物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 15
-レン-
春楡の花が咲いている。
とはいえ、春楡の花は大きな花弁があるわけではなく、まるで蕊の集まりのようで、遠くから見ると蕾のように見える。
花が咲いていても樹全体の色味は相変わらず緑色で、しかし初夏に見る春楡のその色彩が、レンは好きだった。
子供の頃、時折店の手伝いで東の森へ行った。適度に間をあけてゆくので、その間にほのかな季節の移ろいを感じる。東の森にある、一番大きな樹が春楡の樹だ。
その下に、若い夫婦が立っている。女の手には小さな赤子。
ゆったりと優しい風が、歓迎するかのようにそっとその黒い髪を揺らした。春楡の葉もさやさやと揺れている。
あれは、若い頃のミントとスミレだろうか。それとも……
もっとよく見ようと近づくと、その姿はすっと消えてしまった。
続いて、飛ぶ練習をしているらしき少年の姿が見えた。
あれは間違いなくレンだ。場所は食堂の裏。
五歳になる少し前、レンはミントとスミレに言ったのだ。自分で空を飛びたい、と。
まだ飛ぶ練習を始める年齢には達しておらず、一番小さい練習用の翼でも大きかったが、ミントはそれをレンに買い与えてくれた。その代わり、ミントもスミレも店が忙しいから教えてはやれないと言った。レンは二人の手を煩わさないことを約束した。
来る日も来る日もレンはひとりで飛ぶ練習をした。
教えてくれる人は居なかったので、翼の工房で基本的な造りの説明を受けた後はひたすら基本の動作を繰り返して身体に覚え込ませた。
その頃は、鳥が飛ぶ姿をよく観察していた。
もちろん鳥が飛ぶ機構とマカニ族の翼の構造は完全に同じではない。それでもレンには、その飛び方が理想的なものに思えた。
いつかあんな風に空を飛べたら。そう思った。
時々訓練場の近くまで上がって行って、戦士たちが飛んでいるのを少し遠くから眺めた。そうするうちに、弓にも興味を持った。
そう。その時初めてレンに声を掛けてくれた戦士がシヴァだったのだ。
まだリーダーではなく、淡い灰色の翼を身に着けていた。
「名前は?」
「レン」
「ああ、食堂の子か。いくつだ?」
「五歳」
「そうか。もう翼の練習を始めたのか? 偉いな。俺はシヴァという。よろしく」
それから時々、シヴァが非番の時に飛び方を教えてくれるようになった。弓にも興味があるのだと言ったら、自らの背中から弓を取って触れさせてくれた。その上でまずはひとつずつだと言われ、レンは納得した。
シヴァの言葉には、年下のレンに対しても誠実さが感じられた。
レンが六歳で翼を持つことができたのは、ひとえにシヴァのおかげだ。
飛び方を教えてくれたこともそうだが、まだその年齢に達していないレンが自分の翼を持つに足るであろうことを最初に族長に伝えてくれたのは、おそらくシヴァだったのだと思う。
ある日族長が食堂を訪れ、ミントとスミレと話をした後、相変わらず裏で飛ぶ練習をしているレンの所へやってきた。レンはその時初めて族長と二人だけで話をした。
これまで遠くから眺めるだけ、あるいは村のどこかですれ違って挨拶を交わすだけだった族長と二人で向かい合った。
レンは一瞬でその雰囲気に呑まれてしまった。
決して威圧的ではなく、寧ろ穏やかな笑みを浮かべていたのだが、この人には敵わないという妙な直感が小さなレンを貫いた。それはシヴァに対する感情とは全く別のものだった。
「ポプラを知っているか?」
レンに飛ぶ練習を続けるように言い、暫くそれを眺めていた族長は不意に尋ねた。レンは族長の前に着地してから答えた。少し息が切れていた。
「名前と顔は知っています。きちんと話したことは無いと思います」
「その練習用の翼は少し大きかろう? 専用の翼を造ってもらうといい。もう練習用でなくて良い。お前自身の翼だ」
「いいのですか? 僕はまだ……」
「お前にはすでにその準備がある」
族長はそう言って大きな掌でレンの頭を撫で、そのままポプラの所へ連れて行ってくれた。
とはいえその頃ポプラはまだ自分の工房を持っておらず、カタクリの工房に居た。族長はその場で工房の主でありポプラの父でもあるカタクリに話を通し、ポプラはレンの翼を専任で造ることになった。
また場面が切り替わる。
今度は弓を構えるレンの横顔だ。まだ訓練場へ通い始める前。翼の練習をしていたのと同じ店の裏庭で、藁を巻いた大きな的に向かって至近から矢を放っている。
弓の基本も、シヴァが教えてくれた。
翼が使えるようになったら教えてやるという約束を、きちんと憶えていてくれたのだ。
まだ幼いレンは完成したばかりの自分の翼を身に着けている。族長に憧れて選んだ、黒に近い深い深い藍色の翼。
なかなかいい横顔だな、と思う。
真剣な眼差し。
ああ、自分はこの頃もう、マカニの戦士になりたかったのだ。
レンが八歳の時、シヴァがマカニの戦士のリーダーになった。そしてその少し後、シヴァはレンを訓練場へと迎え入れてくれた。
それからは、弓に夢中になった。
誘ってくれたシヴァが驚くほど、何かに取り憑かれたように訓練場に通い、家でも食事や入浴の時以外ずっと弓を手にしていた。
翼は既に身体の一部だった。
風は友達だった。
弓は、すぐにレンの相棒になった。
マカニの村が大好きだった。
マカニの村を守りたかった。
僕はマカニを守る戦士になる。
僕はマカニの……
低い話し声が聞こえた。
何を話しているかは分からない。
目を開けようと思ったが瞼が重くて持ち上がらなかった。
此処は……何処だ……
考えを巡らせようと思ったら全身に鈍い痛みを覚え、思わず呻き声が出た。
話し声が止まる。
誰かが近づいてくる気配がした。人間の気配だ。
此処は……
「レン?」
族長の声だ。
レンは言いようのない安心感に包まれた。
『ぞくちょう』
声にしたいのに声にならない。掠れた吐息が口から洩れただけだった。
族長の手がレンの顔に触れるのが感じられた。
「話さなくて良い。聞こえるならそのまま聞いてくれ。此処は、マカニの診療所だ。お前は生きている。よく頑張った。暫くはゆっくり休むが良い。焦る必要はない。もう大丈夫だ。今は、何も考えるな」
族長はゆっくりと、一語一語間を置いて話した。
その声を聞いてるうちに、先程痛みを感じて強張った身体が少しずつほぐれてゆく。
「……っ……」
聞いていることを伝えたいのに、喉からはやはり声にならない音が漏れるだけで、仕方なくレンは微かに首を縦に振った。声を出すどころか呼吸が苦しい。
族長の手がレンの頭を優しく撫でた。族長にはきっと伝わっている筈だ。
「どうされますか?」
知らない声が族長に尋ねたようだ。
「私は予定通り、朝カエデが来るまで此処に残ります。空いているベッドもある。万が一何かあった際、マカニ族が此処に居た方が良いでしょう」
「助かります」
「いえ、こちらこそ、アグィーラから到着してすぐこのように対応していただき、感謝に堪えません。お疲れではありませぬか?」
「我々は交代で休みます。それに、アグィーラでも場合に拠っては夜を徹することもあるのです。そういう仕事です」
アグィーラ……。
事情が呑み込めなかったが、族長の言うとおり今は何も考えない方が良いのだろう。何より、なんだかとても身体が疲れている。力が入らない。まるで自分の身体ではないみたいだった。それなのに、少しでも身体を動かそうとすると痛みだけは確かに感じた。
それでも、どうしても族長の顔が見たくて瞼に力を入れる。族長の手はレンの頭に添えられたままだ。何とかして瞼をこじ開けると、うっすらとした光が目に映った。
どうやら真夜中らしい。部屋の灯りは灯されてはおらず、ベッドの脇に小さな灯りが置いてあるだけのようだ。
その灯りに族長の横顔が映し出されている。
いつもどおり、穏やかな表情だった。
それをぼんやりと見詰めているうちに、少しずつ、記憶が戻ってきた。
そう。自分は谷川に落ちて流され、鍾乳洞らしき場所に辿り着いた。長い時間をかけて洞窟から抜け出して……。
エルム……。ああ、そうか。エルムが、羽根を届けてくれたのだ。
だから自分はこうしてマカニの診療所に居る。
「お水を飲みましょう」
知らない男の顔が頭上に現れ、レンの頭を下から支えた。
代わりに、族長の手がレンから離れた。
レンはされるがままに口元にあてがわれた吸い口から水を口に含む。飲みこむ時、喉から胸にかけてが酷く痛んだ。
しかし身体は水分を欲していたようで、レンは与えられた水を全て自分の身体に入れた。
「……ぞくちょ……」
漸く声が出たが最後まで言い切らないうちに息が切れる。
「大丈夫だ。傍に居る。安心して休め。……今は休むことがお前の役目だ」
今度は族長の穏やかな笑みが正面から目に入った。
レンも笑顔を返したつもりだったが、上手く笑えただろうか。
族長の手が胸元に添えられるとすぐに急激な眠気が襲ってきて、レンは再び瞼を閉じた。
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