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物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 19

-レン-

 ベッドに起き上って本を読んでいると、扉が開いて族長とカリンが入って来た。
 カリンは入り口付近で立ち止まり、じっとレンの顔を見詰めた。
「カリン、ただいま……あれ、お帰りっていうべきなのかな」
 レンが微笑むと、反対にカリンの顔は見る見るうちに歪み、両目から大粒の涙が溢れた。その肩に、族長が優しく触れた。
 カリンはその場で立ち止まったまま両手に顔を埋めてしまった。暫く肩を震わせて泣き、そのうちその両手の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
「レン……良かった……お帰りなさい、そして、ただいま」
 最後の方は口調に笑いが混じっていた。
 言い終えると、カリンは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔を自分で拭って照れ笑いのような笑顔を浮かべた。
 それからゆっくりと歩いて来て、恐る恐るレンの頬に触れる。レンはされるがままにしていた。
 カリンは再び「良かった」と呟いたが、今度は泣かなかった。
「不思議なんだ」
 カリンが落ち着いていることを確認してから、レンは微笑んだまま話し掛けた。
「何が?」
 カリンは首を傾げる。
「今回僕は、カリンのことをちっとも心配していなかった」
「ふふ……私はとっても心配したわ」
 でもね、とカリンは続ける。
「私も取り乱さなかったの。それで、レンの傍を離れて、レンのことを他の人に任せて、アグィーラで仕事をしていたのよ。自分で自分が信じられないくらいだった」
「そうか。でも僕は何だか、解るような気がするんだ」
「解るの?」
「うん。僕も後から考えたんだけど、カリンには族長もヨシュアさんも、マカニの仲間たちもついていたからかもしれない。だから僕も、カリンはきっと大丈夫だと思っていたと思うんだ」
「そうかもしれない。ヨシュアさんにも似たようなことを言われたわ。私は、仲間を信頼できるようになったんだって。勿論誰よりもレンのことを」
「うん、きっとそうだ」
「あ、ごめんなさい。レンはまだ病み上がりで、怪我も治っていなくて、長い話は疲れるよね。……ああ、そう、それに先ずはカエデさんたちの話を聞かなくては」
 カリンの頭は急に薬師に切り替わったようだ。一度レンの傍を離れてカエデと二人の医師の方へ行き、話を始めた。レンはそれを興味深く眺めながら考えた。
 そう。レンは今回、鍾乳洞を彷徨っている間も助け出されてからも、カリンの心配をしなかった。そして、実はそれは今に始まったことではなく、昔切り通しで遭難した時もそうだったな、ということを思い出した。
 自分が死んでしまってカリンを含む他の人が悲しむのは少し嫌だったが、死ぬこと自体は怖くなかったし、あんなに特別だったカリンと居られなくなるかもしれないことも、その時は何も考えなかった。ただぼんやりと、自分は此処で死ぬのかな、と感じていただけだ。
 どうやらレンは、自分が無事なのにカリンが無事でなかったり、居なくなったりすることは恐ろしいが、カリンの前から自分の存在が消えてしまうことについては、ある程度仕方がないことだと思っていることを改めて認識したのだ。それは諦めというようなものではなく、文字通り仕方のないこととして感じている。カリンが自分のせいで悲しい思いをするのは勿論嫌だし申し訳ないとは思うが、仕方がない。そんな風に考えるのは自分が戦士だからかもしれない。
 戦士という仕事は、危険の中に身を置くことを避けられない。そうであるにもかかわらず、日々家を出る時に、大切な人を置いて出る心配をしていては務まらないのだ。魔物が多い時には、今日はこのまま命を落として帰れないかもしれないということが日常なのだった。
 魔物との戦いの間に、自分が大切な人を残して死ぬことを考えていたら、本来取るべき対応が遅れる可能性すらある。それこそ命を落としかねないし、仲間を助けることもできなくなるかもしれない。それが最終手段ではあっても、自らの命を呈して守るべきものを守るのが戦士の仕事だ。
 これまでレンはそのことに無意識に対応していたが、今回改めてそのことを考えた。それは今回置かれた状況が戦士としても非日常だったからだろう。
 だから、極限の状態で自分を支えてくれたのは、マカニの戦士としての使命だった。
 そして、自分が助かってから先ず最初に考えたのは族長のことだった。
 族長は病弱な妻を持ちながら戦士という職業を全うした。それは並々ならぬ精神力の賜物だろうと思う。レンは、カリンが健やかだから家を出ることができるのだ。カリンの調子が悪かったり、カリンが何処かで危険な目に遭っていることが分かっているのであれば、それを放って戦士の任務を全うできるかどうかは危うい。
 カリンは今回、自分がマカニに留まらない代わりに、アグィーラの医師二名をマカニに置くようアグィーラ医局に交渉したに違いない。その方が結果的にレンのためになると考えたのだろう。解らない話ではなかった。
 レンの傍に戻ってきた時、カリンは涙の跡も乾き、朗らかな表情だった。
「脳には大きな問題はないみたいで良かった。一度だけマカニへ戻ってきた時、其処だけがよく分からなかったの」
「それで、アグィーラ医局に話をしてくれたんだね」
「うん。二人も派遣してもらえて、驚いたわ」
「お二人とも、とても親切だったよ」
 レンが二人の医師の方へ目を遣ると、カリンと入れ替わりに族長が二人の傍へ行き、改めて今回の礼を述べていた。
「デンファレ殿はもう少しひとりで残ろうかと言ってくださってる。中度の脳震盪の場合、最初に診察してから十日程様子見した方が安心だからって」
「有難いね」
「ええ、本当に」
「カリンのおかげだよ」
「そんなことないわ」
「いや、カリンがマカニとアグィーラを繋いでいるんだよ」
 カリンは目を丸くする。
「そんなこと……考えたことも無かった」
 そして、あのね、と続けて、現在アグィーラ医局で起こっているワイとの問題について話してくれた。
「……それでね、私はずっと薬師は天職だと思っていたけれど、もう少しアグィーラ医局に勤めることができていることの意味を考えるべきではないかと思っているところ。……あ、ごめん。また長々と話してしまった」
 レンは笑って否定する。
「大丈夫。もう、随分調子はいいんだ。動きたくてうずうずしているんだけど、まだ無理しては駄目だって言われて大人しくしているんだよ」
 カリンの両腕がふわりとレンの首に回される。
「無事だって信じてた」
 穏やかな声だった。
 レンは自由の効く左手をカリンの背中へ回す。
「うん。信じてくれてありがとう」
「あのね、私は漸くレンの妻だっていうことが理解できて来たような気がするの」
「そうなのかもしれないね。カリンも、それから僕も」
「イベリスが以前言っていた、同じ人生を歩むということが、本当の意味で分かってきた気がする」
「そうだね。僕には戦士という役目があって、カリンには薬師という役目がある。お互いがそれぞれの役目を果たすためにひとりで頑張るのではなくて、二人で二つの役目を果たすんだよ。多分ね。そういう意味で、僕はさっき、カリンがアグィーラで薬師としての務めを果たしたということを理解したし、少しも嫌な気持ちにならなかった」
 さすがに、自分は戦士だから、自分がカリンの目の前から消えてしまっても仕方がないと思っている、とは話せなかったが、レンはそう言った。
 カリンはレンから身体を話し、うふふと笑う。
「少しは大人になったのかしら」
「うん。大人みたいな子供じゃなくて、ちゃんとした大人になったんだよ。しかもやっと大人になったばかりで、まだまだ成長の余地があるっていうことに気がつかされる」
「本当にね」

 カシスは明日アグィーラへ戻り、デンファレはあと五日間マカニに滞在することになった。そして、デンファレがマカニに留まる間は、レンも診療所に入院したままでいることも決まった。
 普段のマカニの医療は入院することは滅多に無く訪問診療が基本だが、今回はレンのためにアグィーラから様々な機器を持ち込んでいる。それらをすべて持ち運ぶことは大変であるし、最終的にはカリンも診療所に寝泊まりすることとなり、自宅に戻る理由が無くなったからだ。
 少し遅めの夕食の時間に、ミントとスミレが食堂で供している食事を持って現れた。店を早めに閉めてきたのだという。
 レンが救出された直後に一度だけ見舞いに来たというが、意識が戻ってから会うのは初めてだった。
 カシスに最後のもてなしをすることが主旨だったのだろうが、ミントもスミレもレンに会えてほっとしたような顔を見せた。スミレは少しやつれていて、レンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「もう起きても大丈夫なのか?」
 自力で食事の置かれたテーブルまで歩いて来たレンにミントが尋ねる。
「うん。診療所の中を歩き回るくらいならば問題ない。でも、早く外に出たいな」
「みんな心配してる。多分外に出たら質問攻めにあうから、いっそ大広場でみんなを集めて話をしたらどうだ?」
「それは勘弁してほしいなあ。もう暫く大人しくしてることにするよ」
「明日、シヴァを連れてくる。今回のことは、シヴァに説明して皆に話してもらえば良い」
 族長が言い、レンはほっとして頷いた。
 レンの利き手は右手だが、万が一の時のために左手も同じくらい使えるように訓練してあるので、左手で食事をするのもそれほど大変ではなかった。
 レンが普通に着席して自分で食事をする様子を見てスミレは目を潤ませたが、アグィーラの医師たちに遠慮してか、話し掛けては来なかった。
「おばさん、心配かけてごめん」
 気を遣ってレンの方から声を掛けると、スミレは首を横に振った。
「レンが戦士になりたいって言った時から、こういうこともあるだろうって思ってはいるのだけれど、やっぱり駄目ね。闇の浄化の時だって心配だったけれど、あの時はすぐに闇も晴れたし、そのあとレンは戻って来るだろうって思ってた。でも、今回は……」
 俯いて目元を拭っているスミレの膝に、ミントがそっと手を置く。
「まあ、助かって良かったじゃないか。アグィーラのお二人にも感謝の気持ちが絶えません。レンを助けていただき、本当に有難うございました」
 二人の医者は代わる代わるに自分たちは何も特別なことはしていないと言い、食堂の食事を褒めた。それからデンファレが、少し真面目な表情になって続けた。
「私どもの方こそ、今回医師として大切なことを教えていただいたように思います。大きな医局の中で仕事をしていると、どうしても自分がひとつの歯車のように思えてしまうことがある。勿論、目の前に居る患者を救うことが使命ではあるのですが、それは自分でなくとも良いのではないかと考えてしまう瞬間があるのです。今回は、そのような自分が、確実にお役に立てたのだという手応えがありました」
「それは、そう、医師ではなくともそうかもしれませぬな」
 デンファレははっとしたように族長の方を向く。
「例えばこの村……」
 族長はじっとデンファレの顔を見詰めた。
「村人がひとり欠けたとしてもマカニの村は表面上何も変わらないように見えるでしょう。しかし、実際には変わってしまう。全く同じ人というのは二人としておりませぬ。そのひとりが欠けただけで、村には少し変化が訪れる。勿論、村としての機能は果たします。でもそれは、そのひとりが欠ける前の村とは、確実に違う。どちらがいいという話ではありません。良し悪しの比較は無意味です。ただ、個人の働きが大きな集団に全く影響しないと考えるのは違うと、村をべる私などは思います」
「ああ……」デンファレは感動したような眼差しを族長に向けた。
「仰る通りです。良し悪しの問題でもない。しかし、自分が居なくなって良かったと思われるような人間にはなりたくない。そうか……ああ、そうなのです……」
「それに加えて今回は……」
 族長は視線をレンに移す。突然視線を振られて、レンはやや動揺した。
「レンは、今では私にとって無くてはならない存在です。村の多くの者にとってもそうでしょう。そのレンを救ってくださったお二人の存在は大きい。お二人は、アグィーラ医局の中だけでなく、マカニの村にとっても、有難い存在なのです」
「今回我々が此処へ派遣されてきたのは偶々です。他の者が来ても同じようにレン殿を救うことができたでしょう。いや、救うという言葉は適切ではない。最終的に回復したのはレン殿の生命力の強さにもあります。我々はその手助けをしただけ。でも、そうだとしても、大きなアグィーラ医局の中で私どもは、確かにひとつの役目を果たしたことには変わりがないわけですね」
「それ以上のことだと、私は思います」
 レンは別の観点から族長の話を聞いていた。
 族長の話はよく理解できる。黒鳥病で沢山の子供たちが居なくなってもマカニの村は続いてきた。しかしその子供たちが居ないマカニは、居た場合のマカニとは違う気がする。この診療所だって、ラウレルが生きていた時とは随分変わった。そういうことだ。
 そこでレンが考えたのは、族長は族長自身の不在をどう考えているのか、ということだった。話を聞きながら暫く考えてみたが、全く分からなかった。
 分かったのは、族長の不在による穴の大きさだけだった。
 いつか確実に訪れる筈のその大きな穴。自分だけでは決して埋められないだろうその大きな穴が、今回落ちた鍾乳洞の深い闇のように、レンの心に影を落とした。


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