物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 16
-カリン-
いつもより少し早めに出廷したが、ユウガオは既に受付に座っていた。カリンは昨日の礼を言い、すぐに患者の病室へ向かった。アオイも出廷しているだろう。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「アオイ様こそ」
「私も今来たところだ」
アオイは、僅かに眉根を寄せている。
「どうかなさいましたか?」
「昨日の夜間の記録だ。……明らかに少しずつ、数値が悪くなっている」
アオイから受け取った記録にざっと目を通すと、確かにそれまで低い所で安定していた血圧が乱高下し、脈拍も安定しない。臓器の働きを表す数値も少しずつ乱れていた。
「とりあえず清拭して、今の様子を診てみます」
「頼む」
アオイは、もう一度最初から記録を見直してみると言ってベッドから少し離れた位置に腰を下ろした。
カリンはまず手術痕を確かめる為、腕の包帯を解いた。初日に比べると随分と腫れが引き、綺麗になっている。傷口は順調に塞がっているようだ。
縫合も綺麗で包帯によるかぶれなども観測できない。此処だけ見れば、術後の状態としては良い方だと言えるだろう。
滅菌した布で患部を中心に丁寧に拭ってゆく。
しかし、肘の下辺りまで来た時カリンはあることに気がついた。
腕にうっすらと紫色に残る痕をそっと指でなぞる。
頭の芯がきゅうと締め付けられるような感覚を覚え、背筋に冷たい汗が流れた。
まさか……
「アオイ様……」
努めて冷静な声でアオイを呼ぶ。紙の束から顔を上げたアオイはしかし、カリンのただならぬ様子に気がついたようだった。
「どうした?」
「これ……」
「止血帯の痕だな。それがどう……」
そこまで言葉にしてアオイも気がついたのだろう。手に持ったままだった紙の束を落としそうになり、慌ててそれをベッド脇の小さなテーブルに置いた。
「先日はまだ腕が腫れていて気がつきませんでした」
アオイは黙って頷く。おそらく頭はこの状況を打開すべく全速力で動いているに違いない。
「とりあえず急いで透析の準備を」
「はい」
「診療室に指示を出したら医務室に寄って父上に報告してくれないか」
「分かりました」
病室を出て診療室の受付へ行くまでに気持ちを落ち着かせる。
昨夜対応してくれたのと同じ官吏がひとり居たので、礼を伝えた後一番奥の病室に血液透析の準備をしてほしい旨を伝える。アオイからの指示であることを伝え詳しい経緯は語らなかったが、特に説明は求められなかった。
診療室を後にして医務室の扉を開けると、幸いツツジは其処に居た。
「昨日の夜に発ったようだな。……まだ何かあるのか?」
ツツジはカリンの顔を見るなりそう言ったが、感じるところがあったらしく片方の眉を上げて立ち上がる。
「奥の部屋へ」
カリンは頷いて後について入った。
「ワイからの患者は挫滅症候群の可能性があります」
扉を閉めると同時にカリンは声を発していた。
ゆっくりと振り返ったツツジの顔に変化は見られない。いつもどおりの不機嫌そうな表情だ。
「なるほどな……何故そう思った?」
「今朝、左腕を清拭している際、腫れの引いた腕に止血帯の痕が残っているのを見つけました。アオイ様にも見ていただいて同じ結論に。……今、透析の準備をしています」
「妥当な対応だ。……それで?」
「はい。あの……ひとまずご報告に上がっただけです。わたくしはすぐに戻ります」
「報告は聞いた。まだ診断については他に口外するな。治療に専念すること。必要な処置はアオイとお前に一任する。他の者に何か尋ねられたら私がそう言っていたと言えばいい。分かったら行け」
「はい」
カリンは一礼して、ツツジを残したまま小部屋を出た。そのまま医務室の扉を開けて外へ出る。通路を半ば駆けるような速足で病室へと向かった。
挫滅症候群。
主に壊死部の筋肉蛋白の崩壊による有毒物質が原因の急性自家中毒である。長時間締め付けられていた血流が急激に再開すると、その流れに乗って壊死細胞から流れ出た有毒物質が体中に逆流する。発生直後は症状が出ないので見逃されることが多いが、その有毒物質は確実に脳や心臓、臓器を蝕んでゆく。大抵は四、五日。長ければ七日から十日後に急激に症状が悪化して死に至る。
何故、気がつかなかったのだろう。
四肢の切断手術をする際、出血が少なくなるよう止血帯で付近の大きな血管を締め付けることは通常の処置だ。
しかも今回は壊死した四肢の切断手術だった。
元々挫滅症候群の因子は多分にあった筈なのだ。それに加えて止血帯による過剰な締め付けが重なれば発生する可能性は高い。
今回の直接の原因が、元の病巣の壊死細胞が残っていて逆流したのか、それとも止血帯の圧迫により新たな壊死細胞が発生したのかはまだか判らないが、いずれにせよ大差はない。
シレネの顔がちらりと浮かんだが、頭を振ってそれを追い出す。
病室に入ると透析の準備は整っていた。中に居るのはアオイひとりだ。診療室のほとんどの人間は、この病室に居るのがワイ族の患者であることを知らされていない。夜回りの担当者も、夜間の薄暗い灯りの中で寝ている姿を見ただけではワイ族だと気がつかないだろう。透析の装置も、おそらく入口で機器を受け取ってアオイが設置したに違いない。
「これから透析を行う。こちらへ来て一緒に確認してくれ」
「はい」
透析のための二本の針は、有毒物質の出元であると推定される左腕に差し込まれた。そのうち一本を通してポンプで吸い上げられた血液は、透析膜を通して有毒物質とそれ以外に分離され、綺麗になった血液がもう一本の針を通して体内へと戻される仕組みだ。
それだけの処置ではあったが、終えたアオイの顔には色濃い疲労が滲んでいた。これまでの数日間を、アオイも悔いているのだろう。カリンには掛ける言葉が無かった。アオイのせいではない、そう言っても無駄だろう。
「……間に合うことを祈るしかないな」
「はい……」
「父上は何と?」
「報告は聞いた。この後の処置はアオイ様とわたくしにお任せになると」
「そうか」
「驚いた顔すらなさいませんでした」
ふ、とアオイが笑いを漏らす。
「さすがだな」
「心中は計りかねますが」
「だからだよ。いちいち動揺を見せない。父上が何かを外に出す時にはご自分の中で解決方法を見つけた後だ」
アオイはそう言ってから気がついたようにカリンに椅子に座るよう勧め、自分も腰を下ろした。
「この患者が助かっても助からなくても、父上はこの件の決着方法を考えていらっしゃるだろう」
「そうかもしれません。ですが、助かった方が良いとは思っていらっしゃるのではないでしょうか」
「それはそうだろう。……私は……患者を助けることだけで精いっぱいだ。その余裕の無さが、時折判断を誤らせるのではないかと危惧している」
「そんなことは……」
言いながらカリンはアオイの言っていることがよく理解できた。目の前の事象だけに目を向けていると、時に見落とすものがある。
アオイは、血液の流れる二本の管をじっと見詰めていた。
有毒物質に侵された血液と綺麗になって体内に戻る血液。それらは人の目には共に真紅に見え、一見区別がつかない。
「……初日に血液検査をした」
アオイが呟くように言い、カリンははっとした。
「あの時、血中の麻酔の濃度だけでなく、もう少し細かい分析をしていたら気づくことができたかもしれない」
カリンが何か言う前にアオイは自ら、「しかし今更それを言ってもどうしようもない」と付け加えた。カリンは堪らない気持ちになる。
「わたくしも、気づけませんでした」
「お前は……」
「元々の原因が壊死による切断手術でした。それを聞いただけで、可能性だけは思い浮かべられた筈。……でも、それも今更言っても仕方がありません」
「……今朝早々に気がついてくれて助かった。間に合うことを祈ろう」
アオイはそう言って優しく微笑んだ。
透析には時間がかかる。体中の血液を綺麗に入れ替えるには八時限程を要するだろう。初期の壊死だけが原因ならばそれで終わる。
血中の有毒物質の影響で意識が混濁していたならば、それで患者の目が覚める可能性は十分あった。
問題なのは、血液中に流れ込んだ有毒物質のせいで、他の臓器が二次的壊死を起こしていた場合である。その場合は場所を特定し、必要に応じて壊死した箇所を取り除かなければならない。
透析が一巡して暫く時間を置いてから血液検査をし、血中に有害物質が再度発生していないかを経過観察する必要があった。
当分、マカニへは帰れない。
今この状況で、患者とアオイを置いてマカニへ帰るなど、カリンにはとてもできそうになかった。
透析の装置に目を遣ると、有毒物質が落ちる箇所に廃液が溜まり始めていた。しかしこれだけではまだ挫滅症候群であることは証明できない。何故ならば、健康体の人間でもある程度の有毒物質を血中に含んでいるからだ。通常はそれは腎臓でろ過される。
昨晩から内臓の数値に影響が出始めたということは、この腎臓の機能が過剰な有毒物質を処理できなくなったということだろう。最初に影響を受けるとしたら腎臓か……。
「過剰な麻酔薬で内臓が壊死する可能性はあるのか?」
同じく透析の装置を眺めていたアオイが尋ねた。
「可能性が全く無いとは言い切れませんが、限りなく低い筈です。当然そうならない容量を検証しています」
「ということは、やはり最初の病巣か、あるいは止血帯が根源である可能性が高いということだな」
「はい」
「症状が進むのが遅かったのは、術後の抗菌薬投与と大量の輸液投与により血液中の有毒物質の濃度が比較的低く抑えられていたからだろう」
「はい」
アオイは細く長い溜息を吐いた。
「アオイ様」
「何だ」
「透析が終わるまで時間があります。アオイ様は透析が終わった後も色々とやらなければならないことがあるかも知れません。今のうちに少しお休みになってはいかがでしょうか」
「……休めると思うか?」
「休めるうちに休むのも仕事のうちです」
「返す言葉も無いな。しかし……」
「わたくしに良い考えがあります」
これをやるのは随分久しぶりだった。
カリンは病室の扉をそっと閉めながら思う。まさかアオイに対して使う日が来るとは思わなかった。
これから数日が大切であることを説明して、ワイの患者の隣の病室をアオイとカリンが交代で休むための部屋として使わせてもらうことにした。
その上でカリンは久しぶりに「魔法」を使った。
香油を使って相手を眠らせる、子供の頃からの得意技だ。
いつも感じることだが、これをやった後には自分自身の心も満たされているように思う。相手の安らかな寝顔を目にするからだろうか。それとも、自らも香油の香を感じて森の主の広場を思い出すことで、穏やかな気持ちになれるからだろうか。
自分自身に試した際には、一度も眠ることはできなかったけれど。
夕方アオイと交代したら、一度家へ戻ってヨシュアと話をしなければならない。その時に湯だけでも浴びて来ようかな、とぼんやり思う。
レンの検査結果は出ただろうか。
意識は戻ったのだろうか。
時間がある分、マカニへと思考が巡る。
国の問題にせよ医療にせよ、自分の手に余ることが多すぎる。自分の小ささを感じた。
これから自分は何をすべきなのだろう。
予知夢と闘っていた頃とは違う、明確な目標の無い今に、カリンはいい知れぬ心細さを感じていた。
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