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物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 17

-レン-

 レンは夢とうつつの境目を彷徨っていた。
 それでも不思議と夢と現実の区別はついたし、自分がたいていは夢の中に居ることも自覚していた。
 夢の中の方が自由だからかもしれない。
 意識が現実にある間は、とにかく苦しかった。
 目が覚めるといつも最初に感じるのは鈍い痛みだ。おそらく薬で抑えてくれてはいるのだろうが、その分身体ごとぼんやりと重く、自由が利かない。
 経緯は判らないがどうやらアグィーラからマカニへ派遣されてきている二名の男性医師は、カシスとデンファレという名前であることが分かった。代わる代わるレンの世話を焼いてくれる。
 二人ともレンに対する態度はとても丁寧で優しく、次々と処置をする動作も正確で、優秀な医師なのだろうと思う。
 族長とカエデが交代で診療所に居てくれたが、他のマカニ族の見舞いは制限されているらしかった。
 目を覚ますとレンはいつも族長かカエデの気配を探した。そうしていると、大抵は二人ともレンのそぶりに気がついて近くへ寄ってきてくれる。
 まるで初めて病気になって不安でいっぱいの小さな子供みたいだと思った。その思考につられて、黒鳥病はこんな風に苦しい病だったのだろうなと考え、改めて当時黒鳥病で亡くなっていった同じくらいの歳の子供たちのことを思った。
 そのせいか、眠っている間は子供の頃の夢を繰り返し見た。
 最初に目覚めた時に苦しかった呼吸はいよいよ酷くなり、ついに人工呼吸器に繋がれてしまったため、口を利くことができない。何かをしてもらった礼を伝えるのにも、レンはささやかな笑顔のようなものを返すしかなかった。
 意識のある時に、カシスとデンファレはレンに様々な質問をした。頭痛やめまい、吐き気の有無。家族のこと仲間のこと、物の名前。
 その時だけ人工呼吸器が外されるが、少し会話をすると息が切れるので、質問は少しずつだった。
 ベッドに寝たまま両手を軽く持ち上げられ、平衡感覚を試されたりもした。おそらく何かの検査だろう。
 レンはそれらをひととおり終える度に重い疲労を感じて、また眠りに落ちていくのだった。

「……カエデ……さん」
 そんなことを幾度か繰り返し、ある時目が覚めると随分呼吸が楽だったので、レンはそう口にしてみた。それは人工呼吸器の下、掠れてくぐもってはいたが、なんとか声になった。
 すぐに気がついたカエデは、慌てた様子も見せずにゆっくりと穏やかな表情で近づいてくると、先ずはレンの額に手を当てた。
「少し、落ち着いたかな。でも、まだ無理はしない方がいい」
 レンは黙って頷く。
「水を飲もうか」
 カエデが言い終える前にカシスが吸い口のついた水差しを手にやってきて、レンに繋がれている人工呼吸器を外した。
「ありがとうございます」
 漸く声にして礼を言うことができた。カシスは嬉しそうに微笑む。これまであまりじっくり見ている余裕はなかったが、よく見るとまだ若い医師だ。レンより少し上くらいだろうか。
「今日はレンが助け出されてから三日目だ。怪我と肺炎を併発したせいで随分高い熱が出て、昨日の夜が山だった。もう、肺炎の方は大丈夫だろう。あとは快方に向かうだけだと思う。苦しかっただろうが、よく頑張った。怪我の方はまだ暫くかかるから大人しくしていた方がいい。右腕は尺骨という腕の内側の骨が折れている。くっつくのに二十日程、完全に治るには少なくとも二月ふたつきかかる。こちらのお二人……特にデンファレ殿の方は、アグィーラで頭部を専門とされている医師であられるのだが、頭の怪我もひとまず緊急に何かしなければならない状態ではないようだ。めまいや吐き気、少し記憶の混乱が見られるところからして、中度の脳震盪を起こしている。少し経てばそれらも落ち着くだろうが、まだ予断は許さない。変わったことがあったらすぐに知らせてほしい」
 レンが尋ねる前に、訊きたかったことはカエデがすべて説明してくれた。カエデのカエデらしさに触れて自然と笑みが浮かぶ。
「カエデさんの言うとおりにするよ」
「人に会うのももう少し我慢してくれ。レンはきっと、知らないうちに無理してしまうから」
「うん……大丈夫。大人しくしてる」
「何処かつらいところはあるか?」
「うーん。なんというか……自分の身体じゃないみたい。色々な所が痛いし自由が利かない。でも、休むしかないのも分かった」
「そうか。……久しぶりに話をして疲れただろう。呼吸は? もうつらくないか?」
「話すと、少し息が切れるかな。でも、それはもういいや。喉が渇くんだ」
 レンは人工呼吸器に目線をって答えた。
「分かった。暫く外したまま様子を見よう」
「カエデさん、お願いがあるんだけど……」
「何だ?」
「僕の弓は何処に在る?」
 今は翼も身に着けていないことが分かった。アグィーラの医師に診せるのに不都合があったのかもしれない。身に着けている様子を見ただけでは機構まで分らないとは思うが、翼を扱い慣れないアグィーラの医師にとっては、単純に診察の邪魔でもあっただろう。
「弓をどうする?」
「傍に置いておきたいだけ。気持ちが落ち着くんだ」
「弓は診療所ここに在るよ。翼はポプラの所で見てもらっている。完全には壊れていなかったが、随分傷んでいたから」
「うん。とりあえず弓だけでいい」
 カエデは頷いてから奥に置いてあった弓を取りに行き、ベッドの脇の、寝たままでも無理なくレンの視界に入る位置に立てかけてくれた。
「ありがとう」
「レンらしいな」
 少し離れて見ても弓の至る所に傷があるのが分かった。普段はしない使い方を沢山したのだ。折れなかっただけ良かったと思う。本当はすぐにでも綺麗に手入れをしてやりたかった。
「今回も、弓に沢山助けられた」
「……そうか……命があって本当に良かった」
 カエデは珍しくそう言って言葉を詰まらせた。
 決して無事ではなかったが、本当に命があって良かったとレンも思う。きっと沢山の人が心配してくれているだろう。族長やカエデの言うとおり、今は余計なことは考えずに休むことが自分にできることなのだと思った。
 少し気を緩めると様々な考えや感情が押し寄せてきそうだったので、努めて目の前のカエデの言うことだけに集中する。
 僅かとは言え久しぶりに話をしたからか、それだけでとても疲れたように感じた。

 いつの間にかうとうとして、気がついたら日が暮れていた。ちょうどカエデと族長が交代する時間らしく、その静かな話し声で目が覚めたのだった。
 カエデが族長に、昼間レンが目を覚まして少し会話をしたことを説明している。二人の声が耳に心地良く、レンは暫く目を閉じたまま二人の会話を聞くともなしに聞いていた。シヴァの名前とアグィーラの地名が何度か出て来たが、会話の内容までは分らなかった。
 先程カエデと会話した時よりも更に呼吸は楽になっていた。もう人工呼吸器はつけなくても大丈夫そうだ。
 助け出されて今日で三日目なのだとカエデは言っていた。その前、レンは何日くらいマカニを不在にしていたのだろうか。
 空白の時間……
 これまで大きな怪我や病を経験したことのないレンは、自分が世界と切り離されてしまったような心細さがじわりと沁み込んでくるのを感じた。
 だめだ。今は休むことが仕事なのだと他ならぬ族長が言ったじゃないか。
 レンは族長たちに気づかれないようにそっと目を開けてベッド脇の弓を見詰め、深呼吸を繰り返した。
 やがてカエデが二人の医師に挨拶をして診療所を出て行った。
 族長が近づいてくる気配がして、レンは何故か慌てて目を閉じた。
 族長の大きな掌がレンの頭に置かれる。
「不安か?」
 レンは言い当てられて気まずいような、言わなくとも理解してもらえてほっとしたような、複雑な気持ちで目を開けた。族長に隠しごとなどできる筈がない。
 しかし何と答えて良いか分からず、すぐに言葉が出てこなかった。そのままじっと族長の穏やかな顔を見詰めた。族長はゆっくりと近くに在った椅子に腰をおろした。
「何もせずじっとしているのは不安だな」
 頭に置かれたままの族長の手は暖かく、声は優しかった。
 知らないうちに目から涙が溢れていた。涙のせいで余計に声が出せなくなる。
「子どもの頃から立ち止まることを知らなかったお前だから尚更だ」
 今呼吸が苦しいのは病のせいではなく、心が苦しいからだ。
 そうだ。だから子供の頃の夢ばかり見るのだ。黒鳥病を思い出すからだけではない。
 責任のある今の立場は苦しいから。やらなくてはならないことが出来なくて苦しいから……。だから、ただひたすら無心に飛ぶのが上手くなりたい、弓が上手くなりたい、強くなりたいと思って過ごしていたあの頃の夢を。
「お前は今、立ち止まっているわけではない。マカニを離れていた間も今も、立派に闘っている。しかも、たったひとりで」
 族長の反対の手がレンの胸の辺りに置かれた。少し、呼吸が楽になる。
「弓も、また引けるようになる。お前くらいの者は少し間が空いてもすぐに取り戻せるだろう。怪我はいずれ治る。とにかく命があって良かった」
「……っ……はい……」
「明日辺りから、身体がつらくなければ少しずつ動いてみても大丈夫だそうだ。ただし、無理はせぬようにな。異変を感じたらすぐに知らせること」
「……はい」
「最初は、カエデに手伝ってもらうといい」
「はい」
 漸く涙が止まる。
 頬に残った涙を拭ってくれた族長に、レンは微笑んで見せた。
「僕はひとりではありません。こうして、族長が居てくださる。ひとりで居た間も、マカニのみんなが支えでした」
「そうか」
「あの、族長。僕はどのくらいマカニを離れていたのですか?」
「お前は谷川に墜落した日から数えて四日目に発見された。まるまる村を開けていたのは間の二日間だ」
「ああ……そんなに……」
「よく頑張った」
「ご心配をおかけしました」
「いや……話をしていてつらくはないか?」
「大丈夫です。呼吸も、ずいぶん楽になりました」
「そうか、それは良かった」
 少しずつ良くはなっている。焦ってはいけないのだろう。族長は、レンが無理をしないという約束のもと、明日の夕方来る時に、レンが途中まで学びかけていた本を持ってきてくれるという。此処に居る間にもできることがある。それだけでも、随分と気が楽になった。
 暫くすると、再びカエデが戻ってきて食事の準備を始めた。それまでほぼ水分と流動食のようなものしか口にしていなかったレンは、カエデに助けてもらいながら少しではあったが久しぶりにまともな食事をした。
 少し、身体に力が戻ったように感じる。
 食事の間、二人の医師はよく話をした。族長やカエデに対して、次々とマカニについての質問をぶつけている。もしかしてここまでの三日間は、レンの体調が安定していなかったのでゆっくりと食事をする時間も無かったのかもしれない。
 レンは申し訳ないと思うとともに、改めてマカニへ戻れた喜びと、皆への感謝を噛みしめていた。


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