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Rainbow⑥【note創作大賞2024/オールカテゴリ部門】

第6章 渇望
 白保海岸に、朝陽が昇り水平線から光が溢れ出す。遠くから聞こえてくる漁船のエンジン音。寄せては返す波音や樹々の葉を震わせる風の音葉音。磯の香りと髪から香るシャンプーの匂いが重なり、鼻腔をくすぐる。
 二つの影が、寄り添うように浜辺を歩いている。
「お母さん、私ね。高校を卒業したら、ダンスの道に進もうと思う。咲人さんのダンスを見たとき、『この人のダンス、なんて美しいんだろう』って思った。私もあんな風に踊りたい。……練習中も、試験中もずっとそればかり考えてた。だから、ダンスの道に進んで、いつかあいつをぐうの音も出せないようにしてやるんだから!」真里はサンダルを片足で垂直近くに傾けて、乗っている砂を下に滑らせた。
「真里。……あなたがやりたいのならお母さんも、お父さんも反対しない。でも、……本当は納得してないんじゃない? 一次審査の結果を」千夏はサンダルを脱いで、片手に持ち裸足のまま波打ち際に立った。
「ううん。……いや、そうかも。初めは、『何で?』って思った。けど、だんだんとエリーシャが私に何を望んでいるのか分かってきたような気がして。今はまだ、上手く言葉にできないけど、きっとそうなんじゃないか!って。……」千夏は、真里の元へと近づき抱きしめた。真里もそれに応えるように千夏を抱きしめた。
「ねえ、お母さん。少し太った?」真里は千夏の横腹を指でつまんだ。
「ちょっと! 失礼な子ね。当分、お菓子禁止令出すわよ!」千夏は腰の両側に手の甲を置き仁王立ちした姿勢で、真里を優しく睨んだ。
「おお~、どうか、それだけはご勘弁を。女王様」真里は顔の前で手を合わせ、祈るようなしぐさで千夏に頭を下げた。
「いいや、私はこうと決めたら曲げないわよ! ここでは私が女王で、あなたは僕。お分かり?」千夏はエリーシャの真似をして真里を喜ばせた。
 二人は、姉妹のように声を上げて笑い合った。落選した選考合宿から帰宅して、二日目の朝だった。

***

 選考合宿は、佳境を迎えていた。第二ステージからは、「ダンス」「アクト」「コーラス」に分かれて審査が行われた。現在は第三ステージに入り、合宿は五日目の終わりを迎えていた。
 ダンスでは、宏太が頭角を現し、注目を浴びていた。その下には、百合や琴美が必死にもがいて練習や試験を通過していた。
 アクトやコーラスにも、子ども劇団のメンバーが名を連ねた。琴美は、劇団のメンバーから再結成を求められるようになり、内心それを嬉しく思った。だが、「真里落選」のショックが大きく、未だにエリーシャの判断に納得できていなかった。琴美は再度真里を合宿に呼び戻すように直談判しようと意を決して、エリーシャの休む部屋の前に立った。すると、先客がいるらしく、ドアから話し声が聞こえてきた。琴美はすぐにその声の主が百合だと分かった。琴美よりも先に百合が直談判に来ていたのだ。
 「どうして私を落とさないんですか?私は真里先輩やみんなにバレエ経験者だってことを黙って試験を受けました。本当なら、始めに分けたカテゴリーで私はバレエ経験者のところを選んで、そこのメンバーのうちの一人と踊らなければならなかったはずです。私は、ルールを破って試験に臨みました!真里先輩に本当のことを言って、もう一度呼び戻してください!」百合の声は少し震えていた。
 「あなたの嘘は、練習の時から知っていたわ。未経験者がやらない予備動作をしてたしね。ジャンプにしてもピケやピルエットにしても、その前の予備動作で技の完成度が決まる。そんなのは常識よ。私が知らないとでも思ったの?」エリーシャは、椅子に座ったまま前に立っている百合と話をしている。
 「分かっているのなら尚更、真里先輩の凄さを理解しているはずですよね?なぜ、真里先輩を除外するようなことをするんですか?」百合は語気を荒げた。
 「キーキー、キーキーと猿みたいにうるさいわね。いいわ、一つだけ教えてあげる。そのあとは、あなたたちでどうにかしなさい」
 「あなたたち?」エリーシャは、ドアを開けるように百合に合図を送った。百合が指示されるままにドアを開けると、そこには聞き耳を立てる琴美がいて、百合と琴美はお互いに驚いた。
 「先輩!びっくりさせないでくださいよ。何してるんですか?」百合が胸に手を当て、ホッと一息ついた。
 「ごめん、聞く気はなかった。……は、嘘だけど。本当は、真里をもう一度この合宿に戻してもらいたくて。そしたら、先に百合がその話をしてたから。つい、聞き耳を立てちゃった」琴美は顔の前で両手を合わせて、百合を見た。
 「似た者同士ね、あなたたち。……もう時間よ。一回だけしか言わないからよく聞きなさい。……『真里がここにいては手が余る』それだけ言えば理解できるでしょ。さ、早く部屋から出ていきなさい。邪魔よ邪魔」エリーシャは、二人を追い払うように部屋から出し、ドアを勢いよく閉めた。
 「もう!せっかちでわがままな人ね」琴美と百合は、顔を見合って笑った。二人は、翌日にでも劇団のメンバーを集めて真里をショーに出られるよう策を練ることにした。
 琴美は帰り際に、エリーシャの部屋のドアの方を見た。先程のエリーシャの様子に違和感を感じていたからだ。しかし、それも杞憂だと思い自分の部屋へと足を向けた。

 暗闇を掻き分け差し込む月の光が、床を照らしている。そこに散乱している錠剤や横たわるペットボトルの口から流れ出る水が、床に小川を築くかのように入り口の方を目指して進んでいく。その途中には細い指があり、流れを二つに分けるかのように、動かない。
 エリーシャは、床を這いながら口元に転がる錠剤を何とか口に入れて飲み込んだ。次第に遠退く意識の中で、「今宵の寝床は、公園のベンチよりはマシな方ね」と思うのであった。
 脳裏に浮かんだのは、豪華絢爛で歓声が注がれる舞台の上に立つエリーシャ。それを朋樹は、羨ましいのか誇らしいのか、どちらとも判別できない心持ちで観客席の後ろから見ている姿だった。
 ふいに、過去の親しい友人から言われた言葉が聞こえてきた。「私ね、姐さんみたいに、ジャズのように生き、ブルースのように語られる人生を夢見てた。……姐さんは、私の誇りよ。ありがとう」彼女は、死の床でエリーシャにそう言って十年前に息を引き取った。
「そんなに、かっこよく生きられる訳ないじゃない。……今も床に這いつくばって何とか生きてるのよ。私も直にそっちへ行くわ。でも、今じゃないの。今ではないのよ。……」エリーシャは月の光にそう嘆き、そのまま深い眠りに落ちた。

***

 選考合宿六日目。合格者は目標の三十人に絞られた。ここからは、合格者達をどのプログラムに割り振るかを決める。ここでようやく、エリーシャが演出するドラァグクイーンショーの全容が見えてきた。
 エリーシャのマネージャーの立花さんが、どこからかホワイトボードを持ってきて、フサキリゾートホテルのマップを貼った。説明はマネージャーから受けた。
 石垣島の西の端に位置するフサキリゾートホテルの全面協力を得て、ホテル敷地内に特設ステージをいくつか設置する。これをサブステージと呼ぶ。サブステージでは、十三時から十七時までで、リップシンクやコミカルライブを三十分ごとに出演者を交代して行う。十七時からは、ビーチに設けられたステージでサンセットライブを行う。メインステージには、著名なドラァグクイーンたちが名前を連ねる。陽が沈むまでライブをした後、夏至南風(かーちばい)というライブ施設で、ドラァグクイーンによるジャズライブを行う。
 立花は、汗だくになりながら一気に説明を終えると、すぐに風の当たるドア付近に移動した。
 皆の思っていることだか、立花はケンタッキーのカーネルサンダーのように、いつも白スーツで会場にやってくる。沖縄のジメジメとした暑さに汗をかこうとも、一貫して白スーツだ。エリーシャは、それが当然であるかのように、立花に対しては一言も何も言わない。それは信頼からくるものなのか。それとも主従関係によるものなのか。秘密の多いエリーシャの七不思議として、受験生の中では何度も話題に上がっていた。

「この中の大半は、サブステージで何人かの演者のサポートに回ってもらうわ。メインと夜のジャズライブは、まだ、曲が決まってないの。あとから、サポートをお願いするわ。あ、そうそう当たり前だけど、全員衣装を着てもらうわよ! ドラァグクイーンショーなんだから。女性よりも女性らしく! 今日はドラァグクイーンとしての振る舞い方をみっしり教えちゃうから、覚悟しなさい」そう言ってエリーシャは、皆にウィンクを投げた。
 騒然とする会場に、いつの間に用意したのか立花が、衣装ラックを引いて体育館の壁側に置いた。それには赤黄青の色とりどりの衣装が掛けられていた。
「まずは、衣装の寸法合わせをしてちょうだい。そのあと、歩き方や仕草を身に着けてもらうから」
 皆が衣装の元へ集まり、「これ、かわいい」とか「派手な物しかない! 恥ずかしい」とか好き好きに言い合い笑いながら衣装を選んでいた。
 その様子を笑顔で見守るエリーシャの横に立ち千夏は、「ありがとう」と言った。
「何? お礼を言われるようなことは、何もしてないけど?」エリーシャは、千夏を上から見下ろした。
「真里、あれから何か吹っ切れたみたいで、『高校卒業したらダンスの道に進みたい!』って、言ってきたの。いままで、自分が本当にやりたいものを見つけられずにいたから、今回の合宿であの子は、随分と大人になった」千夏は、衣装選びをする無邪気な子ども達を見ながら言った。
「千夏の望みは、こんなものだったの?」ふいに外に放り出すような、そんな言葉だった。
「え、どういうこと?」千夏は聞き返した。
「何かを決めることが全て良いことだとは、思わない。ましてや、進路を決めたからって大人の仲間入りをしたとは言えない。真里は今、大人になったの? 千夏は、それを望んでいたの? だったら、私は何もしてない。これは、真里が勝手に決めたことよ!……あなたは、もっと高い望みを持っていると思ってた。それは、私の勘違いだったのね」エリーシャは、千夏を言及した。
「ちょっと、待って! 私はただ、この合宿が真里にとっての分水嶺となったって言いたかったの。ただそれだけよ」千夏とエリーシャのやり取りを見ていた子ども達が、二人の前に集まった。すると、エリーシャは目の前に集まった子ども達を見渡し言った。
「少なくとも、あなたより真里の気持ちを理解しているのは、この子たちの方よ」
「みんな、どうしたの?」千夏は怪訝な顔して聞いた。すると、琴美が全体を代表して口を開いた。
「私たち、真里に踊ってほしいんです! 真里をショーに出させたいんです! だから、千夏コーチに協力してほしんです! 真里に合宿で習ったこと全て、私たちが教えます。足りないところを千夏コーチに補ってほしいんです!」琴美は、真っ直ぐに千夏を見て懇願した。琴美の後ろにいる劇団のメンバーたちも同じように千夏を見ていた。
「千夏。親が子どもに高い希望を求めなくて、どうするの? 世の中は、馬鹿の一つ覚えみたいに『自由』という見えない足枷を子どもに付けて大海を泳がせようとひと思いに放り出す。将来のことは、あの子の人生だから、あの子の『自由に』って、は! 愚かよ。それって単に、自分の子どもに希望を持てないからでしょ! だからその子どもは、夢や目標を見失うたびに、大海のど真ん中で途方に暮れるのよ。親が子どもを孤独にしてるの。真里がそうだったでしょう。なのに、あなたはまたそれを繰り返そうとしている!」
「じゃ、どうすればいいのよ! 途方に暮れるあの子を側で抱きしめてやることしかできない私に。……」千夏は大粒の涙を流した。エリーシャは、子どもたちを見て優しい声で千夏に言った。
「希望の手綱を渡してあげるのよ。大海を泳ぎ切るまで、側で希望の手綱をしっかりと握って、こう言うのよ。『ここよりももっと先へ進もう! 君の限界のその先へ』」
 エリーシャは、千夏の肩を掴み子ども達へと向けた。
「素敵な仲間たちじゃない? 真里がショーで踊ることを本気で望んでる。真里はこの子達の希望なのよ。あなたが手放すには、まだ早いわ」エリーシャは、千夏の背中を押した。
「みんな、真里のために。……ありがとう」千夏は、琴美を抱きしめた。後に続いてみんなも千夏と琴美を抱きしめた。
「あの!」咲人は、子ども達の服の寸法を測りバインダーに記録していた。その手を先程から止めて、事の成り行きを見守っていた。
「もし、真里をショーに出すのなら今のままでは、何の達成感も得られないと思うんです」
「どういうこと?」千夏が咲人を見つめる。咲人は、エリーシャの方を一瞥してから話しをした。ついに「その時」が来たのだと、咲人とエリーシャは互いの目で感じ合っていた。
「俺の母さんなら、真里をもっと上へ引き上げることが出来ると思います!……俺の母親の名前は、旧姓、天童南乃花! 日本人コンテンポラリーダンスの頂点に立ち、その後突然の引退を表明して、長野の田舎でバレエの先生をしています」
「南乃花さん! 天童南乃花さん。……エリーシャも、咲人さんも何故それを隠してたの? 私は彼女に酷いことをした。二十年経った今でも、私の罪は消えない。消えることなんてない!」
 千夏は、困惑した顔を見せた。すると、「あれは、事故よ!」と突然、入口から女性の声がした。それは、どこか懐かしく両頬に笑窪が見えるような声だった。
「南乃花さん! どうしてここに?」千夏の問いには応えることなく、南乃花は千夏の腕を取りエリーシャに一言だけ言った。
「ちょっと、千夏さんを借りるわ!」
エリーシャは、レヴァランスというバレエのお辞儀をして微笑んだ。
「ありがとう!」千夏の腕に自分の腕を絡ませて、南乃花は千夏と出口に消えた。

***

 石垣自然の家を出た二人は、緑風を受けて赤のオープンカーを走らせた。
 「ねえ、なんか冷たいもの食べたくない?」南乃花が風に掻き消されないように大声で話した。自然と千夏も大声で返事した。
「ここからだと、『ミルミル本舗』ってジェラート店があるよ」
「近いなら、そこに行こう!」南乃花がアクセルを踏み込んだ。
「ねえ、ルーフ閉じないの?」千夏が風を左手で遮りながら、聞いた。
「え、ルーフって何? 私、こんな車乗るの初めてだから、分かんない!」南乃花は、ハンドルを持ちながらルーフの開閉ボタンを探した。
「レンタカー、誰が選んだの?」
「立花さん! エリーシャのマネージャー」
 千夏は、汗だくの立花さんを想像した。「確かに立花さんなら選びそうな車だ」と思った。
 千夏は、南乃花に車を停止させルーフ開閉ボタンを探した。ルームミラーの上にボタンを見つけ、押すと後方からルーフが出てきた。
「ありがとう。ルーフの閉じ方、教えてもらっておけば良かったな。せっかく、かっこよく登場したのに」南乃花は、残念そうな顔を見せた。
「かっこよかった、……よ。颯爽と現れて連れ去るシチュエーション、一度経験して見たかったから」千夏は、先程までとは違い、どんな話しをすれば良いのか分からず困惑した顔になった。
「それじゃ、姫を連れてジェラート店へと駆け込みますか! 愛の逃避行よ」南乃花は再びアクセルを踏み、車を走らせた。

 ジェラート店は、広大な敷地を前にポツンと建っていた。道を挟んで隣にはお土産店がある。
 二人はジェラート店でそれぞれに注目した後、店の外にあるテーブルに着いて、話しをした。
「このジェラート、美味しい! また来よう。私ね、高校時代に千夏さんと、こんなことしたかったんだ」南乃花は、初めて会ったときのように「千夏さん」に戻っていた。
「『千夏』でいいよ」そう言って千夏は微笑みを向けた。
「それじゃ、私のことも『南乃花』って呼んでくれる? さっきから、私の名前呼ばずに会話してたから違和感があったの」南乃花は、ジェラートを一口食べた。
「ごめん、気を遣わせちゃって。……」千夏は、カップに入ったジェラートが溶けていくのも構わずにスプーンでジェラートを回しながら、南乃花に言った。
「二十年、あなたに会いたかった! あなたの踊る『セレナーデ』涙が止まらなかった」南乃花は、真剣な目で千夏を見た。
「愛の告白? 本当は二十年、私のことを憎んでいたんじゃない?」千夏は、カップを見ながら話している。
「あの日ね。……」と南乃花の声が少し低くなった。
 その時、風が吹き、二人の前に広がる草原を駆け抜けていった。

 二〇〇〇年、辺りはすっかり暗くなり、点在する街灯を頼りに人々は歩いていた。南乃花は合宿所に続く長い下り階段の前にいた。人目を避けるため緑の壁の下にあるベンチで身を潜めた。
 南乃花は、千夏が階段を降りるときを待っていたのだ。千夏が怪我をすれば、世界への挑戦やベルギーの劇団からのオファーも無くなるだろう。南乃花の心は荒んでいた。自分がどんなに努力をしても、千夏はすぐに追いつき、追い越していく。おまけに、朋樹先輩からは絶大な信頼を集めている千夏が、憎かった。
 千夏が自主練習を終え、あの長い下り階段を降り始めたとき、南乃花は決心して千夏の背後に回った。
 そのときの気持ちを南乃花はその後幾度も思い出し苦しむことになる。憎しみに心を染めた人間は、善や悪の区別もつかなくなる。千夏の背中にあと少しで届きそうな瞬間。――誰か、私を止めて! そんな思いが南乃花の頭をよぎった。すると、千夏が後ろを振り向きかけた。慌てた南乃花は、足を滑らせ階段を転げ落ちた。
 全治二週間の怪我だった。退院後、南乃花は千夏に謝りたい気持ちで学校を訪ねた。すると、千夏は入院していると知った。何故? と思った。入院の理由を聞いて驚いた。
 千夏が南乃花を階段から突き落とした張本人だということになっていて、それを苦に千夏が自身の大切な足を刺した。南乃花は、今いるこの世界は自分の知らない世界であって、自分だけ別の世界に来てしまったのではないかと思った。
「あれは事故だった」それだけを伝えたくて千夏の入院する病院へ向かったが、結局会うことはなかった。自身の足を刺してバレエとの決別を選んだ千夏に、今更どんな顔して会えばいいのか分からなかった。
 南乃花は、苦しみを背負いバレエを続けた。コンテンポラリーダンスで頂点まで上り詰めても、千夏や朋樹のいない中では、虚無感しかなかった。
 いつか三人で笑い合える日が来ることを、南乃花は夢見ていた。

 話し終えると、南乃花は両頬に笑窪を見せて千夏を見つめた。「二十年、会いたかった。千夏」
 真っ直ぐに見つめられ、千夏は恥ずかしくなった。
「そんなに見つめられて『会いたかった』って言われたら、恥ずかしくて。……あれ、涙も出てきた。ああ、もう。……どうしちゃたんだろう、私」千夏は手で自分の顔を仰ぐが、涙は次から次へと頬を伝い流れていく。
「千夏。……」南乃花は千夏の左手を握り、まるで二十年の空白を埋めるかのように、千夏の名前を呼んで手を何度も何度も握りしめた。
 二人の止まっていた時間は、こうして再び動き出した。

***

 合宿も終わり、明日からはドラァグクイーンが続々と石垣島入りしてくる予定だ。
 そんな中、真里の元に劇団メンバーと南乃花が訪れた。
「みんな、どうしたの?」家の玄関先で真里は琴美に聞いた。
「みんなで話し合って決めたことなんだけど、真里にショーに出てほしい! エリーシャとは話はついてるの。もう一度、エリーシャの前で踊って真里の実力を見せてほしい。それを伝えに来たの」琴美は優しく真里の顔を見つめた。
「でも、私は百合に負けたのよ。それに、……」
「真里先輩は、負けた訳ではないんです。エリーシャは、真里先輩の才能を目の当たりにして自分では教えることが出来ないと思ったんです。だから、真里先輩は、負けてないです!」百合が前に出て言った。
「でも、何を踊ればいいの?」
「あなたの心の中にあるものをダンスに込めたらいいのよ!」南乃花は劇団メンバーの後ろから声を上げた。
「え、どなたですか?」
「あ、ごめん。真里、この方は、私の友達の松本南乃花さん。コンテンポラリーダンスの先生です。そして、咲人さんのお母さんでもあるの」千夏は、以前からの友人を紹介するかのように真里に南乃花を紹介した。
「え、咲人さんの?……あの、私も咲人さんみたいに美しく踊ることが出来ますか?」
「もちろんよ! 一次審査のビデオは、見たわ。あなたなら、咲人よりも素質があるかもしれない。私の指導を受けてみない?」南乃花は、真里に手を差し出した。真里はその手を掴み、握手を交わした。
 コンテンポラリーダンスとは、テクニックや表現形態に共通の形式を持たない自由な身体表現の一つで、海外では当たり前のように聞く言葉だか、日本では「現代舞踊」などと呼ばれ一線を画している。「つまりは、ダンスによる革命よ」と南乃花は言う。決まりのない身体表現であることからこそ、抽象的なものを表現することができる。世の中にまだ存在しないダンスを創造することができるのだと、真里は教わった。
「あなたの心の中をダンスで表現してみない? エリーシャもきっとそれを望んでる」南乃花は、笑窪を見せ真里を見た。真里は、南乃花の笑顔が咲人に似ているな。と、思ったがすぐにそれを掻き消して、南乃花にお願いをした。
「私、ダンスで咲人さんにも勝ちたいし、ショーにも出てみんなに私のダンスを見てもらいたい。それから、日本や世界を回っていろんなダンスを習って、自分のダンスを究めたい! その全部が叶うほどの力を私に持たせてくれますか?」真里の言葉に、琴美を始め劇団メンバー皆が笑顔になった。
「全部が叶うほどの力を手に入れるには、それ相当の努力が必要よ。あなたに出来る?」
「私には劇団の皆と、母さんの応援がある。それがある限り、私は諦めないしめげたりもしない。必ず皆の期待に応えてみせる!」真里は南乃花を真っ直ぐに見て答えた。
「分かった! それじゃ、荷物運ぶから手伝って」南乃花は、大きなスーツを真里の前に置いた。
「え、ここに泊まるの?」真里が驚いた。
「そう! 急いで来たからホテルの予約取ってないの。それに、いちいち通うの面倒だしね」と、南乃花と千夏は顔を合わせて微笑んだ。まるで昔から仲の良かった親友を招いてるようだ。
 劇団メンバーとは、後日練習する日程を確認して、真里は南乃花の荷物を自分の部屋に運んだ。そして店の方に行くと、南乃花は席に座り千夏と談笑していた。千夏は、真里に気付くと手招きして同じテーブルの席に座らせた。
「ねえ、見て見てかわいいのよ。四歳のときの咲人さん」南乃花のスマホを手に、千夏が画面を真里に向けた。そこには、ダンスと呼ぶには程遠い猿のような動きをした幼児が映っていた。
「ちょうど咲人がダンスを習い始めた頃の動画」南乃花は、笑窪を輝かせながら真里を見た。
 真里は、少し恥ずかしくなって「いいよ、そんなのは」とスマホから目を背けた。
「あ、もしかして真里、咲人さんのこと好きなの?」千夏が口に手を置いて真里を見た。
「え、え、そうなの?」南乃花もそれに乗っかってきた。
「そんなんじゃないです! 全くもう。おばさん二人が集まるとそんな話ばっかり。別に好きとかじゃないから」真里の反応を見て、二人は微笑んだ。
「よし! では、コンテンポラリーダンス習得のための三つのステップを話しましょう」と、南乃花が実演を見せながら説明した。
 ステップ①は、部位を意識した動き。つま先や肘など体のあらゆる部位を動きの中心に持ってくる。この練習によって身体表現を高めることができる。
 ステップ②は、音楽への反応。ランダムに曲調の異なる音楽を流し、その音楽に合ったダンスを即興で行う。これは、リズム感や瞬発力を鍛えることができる。
 ステップ③は、条件を付ける。例えば「真冬に雪合戦をしている」という条件でダンスを構成する。それを瞬時にダンスで表現することで、想像力や表現力の向上につながる。
 南乃花は、ざっと説明するとスマホを手に取り、真里の一次審査の動画を見せた。
「あなたには、母親譲りの類稀なるリズム感がある。それに、ほら見て!……もう一人の子よりも先に予備動作を始めてるでしょ。咲人が次の指示を言った瞬間から、あなたの中ではストーリーが出来ていたのよ。こんなの自然に出来る人なんて私でさえ見たことない! エリーシャが『手に余る』というのも分かる気がする」
「それって、そんなに変ですか?」真里は困った顔をしている。
「変というより、『恐い』の方かな。だって、自分の想像を越えた人が目の前にいたら、次に何をしてくるのか分からないじゃない。それが咲人のように自覚している人ならまだしも、無自覚で精神的にもまだ未熟な子に、私だったらステージを預けられない」南乃花の話に真里は自分が異次元の世界から迷い込んだ人のような気持ちになった。
「じゃ、真里が自分の表現力を高めつつ、それを自在に操れるようになればエリーシャも納得してくれるってこと?」千夏の言葉に南乃花は指をパチンと鳴らして「その通り!」と勢いよく言った。それを見て千夏も真里もおかしくて笑い声を上げた。
 その日から、早速練習は始まった。真里は朝昼夕と南乃花の指導を受け、その合間に劇団メンバーから合宿で習ったことを教わった。中でも一番難しかったのは、ドラァグクイーンとしての振る舞い方だった。普段意識したことのない歩き方や手の置き方。がさつな真里にとっては、苦行そのものだった。だが、真里には頼もしい仲間がついている。仲間と共に笑い合える時間が真里にとっては、何よりの幸福だった。
 ドラァグクイーンショー開催日まであと四日に迫っていた。明日は、エリーシャにダンスを見てもらう日だ。真里は、心踊る気分だった。
 エリーシャは、連日ショーの打ち合わせと夜は石垣島入りしたドラァグクイーンを連れて開業前の仲間の店で毎晩どんちゃん騒ぎをしていると、咲人が店に食べに来たついでに話をしてくれた。何故か咲人は、エリーシャの体を心配しているようだった。千夏は咲人にエリーシャの健康状態について話してくれるようお願いした。すると咲人は、「全てを教えることは出来ないが、エリーシャは病気なのだ」と話してくれた。千夏と真里、南乃花の三人は、咲人の不安な表情に嫌な予感を抱いた。

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