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【つながる旅行記#403】『郡是(ぐんぜ)』に目覚めた波多野鶴吉の生涯を知る 【グンゼ博物苑】

前回は自転車で綾部に辿り着いたところ、グンゼ博物苑を発見。

まさかのGUNZEが日本企業だったことを今更ながらに知りつつ、創業者・波多野鶴吉の若かりし頃を知ったのだった。


さて、京都で放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たして綾部へと戻ってきた波多野鶴吉(23歳)だったが、その後は臨時の小学校教諭として勤務することになった。

だが前回語ったように、梅毒によって鶴吉の鼻は欠けているのである。

顔を見ればすぐに分かるその特徴は、当然のことながら子どもたちにからかわれることとなる。

しかし京都での放蕩の末に目が覚めたのだろうか、鶴吉の人間性は実にまともになっていたようで、子どもたちもそれに気付いてからは、からかうのをやめたという。


そんなこんなで心機一転して教師生活を送っていた鶴吉だったが、ある時期になると一部の生徒が明らかに疲労しきっていることに気付く。

原因を探るべく家庭訪問をしてみると、どうやらそうした生徒の家は養蚕(カイコの幼虫を育てて繭を得る)を営んでいる貧しい家ばかりのようで、その仕事を子どもが手伝わされていたことを知る。


実は何鹿郡(綾部)は以前から養蚕の産地ではあったのだが、残念ながら品質が悪く、非常に安い値段で買い叩かれていた。

養蚕農家も必死に働くのだが、貧しさからは抜け出せない負のループに陥っていたのだ。


うーむ……。

ここで少し自分語りをすると、自分も祖父母の家が養蚕をやっていたと聞いているので、なんだか他人事とは思えない話だ。

もちろん鶴吉の生きた時代(約140年前)と自分の祖父母が養蚕をしていた頃の状況は全然違うのだろうが、農家の貧しさに関しては似たような部分があると思う。


話では祖父母の家も昼は畑仕事などをして夜には養蚕をしており、母によると祖父母はまさに文字通り朝から晩まで働いていて、登校前に顔を合わせることがなかったという。(もう畑に行ってしまっているから)

自分の祖父母の代ですら田舎はそんな感じなのだから、当時の綾部の状況はより悲惨だったのかもしれないな……。



教師になったことで養蚕農家の窮状を知った鶴吉は、「これをどうにかするのが自分の天命なんじゃないか」と悟る。

そんなとき東京で繭や生糸の品評会が開催されるのだが、そこで京都の繭と生糸に対して「”粗の魁”」(品質がこれ以上ないほど最悪)という凄まじい低評価が下されたことで、京都府は衝撃を受ける。

全国最下位は流石にヤバすぎるということで、京都府は各地に蚕糸業組合を設立し、繭や生糸のクオリティをどうにか上げようとしたのだった。

そしてここで何鹿郡(綾部)の組合長になったのが、養蚕を天命として日々動いていた波多野鶴吉(28歳)だったのである!


鶴吉は教師をやめて、養蚕に全力を傾けはじめた。

最新の養蚕技術を求めて他県に人材を送ったり、1893年には高等養蚕伝習所という養蚕の技術者育成機関を作り、どうにか地域の養蚕業の質を向上させようと奮闘するのだ。(なおこのときキリスト教に入信)


そして日清戦争が終わった1895年、何鹿郡(綾部)にとある有名人がやってくる。

その名は『前田正名』。

薩摩国に生まれ、過去にはどうしても行きたかった薩摩藩の留学生選抜から漏れてしまったため、『和訳英辞書(薩摩辞書)』を仲間と作成して留学資金を稼ぎ、自費で留学しちゃったというぶっ飛んだ経歴を持つ、元農商務省次官である。

彼は全国を行脚して講演を行っている最中だったのだが、鶴吉がいる何鹿郡(綾部)にも立ち寄ったのだ。


そしてその演説内容に、鶴吉は感銘を受ける。

「今日の急務は、国是、県是、郡是、村是を定むるにあり!!」

前田正名

そう! 気付いただろうか!?

”郡是” ←これが『グンゼ』の由来なのである!!


いやしかし国是は聞いたことがあったが、県是郡是村是なんて初耳だ。

……いや、普通にそれらは前田正名が『国是』を元にして作った単語ということか。

なお『郡是』の意味合いとしては、「郡には郡の持つべき役割があるよ」的な感じだろう。

鶴吉はこの演説で「何鹿郡(綾部)は養蚕業で役割を果たすぞ!!」という目標が明確になり、『郡是製絲株式会社』を設立するのだ。


さて、そんな郡是製絲株式会社で働く工員は養蚕農家の子女が中心だった。

鶴吉はそんな工員たちを「自分の娘のように育てて、立派な人間として実家に帰す」という信念のもと、工場に学校まで作って教育を行った。

そして『善い人が良い糸をつくる』という聖書的な発想もどうやら当たっていたようで、教育を受けた工女たちの糸は品質が上がったという。


なおそんな郡是と比較して他の紡績工場はどんな状況だったのかというと、紡績女工は基本的に超絶ブラックな環境で働いており、1903年には農商務省が実態調査を行った結果をまとめた『職工事情』を刊行している。

※(職工事情はネット上で読めます)↓

そして場合によっては36時間労働までさせているというあまりにもブラックな現状が判明したことで1916年には工場法が施行されるのだが、どうも実効性は乏しかったそうだ。

この状況が改善されるのはまだまだ先のことなので、当時の郡是製絲株式会社が女性の働き場所としていかに素晴らしかったかがわかる。


(……いやまあ「素晴らしかった」とか流れで言っちゃったが、当時の郡是の労働時間の情報は調べても出てこなかったので、仕事+各種教育でそこそこ大変ではあったんだろうなと思いつつ)

とはいえ元工女の人たちからは郡是はちゃんと評判が良いので、やはり環境は他と比較して良かったのだろう。


そんな郡是の生糸は1900年のパリ万博で金牌を受賞。

かつて「粗の魁」と蔑まれていた綾部の生糸は、世界に認められるクオリティになったのだ。


しかし1918年、波多野鶴吉は綾部女学校での講演中に、脳溢血のため急逝する。

享年60歳。

放蕩の末に戻った綾部での教師生活で養蚕に出会い、それを郡是として、地域のためにひたすら駆け抜けた人生だった。


いやはや、前回は「自分は地元愛がない」なんて話をしてしまったが、波多野鶴吉はまさにその正反対で、地元のために生涯をかけた人だったんだな。

だがよく考えてみたら、綾部はそもそも養蚕業が優れた場所ではなかったわけだし、鶴吉の人望も最低レベルからのスタートだったのである。(放蕩のせいで)

いやどう考えても前提条件が最悪すぎるわけだが、ここから地域住民の協力を得てグンゼを作り上げたのって、想像以上に凄まじいことなんじゃないか……!?


……なんだろう。

やってやれないことはないという勇気をもらえた気がする。

なお会社としてのグンゼはその後も変化を続けており、生糸から離れて高機能な新素材へ移ったりと、時代を柔軟に渡り歩いているとかなんとか。

それらの展示もあるので是非とも実際に訪れてみてほしい。


(なお自分はGUNZEといえば男性用下着のイメージしかなかったのだが、なんだか普通にストッキングやら女性用下着も作っていたらしく、展示室に入ってびっくりしちゃったぞ!!)


さてさて、ラストに盆栽成分も摂取したところで、今回の旅も終わりである。

何があるかまったく知らない福知山から始まって綾部にまで足を伸ばしてしまったわけだが、得たものが盛り沢山な旅だった。

予定が決まってなかろうが、とりあえず動いてみることの大事さをあらためて実感した次第だ。


今後もこんな風に動いていけたら良いなと思いつつ、次回へ続く……!


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