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政治講座ⅴ2820「分割統治による支配の失敗が醸し出す現代の政治と捏造歴史と済州島虐殺事件」

 争いの火種を残し、時にはその火種を焚きつけて、両者を仲良くしないようにして統治したのが古今東西の征服者の手法であった。
 そのような分割統治の支配は今も見方を変えると残っている。
 日本の国土の竹島を韓国の軍隊が不法占拠しているのも米国統治の日本・韓国の分割統治の一環であると思える節がある。
 これは李承晩政権の横暴を黙認した米国の失策でもあると言える。
 韓国の学校教育で「韓国は戦勝国」と教えている。
1941年に大韓民国臨時政府が日本に宣戦布告をして、 戦争状態に突入、1945年の日本の無条件降伏で戦勝国に なったと教えている
 本当に連合軍側の戦勝国なら、サンフランシスコ講和条約に 署名しているはずです。朝鮮の署名は無い、当然である。  韓国は、国際的には「勝敗に関係の無い第三者国」と認識されている。
 韓国人は、わい曲された教育の犠牲者です。 反日教育などは猛烈なんですが、 韓国の高校生の69%が朝鮮戦争が韓国の侵攻で始まったと答え、 韓国の中高生の53%が朝鮮戦争が1950年に始まったことを 知らない。 実際は北朝鮮の侵攻で始まったのにその事実を教えていない。 韓国は、国の根幹にかかわるような大事を教えずに、虚構だけを 教える国です。韓国人がこういう教育を受けて育ったことを、 日本人は認識する必要がある。李承晩は日本では犯罪者であった。
 李承晩がマッカーサーに韓国を戦勝国に入れてくれと嘆願した話は有名である。それで拒絶された李承晩は腹いせに「李承晩ライン」という勝手な線引きをして未だ韓国が竹島を不法占拠しているのである。米国がソ連との冷戦に突入している時期でもあり、米国は竹島は日本領であることは認識しながら、日本と韓国と多少の争いがあった方が、分割統治による支配方法として黙認していると歴史を認識するのはだとうであろう。
 今回はそのような報道記事を紹介する。
蛇足:大韓民国の初代大統領であった李承晩は、譲寧大君の子孫であることを誇り、現実的には王政復古を怖れ、嫡流の李垠に敵対的であった。李方子は、梨本宮守正王と伊都子妃の第1王女子として生まれ、梨本宮家第1王女王としての地位を持ちました。彼女は、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補の一人として名前が取り沙汰されましたが、最終的には李王世子(当時)である李垠と結婚しました。韓国独立のときに李氏朝鮮時代の後継者の李垠に明け渡さずに、権力を独占するためにマッカーサーに取り入り、何処の国からも承認されない「大韓民国臨時政府」(中国で設立した)の指導者を名乗り自らが韓国の大統領に成った醜い権力の亡者である。そして韓国の建国に努力した韓国人も親日罪として粛清していった。そして竹島の付近の日本の漁民を虐殺した非道な人間であることは歴史が証明している。そして、それは、李承晩の非道な弾圧は「済州島四・三事件」で判明されている。米国の韓国における統治の失敗は李承晩から始まったのである。韓国は世界中が知る歴史と違う捏造歴史教育に奮闘中なのである。悲しいね!捏造歴史を教えられる中国みたいである。

     皇紀2686年2月23日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

 報道記事紹介

一部記事の「独島」を「竹島」を訂正している。

日本の外務省が13年連続で「独島(竹島)は日本領土」の妄言…韓国「直ちに撤回せよ」


▲イラスト=UTOIMAGE

 【TV朝鮮】(アンカー)

 日本は韓国を重要な隣国としていますが、独島竹島領有権の主張は変えていません。日本の外務省による妄言は13年連続で続いており、虚言は無視した方が良いようにも思えます。韓国政府は直ちに撤回を求めるなど強く抗議しました。イム・ソイン記者がお伝えします。

 (記者リポート)

 日本で新しい内閣発足後に行われた最初の施政方針演説で高市早苗首相は韓日関係のさらなる強化に言及しました。

 高市早苗/日本首相

 「現下の戦略環境の下で重要性が高まっている中、首脳間の信頼関係を基礎とした率直な意見交換を通じて…」

 茂木外務大臣も韓国について「重要な隣国」として「未来志向で、安定的に発展させていく」と述べましたが、独島竹島領有権の主張は今回も変えませんでした。

茂木敏充/日本の外務大臣

 「竹島については、歴史的事実に照らしても、かつ、国際法上も日本固有の領土であるとの基本的な立場に基づき、毅然と対応してまいります」

 岸田文雄元首相が(外相時代に)独島竹島領有権を主張して以来、外務省による独島妄言は13年連続で続いています。

 韓国外交部(省に相当)は松尾裕敬・駐韓日本大使館総括公使を直ちに呼んで抗議しました。

 外交部は「不当な領有権主張を直ちに撤回せよ」「独島に対する不当な主張を繰り返すことは未来志向的な韓日関係構築にいかなるプラスにもならないだろう」と指摘しました。

 日本政府は今月22日に島根県で開催される「竹島の日」記念式典に閣僚ではなく例年通り政務官を派遣することにしました。

 共同通信は「日本政府は韓日関係改善の流れが続いている点を意識したようだ」と分析しています。TV朝鮮、イム・ソインがお伝えしました。(2026年2月20日放送 TV朝鮮『ニュース9』より)

分割統治

古代ローマがイタリア半島の被征服都市を統治した方式。他にもイギリスのインド統治などでも見られた。

 ローマ半島統一戦争で服属させたイタリア半島内の都市に対し、一律に支配するのではなく、与える自治権、市民権の程度によって、植民市自治市同盟市の三種類に分けて支配し、さらに都市間の関係を認めず個別支配をした統治形態を分割統治という。

都市間に格差を設ける

 ローマ市民権はギリシアの市民権と違って、ローマの征服地にも拡大されていったが、その付与に当たって格差が設けられた。都市間に格差を設けたのは、共通の利害をもたせないための工夫であり、「分割して統治せよ」というい考えに基づいていた。三種類の都市の市民権・自治権の格差は次のようにまとめることが出来る。

  • 植民市(コロニア):市民権はローマ人と同等に認められたが、自治権は認められなかった。ローマ市民のみが入植したローマ市民植民市とラテン諸都市出身者の入植したラテン植民市とに区分される。

  • 自治市(ムニキピウム):ローマに併合されて自治権を認められた。市民権は民法面が認められる(上層市民のみ)。外交・軍事・裁判を除き自治権を認められた。ただし「完全な市民権」を与えられた自治市と、「投票権のない市民権」を与えられた自治市に区分される。

  • 同盟市(ソキイ):市民権、自治権のいずれも認められず、ローマの同盟都市のままとされた都市。理論的には独立国だが、領土の一部を割譲され、独立した対外政策を持つことができず、ローマ軍を補助するための兵力供出を義務づけられた。

都市間の関係は認めない

 また、服属都市はそれぞれローマとの個別の条約を締結して政治関係を持つことのみが認められ、都市相互間の関係は一切許されなかった。

帝国主義時代の植民地経営にも影響

 この分割統治という統治方法は、広大な領土を持つ帝国においてたびたび用いられた。また後にはイギリスは植民地インド統治において分割統治によって現地人の反植民地運動の一本化を阻害しようとした。

イギリスのインド統治での分割統治

イギリスが古代ローマに倣って植民地インドの統治に適用した政策。民族間、宗教間、カースト間の対立を利用した。

 分割統治は、古代のローマが地中海世界を支配した際、征服した都市に対して個別に同盟関係を結んで、横に連携してローマに対抗出来ないようにした統治法を言うが、この場合はイギリスのインド植民地支配において、主としてヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、個別に対応することによって独立運動を妨害しようとした政策のことをいう。それ以外にも藩王国間の対立や、カースト間の対立をあおることも分割統治の内容であった。

藩王国間の分割統治

 イギリスは武力でインド植民地化を進めたが、1857年のインド大反乱はヒンドゥー教徒とムスリムが共にイギリスに反抗して起こったものだった。その反乱を鎮圧したイギリスは直接支配下地域以外では藩王国の自治を認めて個別の協定を結んで分割統治を進めた。

コミュナリズム

 インド固有の宗教ヒンドゥー教に対して、外来の宗教イスラーム教が征服者の宗教として入ってきたことから、インドでは一貫して宗教対立が続いていたと考えられがちであるが、ムガル帝国の17世紀までは融和策もあって、村落社会内部では多数をしめるヒンドゥー教徒と少数者であるイスラーム教徒(ムスリム)は共存していた。インドにおけるヒンドゥーとイスラームの対立コミュナリズム問題という)が深刻になっていくのは、むしろイギリスが宗教対立をあおった結果と見ることもできる。

宗教による分割統治

 ムガル帝国滅亡によって、それまで支配者であったムスリムは単なる少数派に転落したとき、イギリスは多数派であるヒンドゥー教徒を優遇し、その力を利用しようとした。1885年にヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の形成を促したのがそれである。しかしインド内部で反英運動が起こってくると、その力をそぐために、今度は1905年ベンガル分割令を策定、ベンガル地方をヒンドゥー教の多い地域とムスリムの多い地域に分割しようとした。この政策に分割統治の典型が見られる。

(引用)イギリスはまず対立したムガル王朝のイスラーム勢力を退けるために、住民を宗教別にヒンドゥー教とイスラーム教徒に二分する。さらに、ヒンドゥー教徒については、職能集団を特徴とするカーストごとに分けて統治を試みる。そのときカースト的慣習がみられない人々については、「トライブ」(部族)としてカースト外の別集団に分類した。イギリスは各集団を法的にカテゴライズし、その一部に優遇措置をとるようにもなった。1909年のモーリー=ミントー改革はその代表例である。これはイギリスのインド大臣モーリーとインド総督ミントーによる政治改革で、インド人の限定的な政治参加を認める内容だった。この改革で特に注目されたのは、別個な政治的利害を持つ集団としてイスラーム教徒に分離選挙制度を導入したことである。<鈴木 真弥『カーストとは何か-インド「不可触民」の実像』2024 中公新書 p.43>

カーストによる分割統治

 イギリスの分割支配の中には、インド人社会のカースト制度およびカーストとアウト=カーストである不可触民の対立を利用する側面もあった。例えば、インドの地方自治を認めたインド統治法でも、不可触民に対してその権利を守るという口実で議席を事前に割り振るという分離選挙制を導入し、その差別を固定化しようとした。イギリスは1930年代の英印円卓会議でこの策を提唱し、不可触民の代表アンベードカルは賛成したが、ガンディーはインドの統一ある独立を害するものと強く反発した。

軍隊における分割統治

 インド大反乱に際して、シパーヒーの反乱を鎮圧するために動員されたのは、パンジャーブ地方のシク教から成るシク兵であった。また、インド大反乱以前の東インド会社軍にはインド人兵士約12~13万に対し、イギリス人兵士は約3万にすぎなかったが、反乱後のインド軍はイギリス人兵士を6~7万に倍増するとともに、インド人兵士の各部隊をいろいろな地方の出身者からなる混成部隊として、結集する力を弱めている。20世紀の帝国主義段階となり、インド周辺での軍事的緊張が高まると、それまでの軍隊制度が手直しされ、「戦争種族起用論」が導入された。それは北西辺境州のパシュトゥーン人(イギリス人はパターン人と呼んだ)、パンジャーブのシク、ネパールのグルカが大量に募集された。こうして特定の少数民族、宗教集団、カースト集団が植民地軍隊の構成単位となり、これがイギリスのインド支配の支柱となるとともに、アフガニスタン、チベット、ビルマなどへの遠征軍となった。<小谷汪之・中村平治『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社 p.256,p.272>

分割統治の結果としての分離独立

 さらにそれに対するインド国民会議派の反対運動が強まると、イギリスはムスリムを支援して全インド=ムスリム連盟を結成させた。それ以後、イギリスは両宗派の対立感情を煽りながら、巧妙な分割統治策を進めたのだった。ヒンドゥー教徒であるガンディーは必死にムスリムとの連携と融和をはかったが、特にムスリム側の国民会議主導の統一独立に反発する思想(その代表がジンナー)が次第に台頭し、一本化は困難になっていった。最終的にはイギリスがインドとパキスタンに分離独立させることを条件に独立を認めたため、それまで一体であった「インド」は二つの国家にされてしまった。


分割統治とは、

 ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法であり、分断統治分断工作とも呼ばれる。被支配者同士を争わせ、統治者に矛先が向かうのを避けることができる。
 統治者が被統治者間の人種、言語、階層、宗教、イデオロギー、地理的、経済的利害などに基づく対立、抗争を助長して、後者の連帯性を弱め、自己の支配に有利な条件をつくりだすことを狙いとし、植民地経営などに利用された。

歴史

古代ローマは、支配下に治めた都市相互の連帯を禁じ、都市毎に応じて処遇に格差をつける分割統治によって、征服した都市からの反乱を抑えることに成功した。

 19世紀以降の欧米の植民地経営は、この原理をよく応用した。イギリスはインドで、人種、宗教、地域の差異で分割した集団を互いに反目させることで長期の統治に成功した。
 ミャンマーの少数民族問題長期化も英国の分割統治がビルマ族を抑圧して少数民族を優遇したことに始まる。
 ビアフラ戦争もイギリス植民地時代の分割統治による東部のイボ族と北部のハウサ族との部族対立が最大の原因である。
 ベルギーやドイツは、ルワンダ・ブルンジ(ルワンダ=ウルンディ)においてフツとツチに格差をもうけ、少数派のツチを中間的な支配層とした。これがルワンダ虐殺の遠因となったともいわれる。

上記の用法とは異なる概念だが元々一つの地域を複数の国家が分割して統治することを分割統治とよぶ場合もある。たとえばソマリランドをイギリス、フランス、イタリア、エチオピアの4か国が地域を分割して統治した例など。分割したのち単に併合した場合は分割統治とは通常呼ばない。

一つの地域である前提が維持されたままで異なった複数の国家が地域ごとに統治する場合に呼ばれることがある。上記の用法と違って明確な定義はない。

植民地支配以外でも、アパルトヘイト施政下の南アフリカ共和国においては、当時の白人政権が、非白人が団結して体制へ立ち向かう事を防ぐべく、同じ先住民・アジア系住民の間でも、人種によって異なるグループに区分して、非白人の間で差別や格差が生じる様に仕向ける方針を採った。内容としては、

  • アーリア人種であるインド系住民を、同じアジア系住民でも「カラード」たるケープマレーとは異なる「アジア人」に分類し、事実上の中間支配層として扱う。

  • コイコイ人を、先述したケープマレーとは、双方の間で通婚がある程度進んでいた事のほか、白人であるアフリカーナーと同様にアフリカーンス語を第一言語としている、人口規模が黒人に及んでいない事などを理由に、同じ先住民の黒人より格上の「カラード」に分類する。

というものだった。

韓国初代大統領「李承晩」ってどんな人?不正に弾圧に虐殺って・・・大丈夫ですか?

2020-04-09 2020-04-12


大韓民国初代大統領「李承晩」

大統領就任前

1875年に、李氏朝鮮(現在の朝鮮半島にあった国)の王族の分家の家庭に生まれた。
ミッション・スクールで学んでいたが、1896年に独立協会(1898年まで李氏朝鮮にあった、開化派の運動団体)に参加し、1904年まで投獄されました。
釈放された理由は、日本が大韓帝国(李氏朝鮮のあとにできた国)にたいして、影響力を強めてきていたのをやめさせるために、アメリカに援助を求めようとし、英語が話せた李承晩をアメリカに派遣したためです。

アメリカに渡った李承晩は、大韓帝国政府の思惑通りには動かず、当時の大統領セオドア・ルーズベルトとの面会でも、大韓帝国と皇帝高宗を否定しました。
その後は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学をへて、プリンストン大学で博士号を取得しています。
そしてこの頃に、後の大統領ウッドロウ・ウィルソンに気に入られました。

そして帰国しましたが「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」への関与が疑われてた為、アメリカに戻り、ロビー活動に専念しました。

李承晩は「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」と大韓帝国の独立支援を要請しますが、これは断られます。
1944年にはアメリカの高官に対し米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語ったそうです。

1945年8月に日本が降伏し戦争が終わると、朝鮮半島は38度線を境に、ソ連が支配する北側と、アメリカが支配する南側に、分かれてしまいました。
10月に李承晩は、朝鮮に帰国しました。当時の李承晩は、アメリカ国内で「大統領に就任すべき正当性を備えている」と評価され、マッカーサー連合国軍最高司令官からの支持も得ていました(マッカーサーに李承晩をすすめたのは蒋介石だといわれています)。

李承晩は、日韓併合時代には、ほとんど朝鮮にいなかったので、国内の支持基盤はありませんでした
そんな李承晩を支えたのが、日本統治時代の実業家たちが中心となって結成した組織「韓国民主党(韓民党)」でした。これは反日民族派が政権をとった時に、親日派の粛清がはじまるのを恐れたためです。

このように、政権争いが、親日や反日、右派や左派で分かれ、混沌としていくなかで、1948年の5月10日に、南朝鮮で「初代総選挙」が実施されることが決定しました。
そしてこの総選挙によって、李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された、第一共和国憲法は、議会が大統領を選出すると定めていましたので、李承晩は、議会で多数の支持を得て、初代大統領に就任しました。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援のもと、朝鮮半島南部のみを実効支配する「大韓民国政府樹立」を宣言しました。

大統領就任後

李承晩大統領の大量虐殺

李承晩が大統領に就任する前の、1947年の3月1日に済州島で、南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモをおこなっていた、島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が発生しました。
これに抗議する意味で、島全体でストライキがおこなわれます。それに対して政府側は、右翼青年団体を送り込み「白色テロ(反革命にたいする暴力行為)」で応戦しました。

 そして、1948年の4月3日から南朝鮮の済州島で、南朝鮮労働党(北朝鮮との統一を目指す共産党)は、島民を中心とした武装蜂起(済州島四・三事件)をおこしました。
蜂起当初、アメリカ軍は、警察と右翼グループを動員して鎮圧にあたりましたが、8月の大韓民国成立後は、韓国軍が鎮圧に乗りだしました。

韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返したあとに、惨殺したと言われています。

この「済州島四・三事件」は、1949年の5月までつづいたのですが、李承晩大統領の韓国軍は、2万5千人から3万人ともいわれる島民を虐殺しました。
この虐殺から逃れるために、日本へ多数の移住者(密入国者)が渡ってきたのが、在日朝鮮・韓国人の多数を占めているといわれています。

李承晩政権による、共産主義への弾圧は「朝鮮戦争」の勃発によって加速していきました。
戦争がはじまると、各地に収監されていた共産主義者や、共産主義者リストに登録されていた人物家族を反乱分子とみなし、虐殺が開始されました(保導連盟事件)。
保導連盟事件の被害者数は、60万人から120万人といわれています。

朝鮮戦争

1950年6月25日の早朝に、北朝鮮は宣戦布告なしに、38度線を越えて進軍を開始しました。これによって「朝鮮戦争」が勃発しました。
北朝鮮は、事前にソ連から軍事支援の同意をとりつけ、中国とは話し合いをして、準備万端で奇襲攻撃を仕掛けてきてたので、わずか2日で首都ソウルは陥落しました。

李承晩は、北朝鮮の進撃から逃げるために、6月27日にソウルの南に位置する、水原へ遷都しました。
この時に、北朝鮮軍がソウルより南下してくるのを防ぐために、漢江にかかる橋を住民ごと爆破します(漢江人道橋爆破事件)。
これによって、多くの韓国市民と、韓国軍兵士が取り残されました。そして、この味方をあっさりと切り捨てる行為は、韓国軍兵士の士気を下げてしまいます。
7月2日には、李承晩は釜山にまで逃げていました。しかも釜山の陥落にそなえて、日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようと考え、日本側にGHQを通じて要請をおこないました。

結局は、韓国軍は各地で敗戦を繰り返し、北朝鮮軍の南進は止められませんでした。というのも、北朝鮮軍は戦線が拡大していき、足りなくなった兵士を現地で集めて「人民義勇軍」として組織化していったのです。
この韓国領内での兵の徴集が「南北離散家族問題」の一因となりました。

李承晩は、国内での権力争いや、反対勢力の弾圧ばかりに気を取られ、外交での無策っぷりを明らかにし、7月14日には、大韓民国軍の指揮権を、マッカーサー国連軍司令官に移譲しました。

1950年9月15日に、マッカーサー国連軍司令官のもと「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」と「スレッジハンマー作戦」を決行し、国連軍(アメリカ軍・イギリス軍・韓国軍)として、大規模な反撃に転じ、戦局を一変させることに成功しました。
そして北朝鮮軍を、38度線より北に戻すことに成功します。

戦局優勢の状況をみて李承晩は、9月29日にソウルに帰還し、さっそく親北朝鮮とみなした市民への虐殺をおこないました。
さらに李承晩は、マッカーサーに相談もせずに「北進統一」を掲げ「ただちに軍を率いて北進すべし」という大統領命令をだしました。
マッカーサーも同じような意図をもっていたので、この李承晩の行為はあまり問題視せず、国連軍は北進をつづけていき、10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧しました。

北朝鮮の金日成は、ソ連軍の動員をスターリンに要請しましたが、国連軍との直接対決を回避したいスターリンは、毛沢東に支援を要請するよう促していました。
こうして次は、北朝鮮の支援軍として、中国共産党の人民解放軍が「人民義勇軍」として参戦してきました。

この中国参戦で、マッカーサーは、部下が情報の過小評価をおこなっていたり、自身も現地情報に乏しかったため、中朝軍に戦局を押し戻されました
1951年1月4日には、中朝軍のソウル再占領を許してしまいます。

この結果をうけて李承晩は、アメリカのトルーマン大統領宛てに書簡を送りました。
その書簡の内容は、
「今ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。(中略)マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるでしょう。
というソ連の民間人を、大量殺戮する進言をおこなうものでした。

こうして朝鮮戦争の形勢が、変化していくなかで、釜山に逃亡しつつも李承晩は、国内では野党のスポンサー企業などに預金凍結などをおこない、反対勢力の弱体化に取り組んでいきます。
1952年1月18日には「李承晩ライン」を勝手に宣言し、日本漁船などの拿捕をおこないました。
日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら、韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりしたようです。

1952年に李承晩は、大統領の選挙制度を、国会議員による間接選挙から、国民による直接選挙へと改正することで、自身の再選を確実なものにしようと考え、憲法改正をおこなう改憲案を国会に提出しましたが、野党が多数をしめていた国会で、改憲案は否決されてしまいます
そこで李承晩は、戦時下の釜山に戒厳令をしいて、反対する野党議員を大量検挙させました(釜山政治波動)。
これによって、残った与党議員で改憲案を可決しました。

しかし、この頃からアメリカは、自分たちの強烈な後押しで大統領にした、李承晩の排除を考え始めていたと、いわれています。
そして停戦への準備をはじめました。

1953年、国連主導での休戦案が出始めます。
すると李承晩は「停戦反対、北進統一」休戦は国家的死刑」と主張し、最後まで休戦に反対しましたが、国連は、そんな李承晩の主張は無視して、休戦への道筋をつくり、6月8日には両軍の「捕虜送還協定」が締結されました。
しかし、ここで李承晩は、アメリカに何の予告もせずに、捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令し、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5千人を、北へ送還せずに韓国内で釈放するといった暴挙にでます。そして早期休戦に断固反対し、アメリカを中心とした国連と対立を深めました。

こうした尊大で、身勝手な主張や行動をとりつづける李承晩でしたが、1953年7月27日には渋りながらも、休戦協定に同意しました。しかし、最後の抵抗として、自身では署名せずに、北朝鮮の代表とアメリカ軍中将が署名する、休戦協定となりました。

朝鮮戦争休戦後


反日教育

朝鮮戦争により、国は荒廃しました。そして、市民にたいしておこなわれた、弾圧や虐殺などから、李承晩政権にたいしての不満が高まり、日本統治時代への郷愁が、きこえてくることになりました。

これにたいして李承晩は、1954年10月14日、韓国の学生にたいし、日本帝国主義の侵略性と、その韓国への悪意を教えるよう命令しました。

四捨五入改憲

1954年の韓国の憲法では、大統領の任期は2期までとなっていました。
しかし、権力の座から降りるわけにはいかない(権力を手放すと仕返しされるのがわかっているため)李承晩は「初代大統領に限って3選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出しました。

1954年11月27日の国会投票で、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になりました。
可決には、議会の3分の2である135.33票以上、つまり136票が必要でした。よってわずかに1票届かず、改憲案は否決されるはずだったのです。

しかし、李承晩派の国会議長は「135.33票とは、社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として改憲案の可決を宣言したのです。

大統領3選

そして1956年におこなわれた大統領選挙で、李承晩は、投票の10日前に対立候補だった、申翼煕が急死したため、大統領に就任することになりました。
一方で、同時におこなわれた副大統領選挙では、野党である民主党の張勉が当選します。こうして大統領と副大統領でねじれが生じました。

こうなると、李承晩の身にもしも何かがあれば、副大統領が繰り上げで大統領となるため、危機感を抱いた与党は、1956年9月に「張勉副大統領暗殺未遂事件」をおこし、翌年4月には、張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分させ、政敵の党首の処刑をおこなうなどの粛清を実効しました。

1959年12月4日には、日本政府による、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するため、李承晩政権はひそかに、日本にいる民団所属の在日韓国人と協力し、工作員を送り込んで「新潟日赤センター爆破未遂事件」を引き起こしました。

大統領4選

1960年に李承晩は、4選目を狙います。
そして野党の大統領候補者が、1960年1月に渡米した隙を狙って、李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を、2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定しました。

民主党の大統領候補は、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝してしまったことで、大統領選挙は李承晩の当選が事実上確定しました。
そのため与党の自由党は、副大統領候補の李起鵬を当選させることが最重要課題となりました。

大統領候補を失った民主党は、大統領候補が1名のみの場合は、その得票数が全有権者数の3分の1以上でなければならない、選挙法の規定を利用し、李承晩の得票数を3分の1未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、張勉を大統領候補として、再選挙に持ち込む戦術を展開しました。

この選挙では、与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底されていきました。
なんとしても副大統領の当選を確実にするために、公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行したのです。

存在しない幽霊票や、金銭で買収した有権者に、事前に与党候補者の名前を記入させました。
また、裏切りをなくすためにの方法として、与党支持者はグループで投票に行き、投票所に配置された与党の地域リーダーに、投票用紙の確認をさせたりしました。
開票時には、混乱に乗じてあらかじめ準備した自由党候補票の束を混ぜて入れる、もしくは野党候補票を取り除くといった指示まで出ていました。

1960年3月15日に、こうして実施された選挙で、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が決まりました。

4月革命

こんな選挙に納得できない一部の野党民主党は「選挙放棄」を宣言しました。
これが不正選挙へのデモに発展し、市民も参加した大規模なものへとなっていきます。そしてデモ鎮圧にあたった当局は発砲をおこない、死者をだしていきました。
これに怒った市民や学生は、各地でデモをおこない、当局が鎮圧にのりだすといったことが繰り返されました。

1960年4月20日、マカナギー駐韓アメリカ大使が「民衆の正当な不満に応えないのなら、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒をおこないました。

こうしてアメリカから見放された李承晩は、4月23日に「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をします。
この李承晩の発言に、民衆の怒りは最高潮に達し、デモはさらなる拡大をみせていきました。
そして政府は、非常戒厳令を布告するといった事態に発展しました。

4月26日には、タコプル公園に設置されていた、李承晩の銅像が引き倒され、副大統領の李起鵬の邸宅が襲撃されました。
ここまできやっと、韓国国会は、大統領の即時辞任要求を、全会一致で採択しました。

1960年5月29日の早朝に、李承晩は妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命しました。
韓国で李承晩の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだったということです。

さいごに

こうして書いてきて思うのは、誰一人として優しい人がいないということです。

みんなが利己主義なのでは?
李承晩がメチャクチャで、何の理念も無く、己の保身ばかり(危なくなったら、自国市民、兵士を置き去りにして逃げたり、強者アメリカが助けてくれれば、その力を使って威勢よくなったり)という、どうしようもない人間なのは、そういう人もいるので仕方ないでしょう。

そもそも、そんな人間を大統領にしたのは、アメリカです。過去の大統領と近しい関係を築いていたとこから、自分たち側の人間と判断した責任はあるでしょう。
中東などでもそうですが、アメリカが支援して成立させた政権が、ずっと意のままに操れたことってあるのですか?(ありました、日本です!)

李承晩のスポンサーとなった、日本統治時代の実業家たちも、与党の議員たちも、自分たちの権益だけを守ろうとしすぎでしょ。
あまりの臆病さに、敵をいためつけて、仕返しされたら困るから、さらに痛めつけてって・・・恨みしか買わないでしょ。

国民も動くのが、遅すぎるでしょ!ソウルにいた市民たちは、済州島でおこっていた虐殺をどう思っていたのか?
自分たちは関係ないと思って放っておいたのでしょ(秘密にされてたとか、共産主義のせいにしてたとかいいますが、日本にも大量の済州島民が流れてきているのに、朝鮮本土に情報がいかないなんてありえないでしょ!
どうせ厄介ごとを嫌って目を瞑ったんじゃないでしょうか)。

結局のところ朝鮮には、国民国家を形成していく土台なんて、なかったのではないでしょうか?
ずっと長年どっかの国の支配下にあったので、国家の上の立場に就けば、支配階級として甘い汁が吸えるとでも思っていたのではないでしょうか。
民主主義をなめたらダメですよ!
違う意見を持つものたちが集まって、話し合いで、ものごとを決めていくのがどれだけ大変なことか、分かってなかったんでしょうね。

こんな人間がはじめた反日教育を、いまだにありがたがって信じて、クレームばかりつけてくる、お隣さんって「騒音おばさん」みたいですね。
 これ以上はやめておきます。読んでくれた方、ありがとうございました。

韓国現代史の暗部と反日プロパガンダの起源 — 李承晩時代から続く歴史認識の構造

2026-02-20 17:47:52

韓国現代史、とりわけ李承晩政権期の出来事と歴史教育の問題を通じて、現在の韓国社会の対日認識の背景を考察する論考。
戦後東アジアにおける歴史認識とプロパガンダの構造を検証する。

2019-01-18
虐殺はその後も継続的に行われ、島民は激減した。規模は小さいが、似たような虐殺はその他の地域でも行われた。

今、韓国で起きている事は、これらの事実を知って初めて合点が行くはずである。と題して2018-12-05に発信した章がアメーバの検索数ベスト30に入っている。
李明博大統領の末期の言動に驚き呆れた私が、一体全体、韓国とはどんな国なのだ、と思い、韓国及び朝鮮半島についてネットで検索した…1時間、朝鮮半島の実態が分かった。
朝日新聞の購読者で戦後教育を受けた私には全く分からなかった韓国の実態を初めて知ったのである。
北朝鮮の事は検索しなくても、筆舌に尽くしがたい酷い国である事は誰にでも分かる事だろう。
さっき、これもまた、人類史上最大の図書館であるインターネットの真髄である記事を発見した。
今、韓国で起きている事は、これらの事実を知って初めて合点が行くはずである。
つまり、これらの事実を知らなければ韓国人の事は分からない…それは日本人にとっては極めて危険な事なのである。
私が個人的に命を失いかけた大病に至るほどの悪に遭遇した様に、実は、日本は、ずっと、この悪に遭遇し続けていた…晒され続けていたのである。
日本に対してだけではなく、彼らは米国や国連を主戦場にして、ずっと、彼らの悪を振りまき続けて来たのである。
この労作が明らかにしている真実が、反日プロパガンダの正体なのである。
神の摂理として、文明のターンテーブルが回っている国、米国と並んで、世界をリードして行かなければならない日本に対して…、
朝鮮半島や中国のような「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」の国が、戦後70年、反日教育という名のナチズムを行い続けている事を世界は看過して来た。
その事に対する神様の怒りが、世界を不安定なままにし、紛争の絶えない世界にしているのだと、気づくべき時は、とうに来ているのである。
私が…仕方なしに…文明のターンテーブルを引っ提げて、こうして登場した事は、私は無論、読者の方々にとっても予想も出来ないほどに、日本と世界にとって、実は、とても重要な事だったのである。
以下が発見した記事である。

韓国の歴史教科書を読んでからである
日本人は冷酷非情な「悪魔」として描かれていた。近代日本は朝鮮に対して「殺戮と収奪のみ」をしたことにされていた。

◆なぜ韓国は歴史を書き換えたのか―その動機と背景を考える(後半) 山田高明
韓国の本当の不幸の始まりとなった李承晩時代
さて、話を本筋に戻そう。
日本の敗戦により、総督府からアメリカへと韓国の統治権が引き継がれた。
当初は建国をめぐって諸派がゴタゴタし、ソ連はいち早く傀儡を立てた。
臨時政府と独立軍自体は承認されなかったが、同政府出の李承晩個人はアメリカ留学組であり同国でロビー活動もしていたことから、結局、反共傀儡政権の首班に祭り上げられた。
ただし、「韓国を連合国に加えてほしい」という身勝手な要求は退けられた。戦って血を流したわけでもない者たちがでしゃばる権利などないと考えられたからだ。
だから、韓国人が“戦勝国民”だの“連合国民”だのと自称することは単純に事実に反する。
この人物が初代大統領として独裁権力を握ったことに関しては、同情を禁じえない。
李が帰国してから亡命するまでの期間は「暗黒時代」であり、現代韓国人にその記憶が欠落しているのは異常なことだ。
いろんな意味で、この李承晩こそ諸悪の根源であり彼の時代こそ、まさに韓国の歴史教育で描かれる“日帝”そのままなのだ。
 李承晩が最初にやらかした悪事が「済州島事件」で、要するに共産主義者とその疑いをかけられた島民に対する大虐殺である。
その結果、数万の市民が殺され、別の何万人かが日本に逃れ、そのまま居ついた
 虐殺はその後も継続的に行われ、島民は激減した
規模は小さいが、似たような虐殺はその他の地域でも行われた。
李承晩による対日戦争犯罪といえば、日本領・竹島の侵略強奪と日本人漁民の虐殺が有名だが、実はそれ以前に対馬を侵略しようとした
そのために韓国の南端に兵力を集結させていたところ、北朝鮮の電撃侵攻に合ったのである。
自国民さえ平気で虐殺するほどだから、韓国軍が対馬で大虐殺をやらかしていたことは想像に難くない。

済州島四・三事件の解説

 1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮李承晩政権下の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察など朝鮮半島の李承晩支持派が1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

 李承晩の統治下で1948年8月15日に韓国が独立すると、暴動に対する暴力的な鎮圧が激化した。
 南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、武装蜂起した多くの民間人が死亡した。

 犠牲者は少なくとも約1万4200人、推定では合計2万5000人から3万人が死亡したとされ、一部の情報源は8万人もの死者を出したとしている。
また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという。
一説には、その後の弾圧も合わせ、済州島の島民の5人に1人にあたる6万人が殺害されたともいう。

また、恐怖から住民の日本方面など島外への脱出が続き、島の人口は日本からの独立時点(1945年)の約28万から一時は3万人弱にまで激減した。済州島虐殺事件とも呼ばれる。

背景

事件の現場となった済州島
済州島(1948年9月以降の地図)
洞窟に横たわる犠牲者の遺体(再現)
済州四・三中文面犠牲者慰霊碑(西帰浦市)

 1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。
 この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。
 1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。

 1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。
 この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。

 特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民への弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。

済州島民蜂起と李承晩政権派による弾圧

1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。左派弾圧のために島外から送り込まれた団体の中には、応援の島外の警察官の他、反共青年団体の他、ヤクザ組織や米軍の反共路線により息を吹き返した旧日本軍協力者からなる団体もあったという。彼らは、少しでも怪しいと思った島民を容赦なく連行・投獄・拷問した。3月に入ると、警察に連行された中学生が3人立て続けに死亡する事件が起こり不穏な雰囲気となった。

その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。それまでの1年間で2500人が拘束されたという。武装蜂起では、一説には、左派系指導者に指揮されていたものの、右翼青年団の暴行・強姦等に耐えかねて参加した一般民衆や、逆に何も知らされないまま呼び出されて参加する形になった者もいたと言われる。

済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、現在の在日韓国・朝鮮人の先祖にもこういった者が多く含まれるとされる。済州島では米軍政側は警備隊(朝鮮警備隊。韓国軍の前身)を投入し、蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力は山間部に逃げ込み、そこからゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時に正式発足した)によって継続して行われた。韓国軍と右翼団体員らは、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている。

1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。李承晩は武装隊の指導部が北朝鮮を支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意、1948年10月に「海岸線より5キロ以上の地域に出入りする人々を暴徒と見なし、無条件射殺する」という布告を発し、さらに同年11月には済州島全土に戒厳令を敷いた上で、パルチザンと住民を切り離すため、中山間(山の麓)の村々を焼き払う「焦土化作戦」を展開した。約130の村々が焼き払われたとされる。結果、沿岸部には難民が6万人あふれたともいう。反共団体らは警察・軍の後押しで討伐隊を組織、山間部には単に難を避けるため逃げ込んだ者も多かったのだが、そういった者も殺害の対象とし、さらには、その家族を、沿岸地の難民キャンプや集落住民の中から捜し出して殺害する、あるいは、難民・住民の戸籍等を調べ、その一家が全員揃っていなければ居ない者は山に逃げ込んだ共産主義者であろうとして、その一家全員を虐殺するといったことまで行った。一方、パルチザン側の報復も激しく、後期には疎開地域の住民も討伐隊陣営側とみて無差別攻撃を行ったとされる。

1949年5月に再選挙が成立し、6月には武装蜂起隊総責任者の李徳九が射殺され、蜂起していた武装隊の組織的抵抗はほぼ終了したものの、虐殺は終わらなかった。
1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であるとの情報操作を行った。なお、この虐殺を行った韓国軍連隊長らは、かつて日本統治期に志願兵として満洲で勤務していた経験があり、そういったこともあって、北支等で旧日本軍の下で共産兵の討伐処刑等にかかわっていた旧日本軍元志願兵の士官などが、共産主義者というだけで殺してもよいと思っていたのではないかという見方もある。

1950年に朝鮮戦争が起こると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極めた。その動向を警戒するあまり一般島民も次々に虐殺された。
1954年9月21日の漢拏山禁足地域の全面開放宣布までに2万5千~3万人超、完全に鎮圧された1957年までには5万~8万人の島民が殺害されたとも推測される。(死者数の違いは、期間の取り方の違いだけではなく、推定のしかたの違いによる点も大きいようである。2万5千~3万人超は、個々の被害者の積上げに把握されていない被害推計を加算したものであるが、5万~8万人は島民人口の減少数から自然減や島外脱出による減少を捨象したものと見られる。なお、戦前から済州島のフィールドワークを行っていた文化人類学者の泉靖一は、日韓国交回復の1965年に島を再訪しているが、島の人口の1/4となる約7万人が殺され、山村地帯では村はいったん全て焼かれ、村も住民も入れ替わっていたと述べている。)

また、島外から来た反共団体員らには島に住み着き、島民を脅してそこの娘と結婚する者もいた。女性らは家族を救うために泣く泣く結婚せざるを得なかったという。また、朝鮮戦争中の1950年保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。

四・三事件で海上に投棄された遺骸の一部は連日のように対馬にも漂着、対馬の寺院には日本人によって引き上げられた159体の遺体が安置されている。

1960年李承晩政権が倒れると見直しの動きも一時起こったが、その後クーデタによる軍事政権ができると反共が国是となり此の動きは後退、1980年代以降の民主化の動きの中で単なる左派の武装蜂起とすることに見直しの声が高まり、2000年1月の金大中政権時代に、ようやく「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、この法にもとづいて、済州島4・3事件の真相究明が政府事業として行われることになった。
この法律により公式に設けられた「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復委員会」では1954年9月21日の犠牲者までを対象とし、認定された犠牲者数だけで1万4千人、同委員会は把握しきれていない数まで含めると2万5千人~3万人になるとした。
大阪公立大学の伊地知紀子教授によれば、数の差は、村ごと焼き払われ一家全て亡くなった人や反共暴動とされたこの事件の被害者・遺族を明かすことを避ける人も多いためとする。

43事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を受賞したが、受賞に際しては韓国右翼団体の妨害もあった。

在日韓国人との関係

済州島は歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった。済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ密航し、定住する人々が人口比で他の朝鮮半島の地域よりも特に多かった。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。

弾圧逃避による日本への密入国多発

日本から独立した後、在日朝鮮人(在日韓国人)の3分の2程は帰国した。しかし、四・三事件発生後に虐殺・弾圧が相次いだ為、恐怖から島を脱出する者が続出、再びまたは初めて日本へ密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い
大阪には戦前から済州島と定期船が運航していた。
日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。「済州島4・3事件犠牲者在日遺族会」の会長の康実によれば、済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したともいう。

1948年の済州島虐殺事件(済州島四・三事件)と1950年からの保導連盟事件に連動した大弾圧の結果、「弾圧から逃れるための日本への密入国も含めた島外脱出の多発」と「島民の5人に1人にあたる6万人殺害」との2つの理由で、済州島は人口が日本からの独立時点(約28万人)との比較で9分の1(3万人弱)となる「地獄」となったというのである。

木村光彦(青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる。

野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている。

現在の韓国政府及び韓国社会の対応

長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。

真相究明がともあれ本格的に進み始めたのは20世紀末以降とされる。2000年に金大中政権のもとで4.3真相究明特別法が制定され、事件に関する自由な発言が認められるとともに遺族・犠牲者への不利益扱いが禁止され、4.3委員会が設置された。
 21世紀になって、2003年2月25日に韓国大統領に就任した盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、事件当時の李大統領ら国家責任を指摘する報告書が出されると、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪し、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに事件の真相解明を宣言した。

事件から逃れて日本に渡った済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めた。

その後の保守派の李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)の時代には、2008年に「四・三平和公園」が完成、2014年には4月3日が犠牲者追悼の国家記念日に指定されたものの、進展はさほど見られなかった。むしろ2010年以後は中国観光客の増加と中国人による済州島不動産買い占め懸念が問題化し、過去の事件は忘れられつつあった。

2017年5月10日に大統領に就任した文在寅は、就任後初めての4・3事件犠牲者追念日である2018年4月3日の追悼式に2006年の盧武鉉以来、大統領として12年ぶりに出席した。

文在寅大統領は追念辞で「私は今日、その(金大中政権と盧武鉉政権の取り組みの)土台の上に4.3の完全な解決を目指し揺らぎなく進むことを約束します。これ以上4.3の真相究明と名誉回復が中断したり、後退することは無いでしょう。それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし犠牲となった方たちの怒りを解き名誉を回復するようにします。
このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう最後まで続けて行きます。遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための政府としての措置に最善を尽くす反面、賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議いたします。」と事件の完全解決に意欲を示した。

文在寅はまた、「未だに4.3の真実を無視する人々がいます。未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。不幸な歴史を直視することは国と国のあいだでだけ必要なことではありません。私たち自らも4.3を直視できなければなりません。古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。」「恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。」と強調した。

2019年1月、事件当時に内乱罪などで軍法会議にかけられ、全国の刑務所に分散収監された元受刑者18人が申請した再審裁判で、済州市済州地裁は、彼らが犯罪事実が何かを具体的に明示しないまま軍法会議にかけられたことで「公訴事実の不特定」と「軍法会議への付託手続きの未順守」を理由として、公訴棄却の判決を下し、検察もこれを不服とせず、確定した。また、分散収監された者の中には朝鮮戦争の混乱の中で行方不明となった者も多く、その家族らが死亡を前提に過去最大規模の再審請求訴訟を起こしており、これはさらに、別の行方不明者家族による再審請求訴訟につながる可能性があるという。

事件から71年目となる2019年3月4日、軍と警察が初めて公式に謝罪の意を表明した。

2021年、犠牲者救済のため『済州島四・三事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法』が成立する。

2022年、犠牲者1人あたり9000万ウォンの補償金の支払いを開始。事件発生から救済まで74年の時間がかかった。

近年に至ってもあらたな遺骨が見つかることがあり、遺伝子分析による身元の特定作業が済州4・3平和財団によって続けられている。特別法の改正により遺族の聞き取り調査が始まり、日本では、30年にわたって現地済州島での証言収集を行っていた伊地知教授が立命館大名誉教授の文京洙とともにこれに協力、大阪在住の被害者・遺族50人の証言を2年かけて収集、2024年10月に報告書を財団に提出した。
対馬では今では毎年秋に慰霊祭が行われ、2007年には供養塔が建てられた。大阪では2018年に統国寺に慰霊碑が建てられ、事件時の済州島の村数にちなんで178の石が並べられている。

『少年が来る』で韓国民主化闘争の中での光州事件を扱ったことで知られる韓江は、四・三事件も小説『別れを告げない』で扱っており、彼女の2024年のノーベル文学賞受賞にともない、この事件もあらためて注目を集めている。

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