エッセイ : 『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)について
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が好きではない。というか、嫌いである。
村上春樹が『ギャツビー』をよくエッセイで推していて、小説の登場人物たちにも絶賛させているので、そんなに凄い小説なのかと思い、ワクワクして読んだのだけど、全然面白くなかった。ちなみに、村上訳のを読んだ。
数年後、もう一度通しで挑戦してみた(同じく村上訳を)。自分の読み方が悪かったのではないか、と思ったのだ。あるいは今の感性ならば面白く感じるのではないか、という淡い期待もあった。
それで、読んでみたけれど、やっぱり面白くなかった。
さらに二度目は不快感まで、自分のなかで催されてしまった。
理由は、登場人物のギャツビーである。私はギャツビーのことが嫌いなのだった。
どうして嫌いなのかといえば、自分を見ているみたいで不愉快だったのだ。ようするに、ギャツビーは私のシャドウなのだ。
ちなみに、語り手のニックのことは割と好きである。村上春樹の主人公のように、いい意味でドライで好感を抱ける。トムは苦手だけれども、ニック同様こざっぱりとしていて、そのあたりはやはり好感が持てる。
デイジーのことは嫌いである。なんでなのかはよくわからない。やはり、ギャツビー同様、自分のなかの何かを投影しているのだろうか? それは私のなかのアニマ(女性性)の影だったりするのだろうか……
ギャツビーを私が嫌う理由は、先にも述べた通り、私自身を見ているみたいだからなのだけれど、要するに私は自己肯定ができていないのである。私は自分のことがあまり好きではないのだ。だから、別にギャツビーは悪くはない。単に彼は、私を映し出す鏡なのだ。自分の顔が不快だからといって、鏡に当たるのは間違っている。
ギャツビーのどこが嫌なのかといえば、一途なところである。ギャツビーはデイジー一筋なのだ。どうして一人の女性にそこまで入れ込むのかと思うくらいに……。呆れるほどにである。
その後、私自身がギャツビーみたくなるのだから、人生とはわからないものである。
その体験によって、私のなかの側面が炙り出されることになったのだろう。ギャツビー的な側面が浮き彫りになったのだ。それは何かしらの理由で抑圧されていたのだ――。私は、私のなかにある、認めたくない側面を自覚するほかなくなったのだ。
『ギャツビー』を私が嫌う、もう一つの理由は、その筋書きである。
同書は、確かに美しい物語ではあるけれども、その内容が私にとっては呪いのように作用していたりもするのだった。
あまりにも、ギャツビーは報われないのである。それが物語にある種の美しさを付与してはいるのだけれども――
あるいは村上春樹にとっても、『ギャツビー』は呪いなのではないだろうか? 本人がそのことについて言及したことは一度もないのだけれども……

