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『ライオン・キング』解体新書──DNAが喜ぶ物語の構造

先日、映画「ライオン・キング」を観た。もう何回目になるだろう、観るたびに深い感動が訪れる。その感動は、本当に、いつまでも色あせない。私は、ライオン・キングこそ、原点にして頂点の物語だと思う。

もちもん、他にも素晴らしいディズニー映画はたくさんある。しかし、ライオン・キングの完成度は別格のように思える。感動の火が消えないうちに、この伝説的な映画について、記事を書くことにした。

音楽が素晴らしい、キャラクターが愛くるしい、画がきれい、など見逃せない魅力を多数持っている本作だが、今回は、その物語の構造、テーマ性に焦点を当てて、深堀りしてみた。

ライオン・キングのあらすじが頭にはいっていなくても読めると思うが、クリアに入っていれば入っているほど、共感していただけるのではないかと思っている。

DNAが喜ぶ物語

最初に結論めいたことを言うが、ライオン・キングが原点にして頂点に君臨しているのは、その物語構造とテーマ性にあると思う。人間が古今東西語り継いできた普遍的なテーマが、あらゆるシーンに姿を変えて織り込まれている。聖書からフロイト、神話にいたるまで、ライオン・キングのいたるところに”原初の物語エッセンス”とでも呼べるものが、散りばめられている。これこそ、他作を寄せ付けない魅力になっているのではないか、そう仮説を立てた。

では、時系列で中身を追っていくこととする。

①スカーの劣等感と“敵は身内にあり”の構造

まずは、スカーに焦点をあてる。なぜなら、彼がいないと物語が始まらないからだ。ムファサの盤石な帝国を揺るがすには、強烈な悪役が必要だ。

ここでまず引き合いに出すのは、カインとアベルの物語だ。聖書に載っている物語だが、詳細を知っている人は少ないかもしれない。少し解説しよう。

アダムとイブの息子たち、兄カインと弟アベルは、それぞれ異なる職業についていた。
カイン:農耕民(地を耕す者)
アベル:牧畜民(羊を飼う者)
ある日、彼らは神(ヤハウェ)に捧げものをする。カインは、地の作物を捧げた。アベルは、羊の初子(最良の部分)を捧げた。
しかし、神は、アベルの供物だけを喜び、カインの供物を退けた。このときカインは激しく怒り、顔を曇らせる。
神は彼に警告する:
「罪は戸口で待ち伏せている。だがお前はそれを支配しなければならない」
しかしカインはその警告(感情を手なずけろ)を無視し、弟アベルを野に連れ出して殺害する。

※聖書における最初の殺人事件であり、同時に兄弟殺しという人間の根源的罪を象徴するエピソードとなる。

人類史上最古の殺人は、兄弟間である。兄弟のいざこざというのは、世界各地の神話に見られる。日本神話のアマテラスとスサノオ(姉弟)などもその典型だ。もちろんインド神話にも、ギリシア神話にもある。兄弟間の妬みというのは、人間の原初的な感情なのだ。ありていに言えば、「近い存在」ほど「比較」され、「承認を巡る争い」が激化する。ということになるだろう。スカーの嫉妬心は、人間であれば誰にとっても、無視できない感情だ。痛いほどわかる感情だ。これ以上の敵役がいるだろうか。

スカーに関して、さらに、もう一つの視点もある。それは、スカーが”身内の敵”だというものだ。はじめから、スカー=悪役と認識できているのは、我々だけ、である。ムファサにとっても、シンバにとってもスカーは最後まで敵だと感知できない存在だ。これほど厄介な敵はない。だからこそ、面白い。よくあるミステリの常套手段で、読者にのみ犯人が明かされて、登場人物はその真実を徐々に理解していく、というものがある。古畑任三郎とかね。もっと高尚なところでいくと、ギリシャ悲劇(オイディプス王)、シェイクスピア(リア王、オセロ)、スター・ウォーズなどでも繰り返し使われている。この構造は、主人公の無知と悲劇を強調して、物語に痛切な緊張をもたらす装置として働く。なんとも、すばらしい敵役、なんとも素晴らしい見せ方、ではないか。

②タブーと教育の通過儀礼

シンバがムファサの言いつけを破って、ナラと象の墓場へ探検に行くシーンがある。結局、ムファサに助けられ、事なきを得る(ムファサが殺されるのはまた別のシーン)のだが、何気ないこんなシーンにも深い意味がある。

一つは、「タブーを破ってこそ、真の学びが得られる」という真理の発露だろう。シンバはムファサに叱られることになるが、代わりにより重要な学びを得る。

・強くなければ何も守れないということ
・強い者(王たるムファサ)にも怖いこと(シンバを失うこと)が存在するということ

である。いささか逆説的だが、いつまでもルールの中にいる者は、英雄にはなり得ない。これはこの世の真実である。火を盗んだプロメテウスにしても、家族を捨てて悟りを開いた釈迦にしても、まずルールの外に出る、という工程があったのである。

シンバは、王の素質を証明するために、言いつけを破って教育を得る必要があった。そのことを我々は、心の奥底で理解しているのだ。

また、この像の墓場エピソードにはもう一つの顔もある。それは、ナラとの記憶の共有である。後述するが、ナラはこの物語を支える骨子である。幼馴染であり、将来の妻であり、過去を知るものであり、責任(トラウマとの対峙)を要求するもの、である。

ライオン・キングが物語の原型を踏襲するために、ナラはシンバと過去を記憶を共有する必要があるのだ。実際には、副題として見過ごされそうな象の墓場エピソードもこのような重要な役割があるのだ。

③ハクナ・マタタ:現実逃避と抑圧の章

ムファサがスカーの計略で殺されたことは、シンバにとってトラウマである。シンバは、自分のせいで父が死んだと思っているからである。

この苛烈な状況にあらわれるのが、ティモンとプンバァと合言葉の「ハクナ・マタタ」である。

※ハクナ・マタタとは、スワヒリ語で「大丈夫、心配ない」という意味

自分のトラウマが手に負えないほどになったときどうするか。人は、その記憶を無意識へ追いやって、とりあえず生き延びなければならない。過去を塞ぎ、記憶を抑圧し、過去の影が一切ない環境で生きるしかない。

彼らとの出会いもハクナ・マタタの精神も、シンバにとってはこれしかなかった生きる道である。最終的に勝つために、とりあえず今逃げることを、人間は、これまで数多くやってきた。これもまた、英雄の典型的な姿である。ヨセフにしろ、モーゼにしろ、釈迦にしろ、である。すべての英雄には、“隠れ期間”がある。その時期は、現実を逃れることで、自分を守り、力を蓄える時間だ。逃げたことを恥じる必要はない――むしろ、それこそが「帰還の条件」なのだ。”逃げ恥”なんて言葉も一昔前には流行ったが、本来、逃げるのは恥でもないし、役に立つ、というレベルの問題ではない(もっともっとすごい)。

人は、この苦心の時を過ごす者を目の当たりにして、応援せずにはいられない。それは、彼らこそが最終的に大衆に富をもたらす王であり英雄である可能性が高いことを、遺伝子レベルで理解しているからである。(まぁ、性善説に立てば、という条件付きだが)

④ナラの存在:責任との対峙を迫るもの

抑圧は必要だが、抑圧下の成長には限界がある。ある日、星空を見ていたシンバは、星の光は祖先の魂だという話を聞き、いたたまれなくなる。無意識に封印しているはずのトラウマが、不気味にうごめいているのである。

そして決定的なのが、ナラとの再会だ。彼女は、シンバの過去を完全に共有している。彼女はシンバにとってかなり複雑な意味を持つ。

ナラはシンバが本当の王であることを知っている。そして、そうなることを望んでいる。ということは、シンバがナラの愛を獲得するには、過去に向き合い、トラウマを乗り越える必要があるということだ。いわば、ナラは、忘れられた抑圧の記憶を呼び起こし、愛と共に主人公を“責任”へと導く「魂の触媒」である。

「愛と再生」は、いうまでもなく、また引き合いに出すまでもなく、古今東西の幾多ある物語テーマのセンターピンである。ど真ん中である。心理学的にいえば、ナラとの再会シーンは、エディプス的な深層心理に根ざした成長物語の構造と完全に呼応している。父のトラウマを克服した者だけが、成熟し、一人前となりうる。そして、一人前の大人だけが、愛を獲得し、子孫を残せるのだ。

ナラは「愛の対象」であると同時に、「過去の象徴」(かつての自分を知る者)であり、「未来の責任」(群れを再生するパートナー)でもある。ナラは、ただの“ロマンス”ではなく、“責任ある未来”の具現だ。ナラの存在こそ、ライオンキングをただの子ども向けのお話にとどまらせず、人生の普遍的な寓話に昇華させている最大の功績者である可能性が高い。

⑤ ラフィキというトリックスター:世界の反転を促す者

トリックスターは神話や民話に頻出する、規則を破り、常識を揺るがす存在のことだ。孫悟空しかり、ロキしかり、スサノオしかり、だ。

彼らは、いつも境界にいて、物事を根本から変える示唆を与える。だがその本質は「単なる破壊」ではなく、「創造の前段階としての撹乱」だ。

ラフィキは、物語におけるトリックスターの典型的な役目——すなわち、「現実の見え方を根本からひっくり返す存在」として機能している。もちろん、ロキなどのように最終的に破滅をもたらす悪役ではなくで、あくまで味方なのだが、その仕事はいたってトリックスター的だ。

つまり、シンバのトラウマをシンバの希望にすり替えてみせたのである。シンバが、ラフィキに連れられて、星の降る夜に湖の水面を眺めると、そこには父ムファサの姿があった。そして、ムファサは、シンバの心の中にいつもいる、と言う。

父の死というトラウマは、この瞬間に、父はいつでも自分の心に同居している、という希望にとって代わる。シンバにしてみれば、まさしく”世界が変わった瞬間”である。英雄の内的世界の変化は、そのまま現実の変化として現れる。

シンバは、もう一度プライドロックを目指して歩みだすが、ここに至るには、抑圧下での成長、愛の再生、と同じくらい重要な、トリックスターによる世界の反転、がなくてはならなかったのである。

補足すれば、トリックスターはしばしば、賢者であったりシャーマンであったりする。あるいは、犯罪者だったり、追放されし者であったりもする。これはとりもなおさず、彼らが生と死、あちらとこちら、善と悪、などの境界線上に住民票をもつ存在であることを示している。ラフィキは、賢者型トリックスターといえるだろう。

あえてもっと突っ込めば(めんどくさかったら⑥まで飛ばしてください)、トラウマが希望にとってかわるこのシーンは、精神分析学的に、父の内在化に成功した瞬間ともいえる。同一化と呼ばれるこの過程は、子どもがエディプスコンプレックスを乗り越え、超自我を発達させ、たくましく育つためになくてはならない発達段階である。参考までに↓


⑥そして、トラウマ克服へ

スカーとの最終決戦で見逃してはならないのは、スカーは身から出たサビの結果として、ハイエナに殺されたのであって、シンバに殺されたわけではない、ということである。

もちろんディズニー映画という上品な仕様上、いかなる理由であれ、主人公が他の者を殺める、ということがあってはならないのかもしれない。そういってしまえば、話は単純である。

しかし、である。本当にそれだけだろうか。
ここであるコトバを思い出そう。

問題は、それが生じた時と同じ意識レベルでは解決できない

アインシュタインの名言

問題=トラウマだとすると、こう言い換えられる。トラウマは、発生原因と同じ次元にいたのでは、解消できない、と。

これは心理学的な真理だろう。メンタル疾患は、おのれの俯瞰化によって寛解していくことが極めて多い。一歩引いてみる、一つ上から見る、とらわれから離れて客観的にみる、ということは、悩みの次元から自分の居場所をより高次へ移す行為に他ならない。

シンバの場合はどうか。彼は、目には目を歯には歯を、を採用しなかった。彼は、宿敵を「殺める」よりも「真実を明らかにしたうえで赦す」ことを選択した。これは、彼が完全にトラウマを克服した(より高次の場所へたどり着いた)ということに、強烈な説得力を与えている。

さらに、この選択の恩恵を受けるのは、シンバだけではない。「ムファサを殺したのがスカーだったという真実を明かす」という解決は、プライドランド全体の利益となった。ここにも、「己のための復讐(低次元)」から「仲間たちの幸せ(高次元)」へ、という結果の次元昇華が見られる。

トラウマの克服を単なる復讐に終わらせない。そこには、クリエイターたちの極めて深い人間社会への洞察があるように感じられてならない。

⑦余韻の雨

最後、シンバがプライドロックで王の信認を受ける瞬間に雨が降っていたのは、非常に象徴的だ。スカーの死と共に火が消え、雨が降る。恵みの雨。天のムファサの涙。完全なトラウマの消去であり、怒りの炎の消滅である。


また、雨は、語られなかった父との対話であり、トラウマを抱いた魂が、ようやく世界に受け入られる瞬間の祝福である。

ここへきて、ようやく命は循環するのである。



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