揺らぎの系譜 ー久遠の波紋ー 第一章(起)⑤阿傍 力【邂逅:前編】
体育館裏を離れると、阿傍 力は大きく息を吐き出した。
あの双眸は……
覚えているぞ……
間違いない。
東の聖獣……青龍。
(体の震えが……止まらない。)
クソッ、クソッ、クソッ!
御師祖様の聖獣が、なぜ……。
宿舎へと帰る道すがら、止まらない震えとともに、戦わずして逃げ帰った己の弱さに、身もだえるほどの屈辱感が腹の底から沸き立ち、彼を苛み続けていた。
宿舎のCedric・Coast館の自室に戻ると、ベッドに体を預けた。
阿傍の重い体を受けて、ベッドがギシ!と鳴いた。
仰向けになり天井を睨みつける。
薄れていた記憶の片隅…
今から千年以上前の出来事が…
緑に光る恐怖の双眸の闇から、徐々に形を成してきた。
*******
あの頃…
妖と人が、地を分かたず、ありしの事だ…。
山裾の駒牛村が夜な夜な襲われ、牛馬鶏などが喰い殺されていた。
村人達は襲ったのが、御山の動物だと思っていた。
しかし、御山の何が襲って来ていたかが分からなかった。
猪か。鼬か。狐か。熊か。
それとも…妖しか……。
なぜ分からなかったかと言うと、不思議な事に足跡がなかったのだ。
あったのは、襲われた動物たちの逃げ惑う足跡だけだった。
やがて、村人が襲われるようになった。
その村から長者の命で一人の若者が劫牛坊様(人間であった頃の牛鬼)に救いを求めて、里にある牽牛神社守護宮まで訪ねて来た。
村にとって大事な牛馬や鶏などが喰い殺される、緊急事態であった。
事が起こってから動物対策をしたが収まらず、御山様に山でとれた、
兎の肝、魚のオコゼの干物、酒、洗米、
を捧げて祈った。
その後、村の男衆3人を一組とし、交代で夜な夜な見廻りを始めた。
だが数日もしないうちに3人の男衆は、見回りの最中に襲われ、喉を噛みきられ臓腑を喰われて事切れていた。
この日を境に家畜ではなく、村人が襲われ出したのだ。
被害者が8人になった時、恐れをなした村人の中から、村を捨て去る者が出始めてしまった。
一組の家族が去り、また一組と…。
村人が襲われだし、そして逃げるように去る者が出だすと、最早恐怖を鎮める術はなく、万策尽きた長者は、下衆に皆を集会場の広場に集めさせ、長老の牟婁じいの話を聞くことにした。
牟婁じいは大きな声を出すでもなく、淡々と語った。
ー子供の頃にも似たようなことがあり、牛車用に育てていた牛が何頭か喰い殺されたり馬なども襲われた事があった。これは御山様が怒っておられるからだ。と当時の長老が鳥の鳴き声が、虫の鳴き声が消えた御山を見てそう村の衆に語ったんだ。そして御山様に供物を捧げ皆なで静まるようにお願いをした。
だがその時も、収まらなかった。
そこで里の牽牛神社の山伏殿にお願いして、事を収めてもらったー
その場で長者と村の衆で話し合い、牟婁じいの知り合いの山伏に、助けを求める事にしたのだ。
申の刻、私が牽牛神社の参道を竹ぼうきを手に、端に溜まった落ち葉を掃き集めて清める祓を行っていた時だった。
懸け文を持った若衆が、息を切らして駆け込んで来た。
私は驚き、「何者か!」と尋ねると若衆はその場で膝まづき、荒れた息遣いで途切れ途切れに話し出した。
「山裾の…駒牛…村…より参りました……若衆頭を…しています…力丸……と申します。……長者様より……至急の文を…劫牛坊様に……お届けに参りました。なにとぞ…なにとぞ…お渡し…くださいますよう………お願いいたします。」
と膝まづいて頭を下げて、両手で竹の端を持ち、捧げ上げた先には山の榊が添えられた懸け文が挟まれていた。
*懸け文:平安時代、下世話の者が直接手で触れて大事な文を穢(けが)さないために、割竹の先に文を挟んで持ち運びをしていた
師父様が懸け文を自室で読み終えると少し遠い目をされ、「…駒牛…か。」と呟いた。そして、私に村より来た力丸なる若衆を、ここまで案内するよう仰った。
牽牛神社の宿坊の奥屋にある、師父様の部屋に駒牛村より名主(長者)殿からの懸け文を携えて来た、力丸なる若衆頭を通した。
師父様のお部屋は板敷きの間に薄い畳が敷かれ、隅で小さな灯明(油皿)がゆれているだけの、質素で静かな奥部屋である。
上座に師父様が座り、下座に力丸、その左後ろに私(阿)が控えた。
師父様は手紙に書かれていたことの確認と、襲われて生き残った者がいたのか、そしてもしいればその者達は何と言っていたかを問うた。
力丸の話では、いくつかの家が襲われたが、幸い生き残った者が数人居た。その者達の話からすると、襲ってきたのは小さく、背格好は5-6歳位の子供のようだったと言った。ただ夜闇に紛れての急襲だったので皆、はっきりと見た者がおらず、黒い影の大きさがそれぐらいであったと震えた声で話したそうだ。数も数匹と言う者がいれば、たぶん一匹…。
とはっきりしない。
そして襲われる前に生臭い獣臭が漂いだし、どこから湧いたのかあっという間に襲われたそうだった。
その話を聞き終えた師父様の顔の影が、灯台に灯された火の揺らぎで幽鬼のように揺らめいて見えた。
話し終えると力丸が、肩を震わせ嗚咽を漏らし畳に突っ伏した。
「なぜ…御山様がお怒りになっているが。なぜ、なぜ…おいたちの村の者が……食い殺されねど……いけねんだ…なぜ…おやじが……。」
と泣き崩れた。
師父様がそんな力丸ににじり寄り、黙って大きな手で若者の背を何度もなでると、優しい声でしかし力強く一言だけ仰た。
「わかった」
と。
そして低く落ち着いた声で言葉を継ぎ
「……もう夜も更けた。すぐに飯を運ばせる。今日はゆるりと休むがいい」
その後、師父様は厳しい顔をなさり、
「阿よ。彼を部屋へ案内せよ。それから、明日の支度だ」
一度言葉を切ると、地を這うような低い声で続けられました。
「明日の朝……二番鶏が鳴く頃に、出るぞ」
「ははっ」
私は平伏した。
師父様が妖退治をお受けになり、そのお供で私も御山に行くことになった。
当時の私は慢心していた。
それは幾度も師父様の妖退治に同行し、その戦い様を傍らで見てきた私は、私なりの法力も開眼しつつある事から、自惚れていたのだ。
(今回も大事ないであろう、いや師父様のお手を煩わすまでもない。私一人で十分に事を収められるはずだ)
そんな風に、安易に考えていた。
見取稽古がそのまま己の実力であると錯覚し、まだわずかばかりしか開眼してない大したことのない力であった物にもかかわらず、いつも手を煩わせている師父様の代わりが務まるはずと思い込んでいた。
助けを乞う村の若者の左後方に控え、静かに気合を込めていた当時の私は、そんな「自信」こそが、「慢心」であり「驕り」であったのだと、微塵(みじん)も気づかずにいた。
だが、師父様は違っておられた。
あの時御山を仰ぎ見た師父様の顔は強張り、大きな体は微かに震えていた。
あの御方が恐れるなどとは、露ほども思わない私は、それを
ー妖退治への武者震いー
だと思い込み、一人で奮い立っていた。
私(刧牛坊)は、若者が訪ねてくる数日前から胸騒ぎがし、眠れぬ夜を過ごしていた。まだまだ未熟であると痛感し、師である役黄老子様に相談申し上げて、東より沸き立つ言い知れぬ不安と恐れに負けぬようにするには、どうしたら良いのか教えを乞うた。
師は、私の顔を見ると何も言わずに懐から畳まれていた、美しい錦の布を取り出し広げると、中から縹に染め上げた和紙に包まれた護符と鈍色に光る「懸守」という小さな袋が現れた。そして右手で印を結び短く真言を唱えると懸守に縹色の和紙に包まれた護符を入れて私の首に掛けて下さいました。
中には師が守護を召喚する咒を、銀泥でしたためた護符が入っていると仰った。そしてもしこの助けが必要になったら、天見えるところで焚くようにとにこりと微笑み、私の肩を軽くたたき 頷いてくださった。
今思うと、師はすべてを見通しておられたのではないだろうか……。
力丸が先導して、私と阿がそれに続いた。
村に着く前から少し見え始めた御山には、魔気が揺らめいていた。
弟子には、まだこの地点では見えぬ様子であったが…。
集会場の前の広場に村人たちが集まり、里に下りた力丸の帰りを今か今かと待っていた。皆の前、集会場の入口横の長椅子に、長者を真ん中に挟んで下衆(下級役人で実務家であり有能に立ち働く村の「仕切り役」)と牟婁じいが座っていた。
これからどうするとか、村はどうなるんだとか、あーでもないこーでもない、と囁きあっていた。
村の衆を目の前にして長者は腕を組み、目を閉じ口をへの字にして黙って座っていた。下衆は前の男衆と小声で何やら話し合っていた。
牟婁じいは、あの大きくて豪快に笑う般若湯の好きな山伏に、狩った猪の下敷きになり、藻掻いていた時に助けけてもらった古い古い記憶を思い起こしていた。
あの時今までにないほどの大きな猪を、罠で捉えて仕留める際、誤って倒れた猪に挟まれ藻掻いていた所を修行で来ていた山伏に助けられ、お礼に持っていた酒と干した大根などを振舞った。
「ほうほう、これなるは般若湯!体が温まる。ありがたい。」
と山伏は相好を崩した。
この山伏が持つ錫杖の音色が、牟婁が知る今までの山伏たちが持つ錫杖の軽く凛々しい音とは違い、腹に響くまるで大地のような豪壮な音を奏でるのが不思議で聞いてみた。
牟婁が仕込んだ特製の酒を、旨そうにごくりと喉を鳴らして飲み込んで、ニヤリと笑い
「この錫杖か。これは特製でな。普通なら御神木となるほどの500年の齢を重ねた銀杏の木より削り出された逸品よ。」
と片手で軽々と掴み、俺の目の前に翳し、ほれ持ってみよ!と小さく振った。
触って良いものかと思ったが、この山伏が、ほれほれと言うのであれば、遠慮するのが無作法か、と思い俺も片手で受け取った。
…………。
うぉぉぉおおお。
思わず声が出てしまった。
危うく落とすところを 何とか両手で支えて落とさずに済んだが…………。
何という重さだ。俺とて山で鍛えたこの体。重い獣を解体した後運ぶとはいえ、決して軽い状態で運ぶのではない。山での解体は必要最低限だ。
それに腕っぷしは村で5本に入る。村祭りでの大石抱えで優勝した事もあるのだ。
驚いた顔で山伏を見ると、心底面白そうに豪快に笑った。
「ななかの剛力だのう。これを渡して落とさなかったのは、主が初めてよ。」
このとても重い錫杖を片手で軽々と扱う山伏が、柔らかく微笑んだ。
薪火を囲んで、酒を酌み交わした…あの古き思い出。
牟婁じいは、遠くを見るように目を細めた。
あの後もいろいろな事があった…。
そう言えば、劫牛坊殿と最後に会ったのは、何時であったか……。
もう十年近く前に…なるのか…。
その時、腹の底を揺らすような、あの懐かしくも重き錫杖の音が身の内に響いた。
牟婁じいは徐に立ち上がると、村の出入り口の方を見据えた。
横で目を閉じていた長者が、牟婁じいの動きを感じて目を開くと、同じ方向に視線を走らせた。その様子を見ていた下衆や村人達はどうしたんだという顔で牟婁じいの視線の先を見ると、山伏殿に助けを乞うため里に行かせた若衆頭の力丸の姿が見えた。
「おーーい!あないしてきましたよー!」
と手を振り走ってきた。
そこからしばらくして、
ず~んじゃら~ん。ずんじゃら~ん。ず~んじゃら~ん……。
と重い錫杖の音を響かせ、年老いた山伏と若い山伏がゆっくりと歩てきた。劫牛坊は牟婁じいと目が合うと、小さくお互いに頷き合った。
村の衆はそれまでひそひそ話でもがやがやしていたが、劫牛坊達が現れると錫杖の地に響き渡るような重い音にもびっくりしたが、劫牛坊の大きさとごつさ、それに圧倒される気配に気おされ静まり返っていた。
「あれが……牟婁じいの言っていた聖(ひじり)か…」
「……。まるで、熊のようだ……。」
畏怖と怯えで、今まで以上に声を潜めて囁きあった。
劫牛坊は最初に長者に挨拶をすると、改めて牟婁じいに向き
「 よぉ、! ずいぶんと老けたではないか!」
と破顔した。
村に着き、名主殿に挨拶をした後、私は改めて怪異が出る御山を見上げた。尋常ではない魔気の影が、蠢いていた。
見れば見るほど、かつて数々の妖を退治してきた私でさえ、背筋に冷たいものが走る。何と不気味な、赤黒き魔気であろうか……。
「ぬぅぅう……」
私は無意識に丹田に力を込めていた。
ーあの胸騒ぎの原因は…これであったかー
(刧牛坊の顔に、一瞬では有ったが険しい影が差した。)
ふと横を見ると、弟子の阿も流石にここまで来ると、異様な気配を肌で感じているようで、落ち着かずにそわそわと辺りを見回していた。
この禍々しい「赤黒さ」までは阿にはまだ見えず、ただの薄気味悪い黒い靄としてしか捉えられてはいないだろう。
「阿よ、丹田に力を籠めよ。」
私が低く声をかけると、
「ははっ」
と、阿は血の気の引いた顔で、必死に歯を食いしばった。
「お疲れのところ、このような野良にて失礼つかまつる」
と名主殿から挨拶を受けた後、続けて館へ誘われた。
「牟婁より伺っております。まずは足手水を。すぐに御前の用意もさせますゆえ、どうぞこちら(館)でお体をお休めくだされ」
ありがたいもてなしではあったが、私はそれを固辞した。
一刻の猶予もないほどの魔気だったのだ。
「いやいや、たいして手間はかかるまいて。なので直ぐにでも、御山に入りまする。が、その前に久方ぶりに会うた牟婁と少し話がしたい」
私は笑顔を作ってそう告げると、皆から離れて牟婁と二人で並び、不気味に静まり返る御山を仰ぎ見た。
後ろの方では、阿が肩を震わせて控えているのが気配で分かった。
私は友の元猟師と少し世間話をした後に、師から授けてもらった護符が入っている懸守を首から外し、彼の首に掛けた。
「ひとつ頼まれてくれんか。明日、今の刻限、あの御山の東の峰の肩に日が差し掛かるまでに戻らぬ時は、この懸守を広場の真ん中で焚いてくれ。それから明日の日が落ちるまでは、何人たりとも御山には入れないでくれ、頼んだぞ」
と柔らかく微笑んだ。
「そう緊張するな、牟婁よ。先ほども名主殿に申した通り、手間はさほどかかるまいて。」
と言ってみたが、彼は私の顔を見て察したのか、何か言いたげな顔をしていたが、ただ黙って頷いた。
劫牛坊殿が御山に入る前に、託された鈍色の懸守。
俺は首に掛けられた懸守と彼の顔を見て、後悔をしていた。
懸守を首に掛けられた時、今まで見たこともない緊張が、彼の顔に一瞬浮かんだからだ。
その緊張が俺にも伝わった。
……それ程の事だったのか……。
託された懸守の護符が何なのかは分からないが、手に取っただけで尋常な物ではないのが分かる。受け取った手の震えが、止まらないのだ……。
ー手間はさほどかかるまいー
と最後に言ってはいたが……。
……戻らぬ時は……。
懸守を託した刧牛坊殿は、その後一度も振り返らずに、お弟子と共に御山に入っていった。
ず~んじゃら~ん、ず~んじゃら~んと地に響くような錫杖の音だけを残して。その背中を見送る俺の口からは、かける言葉は出てこなかった。
ただ、心の中では叫んでいた。
―無事に帰って来てくれー
と。
********
御山の入口の大きな杉の木二本の間に注連縄が張られている。
その前に立ち持参した洗米を捲き、竹筒に入れた酒を捲き、空中に四縦五横の線を切りながら真言を唱えた。。
「懺悔・懺悔、六根清浄」
最後の一節を低く地を揺るがすように唱え終えたその瞬間、御山の深い森の深淵から、かつて劫牛坊が挑んだ頃にはあり得なかったほどの、圧倒的な呪詛と殺気の交じり合った昏く赤黒い魔気が吹き流れて来た。
阿の開眼したばかりの少ない感覚は、完全に許容量を越えていたため、魔気の全てを捉え切れなかった。脳は理解を拒絶しているのに、体だけが本能的な恐怖に晒され、膝が細かく震えていた。
(今日こそ、自分が収めるのだ)
阿は己の震えを、敵を前にした「武者震い」だと思い込んだ。劫牛坊がかつて修行したというこの御山で、今度は自分が師の手を煩わせることなく、すべてを解決してみせる。そんな根拠のない自惚れが、恐怖を覆い隠す盾となった。
劫牛坊が注連縄を超え、山側に一歩前に踏み出した。
……一切の音が消えておる。鳥も虫も、風までも死に絶えたか…。
いや違う……山神様が、御隠しになられたか…。
ーこの重苦しさは、まるで人魔の境を越えたような心地よー
この魔気……山神様の御業ではない…。
なぜ山神様が……沈黙した……。
「阿よ、足を踏ん張れ」
「ははっ!」
私は己の震える脚を、強引に一歩前へ踏み出した。
師父様が注連縄を越え、地を蹴った。
お年を召してもなお鋭いその踏み込みは、あの重き錫杖を手にしていながらも、まるで重さを感じさせず疾風となって駆け出された。
私もそのすぐ後ろにつき、漆黒の山道を駆け抜けた。
「目指すは、中腹にある仮屋だ。」
と走りながら師父様が怒鳴った。
「ははっ。」
と私も声を荒げて応えた。
神の消えた御山へと、老いた山伏と若き山伏が、二筋の影となって吸い込まれていった。
*「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空のものであり、実在のもの歴史上のものとは関係ありません」
