僕が語学学習をアートにたとえる理由
僕はよく、語学学習は研究、創作、音楽、芸術などのような「アート」と似ていると説明しています。語学学習は芸術的活動をやるような態度でやったほうがいい、ということです。今回はこのあたりの話をします
アートであること
アートとは何か、それは、「アートであるもの」と「そうではないもの」を対比すれば見えてくるはずです。
まず、アート全般に共通する流れは、見つける、作る、表現するという流れです。見つける対象は自分の内側にあるものでも外側にあるものでもいいのですが、普遍や真理などの抽象だけをそこから抜き取り、これを文章やビジュアル、創作物などの形で、よその人に提出するのが「アート」になるはずです。
対して、上記で説明する特徴を備えるもの以外すべてが、「アートではないもの」になります。発注をうけて製造する工業製品のようなものは、「自分で見つけて表現したもの」ではなく、仕様書に従い製造したものですから、アートではないはずです。
ものつくりのシーンであればアートではないというわけではありません。「機能的に優れたものは美しい」という言葉からもわかるように、美学と製品の性能が地続きになっていることもあります。いずれにせよ、「その人が独自に見つける」ということが価値の源流にあるのであれば、アートといえるはずです。
自然を相手にしている
話は語学に戻りますが、語学学習の対象になる言語のほとんどは、「自然言語」です。プログラミング言語やエスペラント語などとは異なり、自然界にありのまなに存在する言語を相手にしてなんかするのが、語学の取り組みになります。
ようするに、「自然を相手にする」という点に関していえば、語学学習は物理学や化学などの自然科学とまったく同じということです。これは多くの人に見落とされがち(?)なのですが、語学学習というのは、偉い人やインフルエンサーやすごそうな人やカリスマ先生みたいな人が言っていることを一生懸命覚えることではなく、自然科学に取り組む研究者と同じ態度で、「ありのままの自然」に触れて知見を貯めることです。人間が五感を発揮することで知覚できる、表に出てくる現象の背後にある真理や法を、観察や実験を使って明らかにしようとする学問が自然科学なわけですが、語学学習でも同じことをしています。
さて、「背後にある真理や法を見出す」わけですが、それは冒頭で述べたアートの説明そのものではないですか。語学学習は芸術や観察に似てると言える根拠はここにあり、両者とも、「どこかから何かを見出す」という、同じことをしているからです。
先日、Chiさんがグッドタイミングで面白い記事を書かれていたのでこちらを引用するのですが、「生の言語ありき」というのがまさにそれです。語学学習でやっていることは、生の言語からなんか見出すことです。
まず、これは結構見落とされがちなのですが、「文法」というのは「あとづけで言語を描写するもの」なんですね。「文法規則がまず存在して、言語はそれに従って構成される」とかそんなんじゃなく、まず生の言語が存在して、それにあとづけでああだこうだと場合によっては半ばコジツケのように説明をあとからつけていったものの総体を「文法」と呼んでいるわけです。
順番
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