松平容保の京都守護職就任に見る交渉のコツ
江戸時代末期、ペリー来航をきっかけに開国だ攘夷だと世間が騒がしくなってくると、全国から有象無象が天皇のいる京都に集まって治安が急激に悪化します。
幕府は対策として「京都守護職」という役職を新設して大権を与え、治安維持に当たらせることにしました。
そして、就任を打診されたのが会津藩主・松平容保。
会津藩は3代将軍家光の弟・保科正之(ほしな まさゆき)から始まる、幕府にとっては最も信用できる身内の家です。
「京都守護職、ぜひ引き受けていただきたい」
「いや無理です。うちも台所が苦しくて、京都の治安維持に回す予算なんか確保できません」
当時は幕府から役職を与えられて仕事をする場合でも、必要な経費は全部自分で賄う必要がありました。
「そこはほら、補助出すからさ」
「まったく足りませんって。家臣たちも反対してますし、ほんと勘弁してください」
再三の要請にも関わらず首を縦に振らない松平容保。
そこで幕府は最終手段を用います。
「ところであなたのご先祖、保科正之公。たいへん立派なお方でしたよね」
「ええ、自慢の先祖です(私は養子だから血は繋がってないけど)」
「たしか家訓を遺されているとか」
「ええ、代々守って……あ」
「会津は幕府を守るのが使命。もし藩主がその務めを怠るようなことがあれば、そんな藩主に家臣は従ってはならない、とかでしたっけ?」
「そ、そうですね」
「幕府に逆らうような奴はわが子孫と認めない、みたいフレーズもあるとか?」
「(;´Д`)」
「まさに忠臣、武士の鑑ですね。ところで今、幕府はすごーく困っているんですよ。保科正之公の子孫である松平容保殿。京都守護職、引き受けていただけませんかね?」
かくして松平容保は京都守護職に就任。
家臣一同「これ絶対滅亡フラグ立ったわ」と嘆きつつも、容保の
「保科正之公の名を辱めるようなことは私にはできなかった。難しい仕事ゆえ、家中一丸となって当たらなければ成し遂げられないだろう。どうか力を貸してほしい」
という言葉に心を打たれ、張り切って反幕府勢力(のちの明治新政府)の皆さんを取り締まりまくった結果、ヘイトをガン稼ぎして徳川慶喜に次ぐ「朝敵」の汚名を着せられる羽目になったのでした。
幕府が容保に京都守護職を押し付けた際のやり取り。
カネよりも、家中の意見よりも、先祖の遺訓が優先されるという当時の武士の価値観を押さえた、見事というかえげつないというか。
相手を動かしたい時は、相手の急所を見つけ出すのが大事だよっていうお話でした。
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