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物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 18

-カリン-

 一巡目の透析を終えて半日後の血液検査の結果は良好だった。
 カリンとアオイは顔を見合わせて頷き合う。アオイは漸く少し安心したような表情を見せたが、それは自分も同じだっただろう。
 この検査結果で分かったことは大きく二つある。
 ひとつは、挫滅症候群ざめつしょうこうぐんの二次被害が無かったということである。患者の身体の中に、最初の有毒物質による二次的な壊死は起こらなかった。つまり、アオイの処置はぎりぎり間に合った、ということだ。
 もうひとつは、今回の患者の意識混濁の原因は麻酔薬ではなく、ワイで行われた壊死部切断手術の際の止血帯の処置にあったということだ。
 壊死部の手術が不完全だったのでもない。もしそうならば、取り切れなかった壊死部からの有毒物質流出が継続する筈だからだ。
 手術前に止血帯の処置をした時点で、そもそもの壊死部分の細胞からの有毒物質がその手前で滞留した。それに加え、過剰な圧迫により止血部の筋肉細胞の一部が壊死を起こす。少量の有毒物質ならば順次腎臓で処理されるが、止血帯付近に大量に溜まった有毒物質が解放された途端急激に体内に流れ込んだため、先ずは脳が影響を受けて意識混濁が起こった。
 その後も、止血帯部分の壊死した筋肉からは有毒物質が流出し続けるが、その量が腎臓の処理可能な量を越えると、少しずつ体内に留まり始める。
 それが体内に一定量溜まってしまった状態が昨日の朝の状態だったという訳だ。
 これは即ち、止血帯の締めつけが強すぎたということだ。本来ならば止血部が壊死を起こす程強く締めつけはしないし、適度な締めつけであれば原発巣からの有害物質も多くは滞留はしない。
 幸い止血帯部分の壊死は、数日持ち堪えたことから推測しても切除する必要はない規模だと考えてもいいだろう。一時的に有毒物質の数値が上がっても、このまま定期的に透析を続けていれば、いずれ壊死細胞は駆逐され、新たな細胞が生まれる筈だ。体質や既往症などが原因でその循環が上手くいかない場合のみ、原発巣のように壊死が広がり、切断する必要が出てくる。
 今日の状態だけを見ると、滞留していた有毒物質は一度綺麗に処理されたため、腎臓の機能が正常であれば更なる透析も不要である可能性が高かった。
 アオイは、一連の結果をツツジに報告すると言って病室を出て行った。

 昨日ユウガオに聞いたところによると、エリカは既にワイへ戻ったようだ。今回の診断結果はまだ耳に入っていないと考えていいだろう。この結果は、ツツジからエリカへの書簡で伝えられるのだろうか。あるいはレフアからかもしれない。エリカはそれを聞いてどう反応するか。
 今回の医療事故についてはアグィーラに知れてしまった。原因がアグィーラの麻酔薬ではなかったとすると、エリカがこのまま何もしないということは考えられない。ワイの医院の評判が落ちるからだ。
 自分が考えても仕方の無いことか。
 シレネは……いや、おそらく止血帯の処置をしたのはリコリスか助手についたワイの看護師だろう。ワイの看護師は、元々職を失った雨乞いの女たちを教育した人々だという。いずれにせよ、個人が責められるようなことにならなければいいと、それだけを願った。
 突然、低い呻き声が聞こえた。
 カリンははっとしてベッドに近寄る。
「目が覚めたのですか?」
 声を掛けるが患者の目は開かない。ただ、口元からは確かに微かな呻き声が漏れている。
「モレアさん? 大丈夫ですか?」
 苦しいのだろうか。カリンはひととおり患者の状態を確かめた。大きな異常が無いことを確認してほっと息を吐く。それから、傷が痛むのかもしれないと考えた。それは、寧ろ良い兆候だ。
「傷が痛みますか? 手術をしたことを憶えていますか?」
 声を掛け続けていると、患者が、微かに首を縦に動かしたように見えた。
 薬を経口投与するのはまだ難しそうだったので、カリンは準備してあった痛み止めの薬を注射器で患者の腕に投与する。その際、患者の腕に一瞬力が入ったのを感じた。
 意識が戻りつつある。
 アオイの後を追って報告したい衝動に駆られたが、この状態の患者を放って病室を出るわけにはいかない。
「すぐに痛みは弱まります。少しだけ我慢してください」
 カリンは患者の意識に刺激を与えるため、思いつく限りの言葉を掛け続けた。
「モレアさん、此処は病室です。大丈夫。手術は無事終わりました」
 アグィーラに居るということはまだ言わない方が良いだろう。患者を無駄に混乱させる恐れがある。
 そうこうするうちに、病室の扉が開いてアオイが入って来た。
 カリンは目だけでアオイに状況を訴え、アオイに聞かせるように患者に声を掛け続けた。患者の口からは、相変わらず時折呻き声のようなものが漏れていた。
「モレアさん、今、主治医の先生がいらっしゃいましたが、そのまま寝ていて結構です。楽になさっていてください」
 アオイは静かにカリンの隣までやってきて耳元でそっと尋ねた。
「意識が、戻ったのだな」
 カリンは頷く。
「父上に、伝えてくる」
 そう言って部屋を出ていったアオイは、すぐにツツジと一緒に戻ってきた。再びカリンの傍へやって来ると、「代わろう」と言う。
 おそらく意識を取り戻した時の状況をツツジに説明するように、とのことだろうと推察して、カリンは大人しくアオイに場所を譲った。
「アオイ様が出ていかれて暫くして、呻き声が聞こえました」
 カリンは小声でツツジに説明を始めた。ぎりぎりアオイにも届く声だろう。
「ひととおり身体の状態を見ましたが異常は無し。傷が痛むかと尋ねると頷いたように見えたので、鎮痛剤を投与しました。あとはひたすら話し掛けていただけです。目はまだ一度も開けていません」
 ツツジは相変わらず不機嫌そうな表情で黙って頷く。
「開眼反応無し、言語反応弱、運動反応弱。まだ不安定だな」
「運動反応は弱ですが、わたくしの呼びかけに反応しての運動でしたので、やや見込みはあるかも知れません」
「反射かも知れん」
「それは……はい。そのとおりです」
「鎮痛剤を投与すると、痛み刺激への反応が鈍くなるな。意識の程度が測りにくくなる」
「はい。しかし……」
「うむ。暴れられるよりはいい。妥当な処置だ」
「……はい」
「変に刺激はせんでいい。ゆっくり回復を待て」
「はい」
「状況は分かった。私は戻る」
「はい、あの、ワイへの連絡は……」
「お前の気にすることではない」
 反論の余地が無かった。
 ツツジを見送り、アオイの隣に並ぶと、アオイはちらりとカリンに目線を送った。笑いを堪えているような表情だ。
「血圧や脈拍に異常はなかったのだな?」
「はい」
「では一度刺激するのは止めて様子を見よう。痛みが落ち着いたらまた違った反応があるかも知れない」
「はい」
「それに、近くで会話をしているだけでも患者に対する穏やかな刺激にはなる」
「はい」
 アオイは椅子に腰かけると、天井を見上げて息を吐いた。
「お疲れですか?」
「いや……まだ予断は許さないが、悪い方には向かっていないという安堵だ。……しかしまあ、父上に言わせればこういうところがまだまだ甘いのだろう」
 言葉の内容に比してアオイの表情は暗くはない。少し声を落として話を続けた。患者に聞かせる内容でも無いからだろう。
「先程の報告は、父上にとっては合格点だったらしい」
「そうなのですか?」
「過不足の無い報告だった。数点の確認だけで終わっただろう?」
 あれは、確認だったのか。
「初めてお前と父上が医術上のやり取りをするのを聞いたが、父上はあの短いやり取りを楽しんでおられるように感じた」
 カリンにはとてもではないがそのようには感じられなかった。そのことが表情に出ていたのだろう。アオイはふ、と笑いを漏らした。
「これでも父上とは成人するまで一緒に暮らしていたのだ。医師としての父上をずっと目で追っても居た。其処は信用してもらっていい」
「わたくしはもとより、アオイ様のことは信頼しております」
「そうか」
「……寧ろわたくしは、ツツジ様のことを少し穿うがった目で見ていたのかもしれません」
「いや、それはないだろう。父上は、わざとそう見せているのだ。お前のその公正な眼をもってしても見抜けないくらい芝居が上手いと思えばいい」
「何の……ために?」
 思わず素直な疑問が口をついて出る。まるでひとりごとのように呟く形になった。
「さあ。其処までは私も解らない。昔から謎な父なのだ」
 それでも、やはりカリンは自分の認識に誤りがあったように感じていた。リリィの影響もあったかもしれないが、若くして医局に仕官したカリンを悪し様に言う声は後を絶たなかった。カリンは努めて気にしないようにしていたが、その分医局の人間に心を許すことをしてこなかった。その筆頭がツツジなのだと、勝手に思っていたようにも思う。
 特に意識をして避けていたわけでもないが、必要な時以外はなるべく関わらないようにはしていたし、ツツジという人物を医局長という立場以外から見てみようとしなかったことは確かだ。いや、医局長としてもある程度の先入観を持って見ていたかもしれない。
 局長として優秀であることは認識していた。しかし、局長である前にツツジは医療関係者なのだ。

 翌日の午後、ついに患者が目を開けた。
 最初は定まらなかった焦点が次第に合うようになり、カリンとアオイの姿を捉えるようになった。
 アオイは少しずつゆっくりと、今の状況を説明して聞かせた。患者は幸い混乱するような事は無かったが、数日眠っていたということを聞いた時だけ、少し驚いた表情をした。
 口から水分を摂ることをできるようにもなり、暫くすると声を発することができる程度まで回復した。意識が戻り始めてからの回復は早かった。
 おかげでカリンは明日、マカニへ戻る許可が出た。
 最悪の事態を回避したおかげで、此処から先は、秘密裏に治療を行う必要が無くなったからだ。
 医局内に詳しい経緯は説明されず、単純にワイの手が足りていないために転院してきた患者を暫く面倒見ることになったとだけ伝えられた。
 医局を出たのは遅い時間だったが、カリンはレフアとローゼルに面会を申し入れた。エリカの動向を確認するためだった。執事室のディルは微かに眉を顰めたが何も言わずに対応してくれた。

「大変だったわね」
 レフアは先ず労いの言葉を掛けてくれた。通されたのはレフアの私室だ。ローゼルは黙ったままカリンの顔を見詰めている。
「明日、マカニへ戻れることになったから、その前にワイの話を聞いておこうと思って」
「ああ、そうね……」
 レフアはローゼルに視線を送ったが、ローゼルは相変わらず黙ったままだ。それを気にする様子もなく、レフアは話し始める。
「エリカ殿はなんと、堂々とアグィーラからワイへ医師を派遣してくれと申し入れてきたのよ」
 カリンが驚いた表情を浮かべると、レフアはくすりと笑う。
「驚くでしょう? 最初は下手に出ていらっしゃったの。今のワイの医院の体制が脆弱であることは今回のことでよく分かったって。珍しいなと思っていたら、二言目に、十名とは言わないから何名か希望する医師をワイへ寄越してくれないかって」
「元々、シレネ殿を通して医局に働きかけていたけれど、最初に手を挙げる者はなかなか現れなかった。でも確かに、国から募集がかかれば手を挙げる人はいるかもしれない。今の医局の対応に不満を抱いている医師や、野望を抱いている医師は居ると思うわ」
「そう。大胆な作戦よね。エリカ殿らしいわ」
「それで、どう答えたの?」
「アグィーラ医局の体制が弱まることは避けたいから少し考えさせてほしいって答えたのだけれど、『医局の体制は万全なのでしょう?』って返されたわ」
 アオイが話したことを逆手に取ったのだ。エリカの勝ち誇ったような表情が浮かぶように感じた。
「マカニのことは引き合いに出されなかった?」
「マカニのこと? 何故?」
 カリンがレンのことは伏せたままアオイとエリカのやり取りを話して聞かせると、レフアは納得したように頷いた。
「ああ、なるほど。それでエリカ殿は強気だったのね。今回はマカニのことを引き合いに出すことはしなかったけれど、そのうち何か言ってくるかもしれないわね。でも、それとこれとは話が違うわ。それに……多分ツツジが何とかしてくれるのではないかしら」
「ツツジ様が?」
「アグィーラから医師を派遣するならば、ワイの医院を独立した医院としてではなく、アグィーラの分院の位置づけにするという条件をつけてはどうかと言っていたわ」
「ああそれは……エリカ様は受け入れないでしょうけれど、それ以上医師の派遣を要求しにくくなるわね」
 さすがの対応だ。寧ろそれが唯一の対応だったのではないかとすら思える。
「そう。多分今はそこで話し合いが止まっている。あとは、今回の最終的な診断結果を持って、どういう話になるかというところね。その辺りの話も、ツツジに任せてあるわ」
 聞きたいことを聞くことができたので、カリンは長居をせずに礼を言って王宮を後にした。結局ローゼルとは挨拶以外言葉を交わさずじまいだった。
 中庭を通る際、医局の灯りがまだ灯っているのが目に入った。アグィーラ医局は眠らない。カリンは夜間勤務があるような仕事ではなかったため、これまであまり夜遅くに医局に居る事は無かったが、今も働いている者たちが居るのだ。
 幼い頃から長い間見続けてきた筈の医局という存在が、自分の中で少しずつ変わっていくのを感じながら、カリンは速足でヨシュアの待っている家へと急いだ。


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