物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 11
-カリン-
その日の午後到着したエリカとは、アオイと二人で面会することになった。アオイとエリカは、ギリアの事件の時に対面済みである。カリンはひとりでエリカと対峙せずに済むことに、人知れず胸を撫でおろした。
エリカと対面する前に、カリンはレフアとローゼルに短い面会を申請し、国としての方向性も確認済みだった。二人も忙しく、用件だけの短い面会だったので、レンのことは話さずに済んだことにもほっとしていた。
「レン殿はお元気?」
孔雀の間に着席するなりエリカは尋ねたが、カリンが言葉を詰まらせたのを別な風に解釈したようだった。いつもの妖艶な笑みで続ける。
「……そんなに身構えなくても結構よ。貴女からレン殿を奪ったりするつもりはないから」
「いえ、わたくしもそういうつもりでは……」
「折角以前より国が自由になったのだから、地政や民の在り方も変わってもいいでしょう?」
元は一番閉鎖的だったワイ。それが、エリカの代で大きく様変わりした。自分がその一端を担ったかもしれないとはいえ、その後のエリカの精力的な動きには執念のようなものすら感じる。エリカは続けた。
「貴女はマカニの薬師でもあり、こうしてアグィーラの医局にも身を置いている。そういう在り方もありよね」
カリンは更にワイの薬師にだってなれる、そう言いたいのだろうか。
「ねえ貴女、もし今マカニに重体の患者が現れたらどうするつもり?」
「どういう意味でしょうか」
「目の前の患者を放り出してマカニへ帰るのか、それともマカニの患者を見捨てるのか」
「見捨てる……とは、あんまりな言い方ではないでしょうか。マカニには、わたくしが居らずともカエデが居ります」
「カエデ殿ひとりの手には負えないような患者だったら?」
「……」
例えばそれがレンだったら? ……気持ちは勿論戻りたい。しかし確かにエリカの問いは、痛い程適切だ。エリカならば族長として取るべき対応を優先するのだろう。カリンは国の問題に事あるごとに口出ししているが、その顛末を受け入れるだけの覚悟があるのかと問われているようだった。
「アグィーラは、そのような時のために組織で対応を行っています」
アオイが静かに割って入った。カリンははっとする。エリカの視線がゆっくりとアオイへと移り、口元にうっすらと微笑が浮かんだ。そのまま黙って続きを待っている。
「カリンは元々官吏を辞してマカニへ行く筈でしたが、引き留めたのはアグィーラです。あくまでも主はマカニ。アグィーラとしてはカリンが居てくれた方が有難いが、カリンにマカニを優先してもらっても大きな問題にならないよう、引き継ぐ体制があります。あるいは、場合に拠っては、カリンの代わりに誰かをマカニへ派遣することもできる。どちらにどのような医療が必要かによって、その対応は変わるでしょう。もう少し言えばカリンだけではない。どんな個人の都合にも左右されない体制は整っている筈です」
「なるほど、それが医局か。アグィーラにはそれだけ潤沢な医師も薬師も居るということね。エンジュが何処まで考えているかは別として、実質、アグィーラとマカニが医療協定を結んでいるようなものだわ」
少し間を置き、貴方……とエリカの目線がアオイを絡めとる。
「確かアグィーラの医局長の息子だったわよね」
好ましい話題ではないだろうが、アオイは表情を変えなかった。
「……私は、書類上医局長の息子ではありますが、医局長を継ぐ立場ではありません。これはアグィーラの一医師としての発言です」
「それは頼もしいわね。……貴方にも興味が湧いたわ」
エリカは何処まで本気なのだか分からない口調で言う。カリンはアオイの救いの手に感謝しつつも、申し訳ない気持ちになった。
「あの、エリカ様、そろそろ本題に……」
カリンが口を挟むと、エリカがくすくすと笑った。
「こちらが本題だとしたら?」
絶句するカリンを可笑しそうに見遣りながら、「冗談よ」と言う。
いや、本気なのかもしれないとカリンは思う。表向き、今回の医療事故の原因究明に乗り出してきた風を装って医局に入り込み、自らの眼に叶う者を探りに来たのかもしれない。シレネの手には落ちなくとも、エリカと直接対峙したならば、落ちる者も居るだろう。背筋がすっと冷えた。
「それで? 本当のところどうなの? シレネは決められた用法と容量の範囲内で処置をしたと言っている。あの麻酔薬を造ったのはアグィーラでしょう?」
「はい。今回使用されたのは、かなり古くから使用されている安定した麻酔薬です。用法と容量については治験は勿論、これまでの実績からしても安全なものになっています。ただしそれはあくまでも標準の使用方法であり、当然患者によって身体の状態は異なりますから、実際は術中の患者の状態を見ながら薬師が細かい調整をする必要があります」
「言っていることは分かるわ。今回も別にシレネひとりで手術に当たったわけではない。麻酔に関しては……ああ、貴女も知っているでしょう? リコリスが立ち会っている筈よ」
リコリスは元ワイの診療所の長だ。ワイの中では古株の医師で、薬師の知識も比較的深い。ワイでは唯一薬草をそのまま扱える技術を持っている医師だった。確かに体制としては悪くない。
「今回の事象の原因を確かめるためには、術中に著しく血圧が下がったり上がったりした瞬間が無いかを知ることができると有難いのですが……その他にも心拍と……」
「リコリスだってそのくらいのことは知っているでしょう? 彼が何も言わないということは少なくとも気がつかなかったのよ。シレネと結託して黙っていない限り、ね」
エリカは意味深な表情でカリンを見詰めたが、カリンは極力淡々と続ける。
「アグィーラでは記録係が定期的に記録をつけます。あの、ワイでは……」
「一応記録係として看護師がつくけれど、何処まで細かく記録しているかは分からない」
「そうですか」
「あのね、本当は私、こういうのに意味は無いと思っているの」
カリンは意図を図りかねてエリカの顔をまじまじと見詰める。
「貴女の言うとおり、これまでの実績からして薬師が定めた麻酔薬の用法容量は正しいように見える。今回は何らかの原因でその標準の状態から外れてしまったのかもしれない。だとしても、数ある使用例の一例でしかない。その一回の失敗が、これまでの実績を塗り替えることってある? 無いわよね。頻発するならともかく……」
「少なくとも、解るところまで究明して記録を取っておくことは大切です。今後同様の症例の際の参考になりますから」
「そう……そうね、貴女たちには意味が在るのかもしれない。でも私にとっては無い。時間の無駄よ。貴女、私がわざわざアグィーラ医局の薬師室の不手際を責め立てに来たとでも思っている?」
「いえ……どちらかといえば、ワイの医院開放計画が遅れるのを防ぎたいと考えておられるのかと」
「ふふ。貴女、相変わらず正直ね」
そうでもない、とカリンは思う。本当は反対に指摘してやりたい気持ちでいっぱいだった。医療は人の命の上に成り立っている膨大な経験の積み上げだ。たった一例であっても、人ひとりの命がかかっている。それを大切にできない人が、果たして医療を語って良いものだろうか。
しかし同時に、カリンはエリカが医療を一事業としか考えていないことも知っていた。せめて、その箱の中に入る医療者には命を大切に扱う気持ちがあってほしいものだと思う。たとえ、ワイの医院へ移る理由が地位や報酬であったとしても。そう考えるのは自分の甘い理想だろうか。
「わたくしどもにとっても、原因の究明よりは患者の救命の方が優先度が高いので、そちらを優先させていただきます」
精いっぱいの皮肉を込めて答えるが、当然エリカには効果は無い。
「そうね、お願い。私も患者に助かってもらうのが一番よ。……とりあえずアグィーラの薬師殿の見解は理解したわ。ありがとう。あとは政治上の話だから、医局長と……そうね、ついでに国王夫妻とも面会して帰るつもりよ」
交渉材料は揃ったという訳か。カリンの話を聞く前からエリカの中で道筋は立っていたに違いない。
孔雀の間を出てエリカと別れ、医局へ向かう途中の中庭でカリンは思わず深呼吸をする。それを見てアオイがふっと笑いを漏らした。
「おつかれさま」
「あ……いえ、アオイ様、ありがとうございました」
「ほとんどお前が話していた。私はついて行っただけだ」
「それだけでも、随分気が楽でした」
「信じられないな」
「え?」
「私がお前に安心感を与える存在になっていることがだ」
カリンは思わず足を止める。
「少し休憩していこう。いずれにせよ先程の投薬から時間が経たねば結果は分からない……それとも、お前は別な仕事があるか?」
「いえ……」
ベンチに隣り合って腰かけ、二人で何となく空を見上げる。確かにそれは昔から考えたら信じられないほど穏やかな時間だったが、生家を出てからのアオイの変貌ぶりを見ると、カリンにとっては何の不思議も無かった。
今のカリンは、アオイと居ると気持ちが落ち着く。
「鉢植えは元気ですか?」
アオイは以前、城で行き場を失ったポリシャス・フルティコサの鉢を引き取って官舎の部屋で育てている。
「元気だよ。随分背も伸びた。植物のある生活も良いものだな。もっとも、沢山育てる気にはならないが」
「あの、先程の御礼は、一緒に来てくださったことだけではないのです」
「ああ……あの発言か」
「はい」
「本当のことだ」
「そうだとしても、エリカ様の前であのように発言してくださる方はそう多くはありません」
カリンが言うと、アオイは可笑しそうに笑った。
「族長とは皆、ああいう雰囲気なのか?」
「いえ、色々な族長様が居られます」
「まあ、そうだろうな。だが、例えばアグィーラの局長にも色々な局長が居るが、共通する雰囲気のようなものがあるだろう?」
「そうですね。皆様それぞれしっかり軸をお持ちですから……」
「なるべく近寄りたくないな」
「局長とは違って、権力争いばかりでもありませんよ」
「そうか……お前は、マカニの族長のことを尊敬しているのだったな」
「はい」
二人は再び空を見上げる。マカニ族が知らせを持って飛んでくる気配はまだ無い。人が遭難した際、生存率が一気に下がると言われている七十二時限後が明日に迫っていた。
少しずつ、カリンの心にレンの不在が影を落とし始めていた。
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