大江健三郎の小説よりもおもしろい、『大江健三郎全小説全解説』。
純文学の巨匠、大江健三郎!
日本で2人目の「ノーベル文学賞受賞者」大江健三郎。
クイズ1:日本で最初にノーベル文学賞を受賞したのは誰ですか?そしてその人の、受賞理由となった代表作は?。<答えは、文末に>
大江さんの、文学者としての名声は、非常に高い。文学に関心のある人なら、100%知っているでしょう。彼の小説を、何作かは読んでいるはず。
昭和の頃は、本屋に行くと、文庫本の棚に著作がズラーッと並び、他の小説家とは違う、独特の存在感を放っていたものです。

講談社が、「大江健三郎全小説」を刊行する際におこなったアンケートによると、大江さんの人気小説ベストテンは、以下の通り。
1位(50票) 万延元年のフットボール
2位(27票) 個人的な体験
2位(27票) 芽むしり仔撃ち
4位(26票) 新しい人よ眼ざめよ
5位(25票) 飼育
6位(19票) 懐かしい年への手紙
7位(18票) 同時代ゲーム
8位(17票) 洪水はわが魂に及び
9位(16票) 奇妙な仕事
10位(15票) セヴンティーン
クイズ2:大江健三郎の長編小説『個人的な体験』の主人公の名前は、次のうち、どれでしょう? 1)大木勇魚(おおきいなさ)、2)根所蜜三郎(ねどころみつさぶろう)、3)鳥(バード)
どうでしょうか。昭和生まれの(そうじゃなくても)、文学にある程度親しんだ人にとっては、見ていてムズムズ・ゾワゾワしてくるリストでしょう。
ちなみに最上位の2作品は、「ノーベル文学賞」の受賞理由となりました。*これらに『M/Tと森のフシギの物語』『懐かしき年への手紙』を加えた4作品。
でも、平成以降に生まれた人たちにとっては、縁遠い存在かもしれません。日本の純文学作家で、知名度ナンバー1は、今は、圧倒的に村上春樹さんでしょう。
これも昭和の話ですが、村上さんとデビューが同時期の人で、村上龍さんという人がいました。
<クイズ2:村上龍さんのデビュー作であり、芥川賞を受賞し、国民に衝撃を与え、大ベストセラーになった小説は?>
同じ村上姓なので、並べて論評され、メディアにも登場し、対談集も出しています。でも、村上龍さんの方は、尻すぼみで、文学的にはほぼ消滅しているような状態。一時期、龍さんはバブル期とも重なって、イケイケで、ブイブイ言わせていたんですがね。消費世界を得意げに泳ぐと、こういう結果になります。大きな文才を持っていた人なだけに、残念です。
難解で、悪文の「大江小説」に立ち向かう
さて、大江さん。大江作品の文学における重要度は高いのですが、その小説を実際に読んでみて、楽しいのかというと・・どうでしょう。
内容は難解で、文章も「悪文」と言われるくらい、翻訳調で、意味も入り組んでいる。読んだけれど、”あれはなんだったのか”という読後感を持っている方も多くいるはず。
例えば、こんな文章です。
「わたしはKとその情人の親切な配慮にまんまとのって性的な禁圧状態からの奇妙な解放をえることになったのであるがこの体験にはわたしの内部のマゾイスティクな傾向のわたし自身による生れてはじめての発見という余興までついて24歳にもなれば自分の内部に新しい発見をしたりすることは決してないと信じていたわたしに神の摂理の不可解な奥のかすかな明るみをかいま見させてくれたわけだ・・
それにしてもこの世には思いわずらうことはなく心配事も困難もなくたいていのことは死ぬか生きるかの苦しみとは縁がなくてなにごとも本当には重大でなく誰も重大なことだとなにごとについても考えず現実世界を上機嫌で生きているのだ、苦しむといえば金を払った娼婦と寝ることができない男の心におもいだされる死ぬばかり苦しみて、祈り給うこと愈々切にであり、それくらいのことにすぎないのだ・・」
ほとんど読点のない文章が、改行なしで、最後まで続く。これを「ドライブ感があって最高」とするか、「全然ムリー」となるか、読む人を選びます。
でもこの頃の大江作品に大きな衝撃を受けて、文学に目覚め、日本を代表する作家にまで成長した人がいます。その人、阿部和重さんは、noterでもあり、テキストにこう書いています。
わたしは二〇くらいの歳になるまで、時間の無駄だと思い漫画をのぞく本をろくに読んでこなかった。読みとおしたことのある純文学など、デヴィッド・ボウイの影響で手にとった三島由紀夫の数作だけだ。
大江健三郎がすべてを変えた。無知蒙昧な映画専門学校生に大江はとんでもない錯覚をあたえ、ただちに頭を入れかえろとけしかけてきた。初期の一短篇があればじゅうぶんだった。学校で出あった刺激的な友人に勧められ、短篇集『空の怪物アグイー』を町田の有隣堂で購入し、文庫本のいちばん目に収録された「不満足」を読んだことが決定打となった。のめりこまずにはいられないというほどの読書体験を持つ人間からすればきっとめずらしい話ではないはずだが、ここにはおれのことが書かれていると思ってしまったのだ。
「誰に、いつ、どの作品で、やられるか」。
これで、その人の文学体験は決定されてしまう。
阿部さんは、大江さんだったんですね。
大江世界に入っていくための水先案内人
そこで尾崎真理子さんの登場となる。
大江作品は、難解で、読んだとしても、”あの小説は・・・俺が今まで読んできたものは、なんだったのか。作者は、いったい、何を言いたかったのだろう”となることが多い。
尾崎さんは、そういう大江作品を理解するための最良の道先案内人になる。
講談社が、2018年7月から刊行を開始した「大江健三郎全小説」(全15巻)。「同系列の作品群を年代順に収録」するという方針で編まれ、巻末には、解説があり、尾崎さんがすべてを執筆した。

尾崎さんは、「深海の底にいるような重圧を感じ」たと書いているが、収録された大江作品を何度も読み、見事な包丁さばきで、分析を行っている。読者が置いてきぼりにならないように、各作品のあらすじも記してある。
読者は、彼女の解説に沿って読み進み、各小説の執筆動機や、そこで作者が言いたかったことを、”そういうことだったのか”と理解する。これがバカおもしろい。そんな風にして、もう一度、大江世界に入っていく。
私は第5巻をブックオフで見つけ、立ち読みした時、彼女が解説で、4つの小説(『空の怪物アグイー』『個人的な体験』『ピンチランナー調書』『洪水はわが魂に及び』)を、同一軸上に並べて論じているのを読んだ。それは鮮やかな補助線で切り出された、新しい大江小説像で、目を見開いて文章を追った。”この解説を読むために、この第5巻を買おうか、どうしようか・・”と悩んだ。
悩んだのは、ブックオフでもその本が、5000円近くしていたから。その出費は大きかった。結局私は、本を棚にもどして、”いつか尾崎さんの解説だけが1冊の本にまとまることがあったら、必ず読もう”と思った。
その願いは2020年に実現し、尾崎真理子著『大江健三郎全小説全解説』が刊行された。ブックデザインは、『大江健三郎全小説』と同じく、鈴木成一デザイン室が担当してくれて、素晴らしい仕上がりになっている。

各巻の解説は20ページから36ページあり、それが15巻分あるので、本文は400ページほど。巻末に、年譜、参照文献、著書目録、索引が100ページ付いていて、全体として500ページを超える。
大江健三郎の小説を読もうとする時は、ある種の気合いが必要だが、尾崎さんのこの本も、簡単に”読もう”という気にはなれなかった。
noteで、「東京」に関するテキストを書いて、その時に大江さんの『遅れてきた青年』の文章を引用した。それがきっかけとなって、この本を入手、読み始めた。尾崎さんに足元を照らし出してもらいながら、大江世界という暗い夜道を歩いていく。それは何冊も大江作品を読んできた自分でも、いや、だからこそなのか、とても新鮮だ。
章を追うごとに、大江さんがつむいできた小説世界の軸が浮かび上がり、モヤのように広がっていた大江小説の世界が、ゆるゆるとほぐされて、消化しやすいものになる。
また、かなり優秀な批評家や、文学好きでない限り、大江さんの小説を読みながら、それが彼の文学世界の中でどういう位置付けで、関連事項にはどんなことがあるのかといった全体図や、周辺事項までを、頭に思い浮かべるのは難しい。ほとんど不可能だろう。ページに書かれている文章を追っていくので精一杯。
しかし『全小説全解説』だと、尾崎さんの周到な読み込みと、周辺事項の整理があるので、”その作品が、どのような意味を作家の中で持っていたのか”までがわかる。これは読書の収穫として大きい。
若い頃、文庫本や単行本を、何冊も読んだ大江体験。その後、彼の小説が理屈っぽくなって、彼の読者ではなくなってからの数十年。そのふたつの自分のどちらにも語りかけてくれる、尾崎さんのしなやかで明快な文章。
それを読んでいく。
「懐かしい自分への手紙」のように感じながら。
【クイズの答え】クイズ1: 川端康成。代表作は『雪国』。 クイズ2: 3)鳥(バード)。(1は『洪水はわが魂に及び』の主人公、2は『万延元年のフットボール』の主人公) クイズ3(村上龍): 『限りなく透明に近いブルー』
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