レヴァラス王国廃止録|第1話 レヴァラス王国最後の日
勇者召喚は、世界を救う奇跡だと信じられていた。
けれど、その光の裏側で、名もなき国々は代償として消えていた。
民を失い、家族を失い、王国の意味さえ失った若き王オルカ・レヴァラスは、妻リフィアと共に最後の決断を下す。
レヴァラス王国を、廃止する。
それでは、第1話スタートです!
前日譚は此方から
風のない大地だった。
空は灰色に沈み、遠い海は低くうねり、大地の奥では眠れぬ獣が身じろぎするような軋みが続いていた。雲は流れず、木々の葉も揺れない。ただ、世界そのものが息を殺しているような静けさだけが、どこまでも広がっている。
世界はまだ生きている。そう信じる者もいるのだろう。朝になれば陽は昇り、夜になれば星は瞬く。雨は降り、草木は芽吹き、人はそれを見て、今日も世界は変わらず続いているのだと思う。
だが、オルカ・レヴァラスは知っていた。
この世界は、もう既に死んでいる。
少なくとも、彼が王として座していた国はそうだった。
レヴァラス王国。
大陸の片隅にある、小さな王国である。豊かな鉱山があるわけでもなければ、広大な穀倉地帯を持つわけでもない。大国と呼ぶにはあまりにも小さく、歴史の中心に立つにはあまりにも静かな国だった。
それでも、そこには人の営みがあった。
朝になれば市場に露店が並び、城下の石畳には商人の荷車が音を立てて通った。鍛冶場からは鉄を打つ音が響き、パン屋の煙突からは白い煙が上がった。広場では子供達が走り回り、城門の兵士は眠そうな顔であくびをしては、上官に叱られていた。
誰かにとっては、ただの辺境国だったのかもしれない。
地図の端に記された、小さな名前でしかなかったのかもしれない。
けれど、その場所には確かに日々があった。今日の食事を考える者がいて、明日の天気を心配する者がいて、誰かの帰りを待つ者がいた。笑い声があり、喧嘩があり、約束があり、何気ない明日があった。
今はもう、何もない。
市場には誰もいない。木箱は積まれたまま放置され、乾いた果実が黒くしなびている。鍛冶場の炉は冷え切り、打ちかけの刃だけが金床の上に残されていた。広場の噴水は止まり、水の底には落ち葉と灰が沈んでいる。城門には番をする兵士の姿もなく、色褪せた旗だけが、風のない空の下で垂れ下がっていた。
彼らは逃げたのではない。
戦に敗れて散ったのでもない。
召喚の贄として、消え去った。
その術式を起動した国の名を、オルカは知っている。軍事国家アルバライン。勇者召喚を救済と呼び、女神の導きと称し、異なる世界から人間を引きずり込んだ国。彼らが掲げた光の裏側で、レヴァラスの民は代償として削り取られていった。
市場で笑っていた者達も、城門であくびをしていた兵士も、井戸端で噂話をしていた女達も、明日のパンを楽しみにしていた子供達も、誰一人として、自分が何のために消えるのか知らなかった。
そして、オルカにとってそれは、ただの国難ではなかった。
母。
そして妹、ルアナ・レヴァラス。
その名を思い出すたび、胸の奥で静かに何かが軋む。いや、正確には違う。ルアナの名は覚えている。あの子が兄の後ろをついて回り、いつか自分も国を守るのだと、小さな手で木剣を握っていたことも覚えている。
けれど、母の名だけは思い出せなかった。
顔も、声も、手の温度も覚えている。幼い頃、剣の稽古を嫌がった自分の頭を、困ったように笑いながら撫でてくれたことも覚えている。母は、王妃である前に母だった。そのことだけは、今も確かに胸の中に残っている。
それなのに、名を呼ぼうとすると、記憶の奥で何かが欠け落ちる。
だからオルカは、忘れなかった。
忘れることだけは、許さなかった。
たとえ、名前さえ奪われていたとしても。
王城の最上階。崩れかけた窓辺に立ち、オルカは無人の城下を見下ろしていた。
青みを帯びた髪が、差し込む朝の光を受けて淡く揺れる。身に着けているのは、王がまとうにはあまりにも軽い鎧だった。飾り気は少なく、動きやすさを優先したその装いは、玉座に座る王というより、これから旅へ出る者のものに近い。
腰には短剣がある。王冠はない。重い外套もない。あるのは、終わった国を見届けるための瞳だけだった。
「……静かだな」
呟きに、返事はなかった。
それが今のレヴァラス王国だった。
オルカはしばらく城下を見つめていたが、やがて窓辺を離れた。石造りの廊下は冷え切っており、壁には歴代の王の肖像画が並んでいる。誰もが、この国を守るために生きた者達だった。そして誰も、この終わり方を望んではいなかっただろう。
「悪いな、ご先祖方」
オルカは肖像画に向かって、軽く肩をすくめた。
「守る民がいないんじゃ、王様ごっこも限界だ」
玉座の間に入ると、そこにはリフィアがいた。
淡い水色の髪を揺らしながら、彼女は床に広げた帳簿と荷物を前に、真剣な顔で何かを数えている。かつて小さな楽園エデニアの姫だった少女。そして今は、オルカ・レヴァラスの妻。
豪奢なドレスも、姫としての装飾も、ほとんどは旅費に変わった。身に着けているのは旅に向いた軽装と、指に残した小さな宝石の指輪だけである。
「保存食、三日分。水袋が二つ。薬草が少し。路銀は……正直に言いますと、かなり心許ないですね」
「財務大臣、どうだ?」
「誰が財務大臣ですか」
「他に人材がいない」
「それはそうですけど」
リフィアは少しだけ頬を膨らませ、それから帳簿を閉じた。
「城に残っていた物で売れそうなものは、だいたい売りました。私の装飾品も、ほとんど」
「その指輪は?」
「これは駄目です。護身用の魔法が入っています。それに……」
「それに?」
「少しくらい、お洒落を残してもいいじゃないですか」
オルカは数秒黙り、それから小さく笑った。
「いいと思う」
「今、笑いましたね?」
「気のせいだ」
誰もいない玉座の間に、ほんの少しだけ人の声が戻る。それは王国と呼ぶにはあまりにも小さく、けれど家族と呼ぶには十分な温度だった。滅びた国の王と、その隣に残った妻。似た傷を持つ二人だけが、今のレヴァラス王国に残されていた。
リフィアは帳簿を胸に抱え、静かに尋ねた。
「オルカ様。これから、この国をどうされますか?」
玉座の間に、沈黙が落ちた。
オルカは玉座を見た。父が座っていた場所。自分が最後の王命を受けた場所。
父の声は覚えている。背中も、最後に告げられた言葉も覚えている。だが、その名だけは、どうしても思い出せなかった。
王となれ。
そして、時が来たら国を畳め。
死んだ国を、奴らに使わせるな。
父の名は欠け落ちても、その言葉だけは消えなかった。
悲しみはあった。怒りもあった。けれど、それだけで動くには、この世界はあまりにも壊れすぎていた。だから、王は決めなければならない。守る民のいない国を、いつまでも国と呼び続けるのか。それとも。
「……王国を廃止するか」
リフィアが目を見開いた。
「えっ?」
オルカは玉座から視線を外さず、静かに続けた。
「たった二人の王国は、ごっこ遊びだ」

リフィアはすぐには答えなかった。その言葉が軽口ではないことを、彼女は理解していた。国を失った者だけが知っている沈黙がある。滅びた場所に名前だけが残ることの残酷さを、彼女は知っていた。
かつてエデニアもそうだった。小さな楽園と呼ばれた国は滅び、それでも名前だけは他者の口に残った。ある者は哀れみのために語り、ある者は正義のために語り、ある者は次の戦の理由として利用した。
死んだ国の名は、時に生きている者よりも都合よく扱われる。
「……それで、城はどうされるのですか?」
リフィアは玉座の間を見渡した。高い天井。色褪せた旗。欠けた柱。父王が座していた玉座。人の気配は消えていても、この場所にはまだ王国の形が残っていた。
王がいなくなっても、民がいなくなっても、城が残れば誰かは言うだろう。ここにレヴァラスがあった、と。そして、誰かがその名を掲げる。奪うために。利用するために。まだ終わっていないのだと、嘘をつくために。
オルカは玉座を見つめたまま、静かに言った。
「残さない」
「……城を、ですか」
「ああ。旗も、玉座も、王国の形も残さない。死んだ国を、奴らに使わせるな。父上の最後の王命だ」
リフィアは目を伏せた。その答えが残酷で、けれど正しいことを、彼女は否定できなかった。
「寂しいですね」
「そうだな」
オルカは短く答えた。
「でも、必要だ」
沈黙が落ちる。王国の終わりを告げるには、鐘も民の声もなかった。あるのは、二人分の呼吸と、遠くで軋む城の音だけだった。
やがてリフィアが、小さく息を吐いた。
「では、どうやって終わらせるのですか?」
オルカはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「いい案がある」
リフィアは嫌な予感を覚えた。
「……オルカ様」
「大丈夫だ。派手なだけで、合理的だ」
「その言い方が一番不安です」
オルカは玉座に背を向けた。
それは、王が王座を捨てる仕草だった。
「明日の朝、レヴァラス王国は終わる」
次回以降の物語は此方のマガジンに全部載せていきます。
是非お待ちください♪
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