぜ外国人は富士山を見に来る
富士五湖のなかでもっとも公共交通機関でアクセスしやすい河口湖周辺には、おびただしい数の外国人観光客が平日休日問わずウロウロしています。外国のTikTokerやインスタグラマーなどが富士山を紹介したりして魅力が世界中に伝わっているのが原因のひとつでしょうが、では彼らはなぜ、「富士山」をわざわざ遠方から見に来るのでしょうか。
たとえば、自宅の4Kテレビとか、8Kテレビの超大画面で富士山の写真や動画を見ればよさそう、と思いませんか。航空券を買って、仕事の休みをとって富士山を見に行くよりも、高画質な大画面で、自宅でくつろぎながら「富士山」の高画質動画や写真をエンジョイしても、こと足りるような気はします。
また、TikTokやInstagramについてはすでに触れましたが、そのようなSNSから流れてくる富士周辺のみじかい動画を見るだけでも、エンジョイすることはできそうです。じっさい、プロ機材をつかって富士の写真や動画をとり、それをSNSでシェアしている外国の人は数多くいます。
ひと昔前みたいに、ブラウン管の画質が荒いから本物を見に行きたい、というのであれば、長距離を移動して富士山を見に行くというのは合理性があります。ただ実際はそうではなく、「自宅で高画質でいつでも楽しめる」という明らかな利便性にも勝り、「日本に行って富士山を見る」というモードが優位になっているわけです。これ、不思議だと思いませんか。
まず、SNSで流れてきた富士山の写真や動画を見たことがある、という状態と、実際に現場に行って本物の富士を見たことがあるという経験には、天と地ほどの差があります。これは記号のようなものと解釈することも可能で、「実際に富士山に行ったことがある人」というステータスは、大量の動画や画像を見ました、という事実で代替できません。
外国人観光客が富士周辺にくるインセンティブは、単にきれいな富士を見たい、というだけではなく、現地の雰囲気、空気、地元の人の様子などを含む「肌で感じる情報」を得たいからそこに来ているわけです。当然、そのステータスをベースにした意見や洞察は、「SNSで流れてきた富士山の動画を見ただけの人」とは異なる形の性質を帯びます。これも、現場のなまの情報を立脚点にするかどうかの違いと説明できます。
一次情報
ここまでで説明したのは、現場に行かないとわからない要素があり、それは他人からの伝聞や又聞きではどうあがいても見て取ることができない、ということです。プロの食レポコメンテーターがどんなに頑張ってその味を伝えようともがいても、「じっさいにその料理を口にして味わう」という体験のモードに勝ることはできないのと同じです。
さて、現場に行って一次情報を獲得することの意義を、河口湖周辺でウロウロしている大量の外国人観光客などを例に挙げて説明しましたが、彼らが求めているのは、記号の獲得であるというふうに述べましたよね。一次情報の獲得も記号の獲得と同じで、「現場に行って事実をおさえた」という記号の獲得と言い換えても問題ないはずなのですが、この「一次情報をおさえたという事実の獲得」の話が、すでに説明した錨としての機能を持ちます。
たとえば、英語系YouTuberやインフルエンサーは世の中たくさんいますが、そのような情報の波におぼれやすい昨今、「だれが正しいことを言っているのかわからない」という心理になったことがある人も多いはずです。いろんな人が好き勝手にいろんなことを言っているのはネットのすがたとしては健全なのですが、やはり、情報過多になればなるほどわけがわからなくなるのがふつうです。
ここで役立つのが、「一次情報をおさえたという事実」という記号です。これは錨、アンカーとしての優れた機能を発揮するものであり、すごそうな人やインフルエンサーの意見になびいて権威主義になってしまうことを回避できます。世の中の大量の人間がいろんなことを言っているのを、見たくなくても見てしまう昨今ですが、「事実を獲得してこれを持っている」という記号が、その波に溺れてしまうことから守ってくれます。
現場に行く、自分でやる、自分で考えて定めるという主体的なアクションは当然、そのような錨、記号を固めてここを立脚点にするための手段です。
百聞は一見に如かず
現代社会において、ネット経由で表に出てくる情報はすべてアルゴリズムを通過した情報であるといっても過言ではないのですが、そのようにして湧いてくる情報と、その人にとって価値ある情報は必ずしも重ならないことを常に意識する必要があります。
センスのいい人が「いいね」と思った情報がアルゴリズムを介して表に出てくるのならそれでよいのですが、たいしてセンスのない「その他大勢」と呼ばれる人たちが「いいね」と思った情報が表に出てくるのがインターネットの現状であり、実態です。それは大衆をいい気分にさせるコンテンツにはなるでしょうが、長期的に役立つコンテンツであるかといえば、疑問です。ごまかしのない素直な情報というのはその性質上目立たないため、ネット上ではあまり表に出てきません。「じっくり素直に説明する」ことを軸にする情報はネットにないわけではないのですがどうしても埋もれやすく、アルゴリズムをなかなか突破できません。
「百聞は一見に如かず」は、話を100回聞くよりも一度自分で実際に見る方がはるかに確実であるということを意味することわざであり、そして、この100という数字もしっくりきます。もし、一回見に行くことの手間やコストが、ネット越しや又聞き、アルゴリズム経由の情報を得るための手間やコストの 100 倍未満なのであれば、実際に一度見に行く方が、必然的に全体としての生産性はよくなります。これも、「一時情報を積極的に確認したほうがいい」という話と合流します。
抽象化する
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