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チュチュ・テイル─巡る想い 【#創作大賞2026 | #オールカテゴリ部門】

挿絵とともに紡ぐ、
「チュチュ・テイル」の小さな旅の記録。
本作は、全5話・約18,000字の物語です🌙

ささやきの滝と旅人エトワール


【あらすじ】

言葉にならなかった想いは、泡になって巡っていく。
花と魔法に包まれた世界「チュチュ・テイル」
雲の上に浮かぶフルール島では、届かなかった想いや、言葉になれなかった気持ちが、静かに巡り続けています。
フルール島を旅する白いうさぎのエトワールは、滝のほとりで、行き場を失った言葉たちが泡となって漂う不思議な場所に出会います。
ひとつの泡に触れたことをきっかけに、エトワールは、魔法の花園の奥へと導かれていきます。
土の巡りを整えるモグラのルートとともに、4つの庭をめぐる中で、言葉にならなかった想いが、少しずつ誰かのもとへ届いていく瞬間に立ち会うことに。
その旅の中で、エトワール自身の胸の奥に眠っていた、言葉にできなかった記憶も、静かに浮かび上がっていきます。

挿絵とともに読む、やさしさが静かに巡る物語です🌙





【第一話】 ささやきの滝で消えゆく言葉

パチン。

小さな泡が、ぼくのすぐそばで、はじけました。

「……ごめんね」

声は、水音のあいだに、ふわりと落ちていきます。
振り返っても、誰もいません。

――その声を聞いたとき、胸の奥がほんの少しだけ揺れました。

段々に重なる、小さな滝。
やわらかな光をまとった水が、静かに流れ落ちています。
その先は、海へと続いていました。

あたりには、大小さまざまな泡が、静かに漂っています。

パチン。パチン。
はじけるたびに、声がしました。

「うれしい」
「げんきになって」
「ほんとうはかなしいんだ」

どの声も、切なくて、それでいて、あたたかさを残していました。

――なぜか、どれも他人のものとは思えませんでした。
まるで、どこかに置いてきてしまった言葉のようで。


ささやきの滝に漂う言葉の泡


──ぼくは、エトワール。白いうさぎの旅人です。
雲の上に浮かぶ島、フルール島を、ひとりで歩いています。

さきほどまで、フローラの森の「春のめぐみ祭」の賑わいの中にいました。
星の泉から飛んできた願いの光が、夜空のシャワーのように降りそそぐ祭りです。

その賑わいから少し離れたくて、
ぼくは魔法の花園へと続く花の道を歩いていました。

誰もいない、静かな空気を、ゆっくりと吸い込みます。

そのとき、森の奥から、かすかな水の音が聞こえてきたのです。
気になって、花の道をそれて、奥へ足を進めました。

水の音が、少しずつ大きくなります。

視界がひらけました。
音の先にあったのは――あの滝でした。

やわらかな光をまとった水が、静かに流れ落ちています。
その先は、海へと続いていました。

ささやきの滝


その光景に立ち止まっていると、
ぼくのすぐそばに、透明な泡がふわりと近づいてきました。

パチン。

「……ありがとう」

はじけた瞬間、また声がしました。
とても小さくて、どこか切ない響きです。

泡たちは、滝の流れへと、静かに沈んでいきます。

――そのときでした。

ぼくは、ひとつだけ、流れに乗れない泡があることに気づきました。

ほかの泡たちが、すうっと沈んでいく横で、
その泡だけが、同じ場所をゆっくりと漂っています。

声もありません。
はじける気配もありません。

ただ、そこにいます。
どこへも行けないまま。

ぼくは、その泡をしばらく見つめていました。
立ち去ろうと思えば、できたはずです。

でも、ぼくの足は、動きませんでした。

気がつくと、ぼくは、ゆっくりと手を伸ばしていました。
そっと、指の先が、泡に触れます。

ふれた瞬間――かすかに、声がしました。

「……つたえたかった」

小さな、小さな声でした。

漂う泡から聞こえる声


……なぜか、胸の奥が、ほんの少しだけ、苦しくなりました。

そのとき、ふと、思い出しかけたのです。

その子は、いつも、ぼくの知らない景色を知っていました。

遠くの国の空の色のこと。
まだ見たことのない景色のこと。

それは、思い出そうとすると、するりと遠ざかってしまうような――

……そんな、感覚でした。

言えなかった言葉の輪郭に、手をのばしかけて――

……消えてしまいました。

ぼくは、指の腹で、その泡をそっと流れの方へ押し出しました。

ぽかりと、泡は静かに漂って――やがて、水の流れに乗り、ゆっくりと沈んでいきました。

パチン。

はじけた音は、ほかの泡よりも、ほんの少しだけやわらかく聞こえた気がします。

「……見えておったか」

ふいに、声がしました。
――その声は、すぐ後ろから聞こえたはずなのに。
いつからそこにいたのか、まったくわかりませんでした。

振り返ると――
古い杖を手に、静かに立っている、年老いたヤギの姿がありました。

気配がなかった、というより。
はじめから、この場所の一部のように――そこにいました。

年老いたヤギとの出会い


「ここは、ささやきの滝と呼ばれておる場所じゃ」

ヤギは、ゆっくりと言葉を紡ぎます。

「ここへ流れてくる泡はのう、行き場を失った言葉たちじゃ」
「言えなかった言葉も、届かなかった想いも、こうして形を変え、ここへたどり着く」

ぼくは、滝のほうをもう一度見つめました。
泡たちは、変わらず、静かに沈んでいきます。

「じゃがな――ときどき、おる」
「流れに、乗れぬ泡が」

「迷うてしまう声、というのかのぉ」

その視線が、ゆっくりと、ぼくに向けられました。

「そういうものに、気づける者は、そう多くはおらん」

その目は――
ぼくを見ているようでいて、もっと奥の、ぼくの中にある何かを見ているようでした。

しばらくのあいだ、言葉はありませんでした。

けれど――見透かされているような気がして、
ぼくは、息を整えることしかできませんでした。

「……巡りは、ときどき、思いがけぬところへ手をのばす」

それだけ言って、ヤギはまた滝のほうへ視線を戻しました。

滝の先を見つめる2人


ぼくは、自分の手のひらをそっと見おろしました。
ほんのわずかに、ぬくもりが残っているような気がしました。

「……消えてしまうのですか」

気がつくと、声が口からこぼれていました。

ヤギは、やわらかく目を細めます。

「消えはせん。巡るのじゃ」

巡る――という言葉が、胸の奥に静かに落ちていきます。

「……お名前を、聞いてもいいですか」

ぼくが尋ねると、ヤギはほんのわずかに間を置いて、答えました。

「……ヴェール、と呼ばれておる」

そして、こう続けます。

「おまえさんは――旅人エトワール、じゃな?」

ぼくは、息をのみました。

どうして、その名前を知っているのか。
問いかけようとして――言葉が止まりました。

ヴェールは、何も説明しませんでした。
ただ、やわらかな光をまとったまま、静かに立っています。

「この先に――魔法の花園がある」

「奥へ進めば……“花園の奥にいる者”に、気づくこともあるじゃろう」

それ以上は何も言わず、
ヴェールは杖をゆっくりと花の道へと傾けました。

目を細めて、やわらかく微笑むだけでした。

花園の奥にいる者――

ぼくは、その言葉をそっと胸の中でくり返しました。

そして――

滝の音を背にして、光の続く道へと、静かに歩き出しました。

魔法の花園につながる花の道



【第二話】 森の庭と太陽ソレイユの光

滝の音が、少しずつ遠くなっていきます。

ぼくは、フローラの森の花の道へと、もどっていました。

やわらかな光が差し込むその道は、どこか懐かしい気がします。
最初の旅で通ったことがある場所でした。

花の香りが、ふわりと広がります。

歩きながら、ぼくは、自分の手のひらを、そっと見おろしました。

ほんのわずかに、まだぬくもりが残っているような気がしました。
あの泡に、触れたときの──。

ふと、思いました。

ぼくが、これまで声にしなかった言葉たちも──
あの滝のどこかに、流れ着いているのでしょうか。

……なぜか、
思い出しかけた言葉が、ありました。

あのとき、言えなかったまま、
そのままになってしまった言葉です。

そのときでした。

目の前の花が、ふいに揺れました。

土の中から、小さな影が現れます。

花のあいだに穴を開けて、上半身だけ姿をあらわしたのは、土をかぶったモグラでした。

土をかぶったモグラとの出会い

小さな瞳を閉じて、鼻の先をクンクンとさせながら──
まっすぐ、ぼくのほうを見上げます。

「……ねぇ、そこのうさぎさん」
「ささやきの滝の香りを、運んできた?」

ぼくは、足を止めました。

それなのに、この問いかけが、不思議に感じられなかったのは──
さきほどのヴェールと似た、どこか当然のような口ぶりのせいかもしれません。

ぼくは、ゆっくりとうなずきました。

「やっぱり、においがすると思った」

モグラは、うんうんと頷きます。

「ヴェールのじい様に、会った?」

「はい」

「そっか。巡りに導かれたんだ」

「ぼくは、ルート」

そう言って、モグラは「よいしょ」と呟くと、ゆっくり土の中から出てきました。

「この花園で、土の巡りを整えてる」

「……エトワールです。フルール島を旅しています」

ルートは、確かめるように、もう一度鼻の先を、くんっと動かします。

「行く?」

ぼくは、少しだけ受け止めてから──
小さく頷きました。

ルートのあとを追うように、
ぼくは、静かに足を進めました。

ルートと一緒に魔法の花園へ

花の香りが、少しずつ濃くなっていきます。
やわらかな風が、頬をなでました。

そして──

魔法の花園の入り口にたどり着きました。

ぼくは、一度だけ深く息を吸い込みます。

足元の土は、少しだけやわらかく、
ほんのりとぬくもりがありました。

光は、葉のすきまからこぼれて、ゆっくりと揺れています。
どこからか、水の流れる音も聞こえてきます。

「ここは、フェアリーキャット様のお力が流れている“森の庭”」

ルートは、鼻を上に向けて、ゆっくりと空気を吸い込みながら言いました。

森の庭

「魔法の花園にはね、四つの庭があるんだ」

「森の庭、しあわせの庭、ときめきの庭、月の庭」

「それぞれの庭には、プリンセスキャット様たちのお力が流れていて」

「四姉妹が、それぞれ、その場所を見守っている」

ルートは、少しだけ間を置いて、続けました。

「森の庭はね――
やさしさが、ゆっくりと芽吹く場所」

「しあわせの庭は――
あたたかい気持ちが、広がっていく場所」

「ときめきの庭は――
想いが、かたちになろうとする場所」

「月の庭は――
まだ言葉にならないものが、静かに眠っている場所」

しばらく歩いて、森のような一角に出たときでした。

ルートが、ふいに立ち止まります。

「……呼ばれた」

そうつぶやいて、静かに目を閉じました。

ぼくは、何も言えずに、その横顔を見つめます。

すると──

ルートのまわりに、淡い光の粒子が、ひとつひとつ集まり始めました。

ひとつ、またひとつ。

まるで、息をするように、やさしく揺れています。

ルートは、その粒子のほうへ、静かに手を伸ばします。

言葉は、ありません。

ただ、うなずいています。

光に手を伸ばすルート

「……うん」

しばらくして、また。

「うん」

ぼくは、思わず小さく首をかしげました。

――だれと、話しているのでしょう。

やがて、光の粒子たちは、森の奥へと続く光の道を描きました。

ルートは、目をひらいて、ぼくを見ます。

「源流に、行かないといけない」

ぼくたちは、光の道をたどりながら、森の庭の奥深くへと進みました。

木々の奥へ、もう少しだけ進んだところで──
ツタの柵に囲まれた場所が現れました。

ルートが、その柵にそっと手と額をくっつけます。

すると、スルスルとツタが動き始め、
視界が一気にひらけました。

ツタの柵

──ぼくは、息をのみます。

そこは、まるで光そのものが降り積もったような場所でした。

空から注ぐ光が、金色に近い色をしています。

草花は、どれも背が高く、力強く、
そしてやわらかく、咲き誇っていました。

地面に触れると、足の裏から、
あたたかい大地の力がじんわりと伝わってきます。

「この場所はね、太陽ソレイユの力が、満ちている場所」

森の庭の奥へ

ルートは、目を閉じて両手を広げ、
空気を取り込むように深呼吸しました。

しばらく歩くと、
虹色に光る小川の一部に、流れの悪くなっている場所がありました。

木の枝や葉っぱがたまり、
そこだけ川の色が、わずかに濁っています。
大小入り混じった泡の塊も、沢山くっついていました。

ぼくは、そっと手を伸ばします。

ひとつ、泡に触れた瞬間──

指先に、絡みつくような重さが残りました。

漂う木くずに混じって、
流れていかないものが、そこにありました。

ルートは迷うことなく川に入り、
木の枝を拾い始めます。

ぼくも、その隣にしゃがみこみ、
ひとつずつ、手に取っていきました。

流れをせき止めていたものが、少しずつほどけていきます。

やがて──

水が、すうっと動きはじめました。

そのときでした。

とどまっていた泡たちが、ポコポコと、はじけ始めます。

「……ありがとう」

どこかから、小さな声が聞こえた気がしました。

すると、小川から、金色の光の波紋が広がります。

ひとつ、またひとつ。

川を越えて、花の根元まで、やわらかく届いていきました。

小川から光の波紋が広がり続ける


「……ここの光が、小川を生んでいるんだ」

「ここが眠ると、川が滞る。川が滞ると、魔法の花園の土も固くなる」

ルートが、ぼくを優しく見つめて言います。

「ぜんぶ、つながってるんだよ」

ぼくは、その光の波紋を、じっと見つめていました。

巡る──

ヴェールの言葉が、ふと、よみがえりました。

「土はね、全部覚えているんだよ」

ルートは言いながら、てのひらで足元の土をそっと押さえました。

「水も、においも、根っこが張った跡も。全部ここに残ってる」

ぼくは、土の表面を見つめます。

――言葉も、残るのでしょうか。

言えなかった言葉も。
届かなかった想いも。
消えてしまうわけではなく、どこかに、こうして――。

「エトワール?」

ルートが顔を上げました。

「どうかした?」

「……なんでもない、です」

ぼくは、小さく首を振ります。

そう言いながらも、
指先に残っていた重さを、
まだ、うまく手放せずにいました。

ルートが、立ち上がります。

「これで、川も、花たちも、また元気になるはずだよ」

ルートは、もと来た道を歩き始めました。

ツタがもとの場所へ戻り、視界がふさがれます。

森の静けさが、戻ってきました。

……歩き出そうとした、そのとき。

ふと、気づきました。

指先に残っていた重さが、
いつのまにか、消えていたことに。

さっきまでとは、何か空気が少し違う気がしました。

足元の土でも、肌に触れる温度でもなく──もっと奥にある、何か。

まるで、ずっとそこにあったものに、
ようやく気づいたような感覚でした。

不思議な感覚に戸惑いながらも、
ぼくは、また歩き出しました。

風が、花園の奥から吹いてきます。

その香りの中に、
まだ知らない場所の気配が、
静かに混ざっていました。

森の庭をあとに


【第三話】 しあわせの庭といちご園

ルートが、鼻を上に向けて、くん、と空気を吸い込みました。

「……あ」

小さく声をもらします。

「こっちで、甘いティーパーティやってるみたい」

甘い香りが風にのって、ふわっと通り過ぎました。

けれどルートは、すぐには歩き出しませんでした。
もう一度だけ、鼻を上に向けます。

「……甘いにおいの奥に、少し重い土のにおいがする」

小さくつぶやいて、それきり何も言いませんでした。

ぼくたちは、その香りに導かれるように、また歩き出しました。
甘い香りは、歩みを進めるごとに少しずつ濃くなっていきます。

光の粒子が、ふわりと先を照らしていました。

やがて、森の景色が変わり始めました。

バルーンや、いちごの形をしたランタンが道案内のように並び、その奥に、花とリボンで飾られた大きなアーチが見えてきます。

アーチの向こうからは、かすかな音楽と、楽しそうな笑い声が聞こえてきました。

「ここからは、シュガーキャット様の“しあわせの庭”」

しあわせの庭の入り口


ルートが、鼻を上に向けて香りを確かめながら教えてくれます。

アーチをくぐると、
そこには大きな日よけのシェードが張られ、たくさんの動物たちでにぎわっていました。

テーブルには、ケーキやクッキー、マカロン、そして真っ赤ないちごが、かごいっぱいに並んでいます。

お茶を飲み、お菓子を食べ、
誰もが楽しそうに笑っていました。

「わぁ〜、ルート! 土の上にいるの、めずらしいね♪」

はずむような声に、ぼくは顔を上げました。

淡くて白い毛並みの猫が、
くりくりとした目を輝かせて、こちらへ駆けてきます。

走るたび、胸元のリボンがふわふわと揺れました。

「呼びに行こうと思ってたんだよ〜!
あっ、後ろのうさぎさん……もしかして、シュクレの村に遊びに来てくれた旅人さん?」

──シュクレの村。

明るい声を向けられて、
ぼくの足が、ほんのわずかに止まりました。

はじめての旅で訪れた、甘い香りの村。
帰りぎわに、小さなてのひらに乗せて渡してくれた、しあわせのカケラ。

シュクレの村で渡された幸せのカケラ


「……あのときは、ありがとうございました」

「ぼくは、エトワールといいます」

「シュクレの村のシュガーキャットだよ♪ また会えて嬉しい!」

シュガーキャットは、にっこりと笑って、
ぼくの手をぎゅっと握りました。

……こんなふうに、誰かに触れられたのは、いつぶりだったでしょうか。

そのあたたかさに、
ほんの少しだけ、戸惑いを覚えました。

ぼくの手は、そのまま動かないままでした。

……どうしてなのか、うまく、わかりません。

けれど――
握り返すことができませんでした。

そんなことを気にする様子もなく、
シュガーキャットは、ぱっと顔を明るくして言います。

「せっかくだもん、まずはお茶にしよ♪
今日のクッキー、すっごくいい香りなんだよ〜」

そのまま、ぼくとルートを引くようにして、
ティーパーティの輪の中へ連れていきました。

ティーパーティを楽しむ動物たち


シェードの下は、笑い声と、お菓子の甘い匂いと、
カップの触れ合う音でいっぱいでした。

「はい、エトワールさんもどうぞ♪」

差し出された小さなカップを、ぼくは両手で受け取りました。
カップから、甘い香りがふわりと立ち上ります。

そのときでした。

ふと、気がつきました。

甘い香りの奥に、ほんのわずかに、重いものが混じっている。

胸の奥に引っかかるような。
その場に留まるような。

ぼくは、いちごの盛られたかごのほうへ、視線を向けます。

ちょうど同じころ、
シュガーキャットも、いちごのかごに目を向けていました。

ほんの少しだけ表情を曇らせて、
楽しそうな空気を崩さないように、まわりを見てから、そっとかごへ近づきます。

「……気になる事があるのですか?」

その様子を見て、思わず問いかけました。

シュガーキャットは大きい目をますます丸くして、表情を輝かせます。

「そうなの!なんか、元気ない気がして。
……ルートに、聞いてみようかなって思ってたの」

彼女は、そっとかごのいちごに手を伸ばし、
やわらかく撫でるようにして触れました。

「昨日、あんなに晴れてたのに」

その声には、心配の色が混じっていました。

「こんなこと、あまりないんだよね」

ルートは、少し間をおいてから言いました。

「見てくるよ」

「ねえねえ、わたしも行く!
だって、いちご園のいちごだもん」

シュガーキャットが真剣な眼差しでルートを見つめて、
ぎゅっと、いちごのかごの端を握ります。

「シュガー様……!」

少しあきれたような声とともに、
ミルクティー色のやわらかな毛並みの猫が近づいてきました。

整えられたエプロンとリボン。
落ち着いた立ち居振る舞いの猫でした。

「ひとりで行くつもりじゃないですよね?」

「ミエルも、心配しすぎだよ〜」

シュガーキャットは、くすっと笑いました。

「……もう、しょうがないですね」

ミエルと呼ばれたその猫は、小さくため息をつきました。
けれど、その目は優しくシュガーキャットに向けられていました。

それから、ぼくのほうを見て、丁寧に一礼します。

「シュガー様のサポートキャットのミエルと申します。
……いつも、こんな感じなんです」

最後の一言は、少し困ったような微笑みで。

サポートキャットのミエル


ぼくたちは、にぎやかなパーティの場を離れ、しあわせの庭の奥へと進んでいきます。

光の粒子が、淡く道を照らしています。

音楽や笑い声が少しずつ遠のき、
やがて静かな空間に、いちご園が見えてきました。

赤く色づいた実が、たくさん揺れています。

けれど──
葉の先が少し下を向き、本来の鮮やかさが失われているように見えました。

ぼくは、いちごのそばにしゃがみこみます。

甘い香りの奥に、
ほんの少しだけ、息のつまるような重さが混じっている気がしました。

土に、そっと手を触れます。

──なぜか分かりませんが、
土の奥に、何かがやわらかく沈んでいて、流れずに、とどまっているような気配がしました。

いちご園の土に触れるエトワール


隣では、ルートが迷うことなく土の上にしゃがみこみました。

少しだけ間をおいて、空気を確かめるようにしてから、
はっきりと言います。

「このあたりだね」

ルートは、光がかすかに揺らいで見える地面に手を当てました。
そのまま、土をかき分け、地中へと潜っていきます。

風が、やわらかく吹き抜けました。

シュガーキャットとミエルは、息をひそめてその様子を見つめています。

ぼくは、土の奥でとどまっている流れの源が、少しずつ地上に近づく気配を感じていました。

やがて土がふわりと動き、
その光のそばから、ルートが上半身を出します。

手には、やわらかな土が少しだけすくいあげられていました。
その土からは、揺らぐ光が微かに見えます。

ルートは、その土を見つめながら、はっきりと言いました。

「ここで、止まってる」

シュガーキャットが、小さく首をかしげます。

ルートは、すぐには答えませんでした。
その土に触れたまま、少しだけ目を閉じて。

しばらく、誰も何も言いませんでした。

やがて、ぽつりと。

「……まだ、流れてない」

「え……?」

ルートは、手の中の土をそっと開きながら続けました。

「ここに来るはずのものは、本当は、先に通る場所がある」

「でも、これは──そこまで、届いていない」

ぼくは、ルートの手の中の土を見つめました。

ほんのりとしたぬくもりが、残っていました。
ささやきの滝で触れた泡の気配に、少しだけ似ています。

「まだ……新しい、気がします」

言葉にしたあとで、
ほんのわずかに、胸の奥が静かに揺れました。

ルートが、わずかに目を細めました。

「……うん」

小さく、うなずきます。

「……たぶん、これ」

ルートが、小さく言います。

「シュガーキャット様に届けたくて、言葉になれなかった想いみたい」

シュガーキャットが、ほんの少しだけ目を見開きました。

「あ……」

何かを探すように、少しだけ遠くを見ます。

「……あの子かな」

シュガーキャットは、そっとしゃがみ込みました。

そして、やわらかい声で、
土に優しく語りかけるように声をかけます。

「ありがとうって、言えなかったのかもしれないね」

「でも、大丈夫だよ」

それから、少しだけ笑って。

「ちゃんと、届いてるよ」

光に語りかけるシュガーキャット


その瞬間。
そっと、手の中の土が淡く光り、やさしくほどけました。

光は、そのまま消えることなく、
やわらかく形を変えて、すうっと土の中へとしみこんでいきました。

ルートが、小さくうなずきます。

「……流れた」

さらり、と音を立てて葉が揺れました。

「わぁ……!」

シュガーキャットの声が、ぱっと明るくなります。

「見て見て、葉っぱが上向いた!
ね、ミエル、見た?」

「よかったぁ……ほんとに、よかったぁ」

ミエルは、ほっとしたように目を細めます。

「ええ。シュガー様」

「これで、またみなさんにおいしいいちごを出せますね」

その光景を、ぼくは、ただ見つめていました。

胸の奥が、ゆっくりと、あたたかくなっていくのを感じながら。

ふと、まわりを見渡します。

いちご園の空気は、最初に訪れたときに漂っていた重さとは、まるで違っていました。

さっきまで、そこにあった重さが、
いつのまにか、見当たりませんでした。

そのとき。
ルートが、また鼻を上に向けます。
くんくんと、香りをかぎました。

そして。

「……まだ、ある」

小さく、そうつぶやきます。

「ここだけじゃない。もっと奥で、流れが引っかかってる」

ふたたび、淡い光の粒子が、
ルートのまわりへと集まってきました。

ひとつ、またひとつ。

やさしく、静かに。

ルートは、何も言わず、その光を見つめています。

まるで、何かを待っているように。

風が、さっきより少しだけ冷たくなりました。

ぼくは、思わず空を見上げます。

しあわせの庭の向こう、
まだ見えない奥のほうから、夜の気配が近づいてくるようでした。




【第四話】 ときめきの庭と想いのかたち

ルートに集まる光の粒子


いちご園で触れた、言葉になれなかった想い。

その余韻が、まだ静かに残るなかで──
しばらくのあいだ、ルートはその場から動かずにいました。

土の中に、両手をそっとあずけるようにして。目を閉じたまま、じっとしています。

ぼくは、声をかけることができませんでした。

見ていると、淡い光の粒子が、
ルートのまわりにひとつ、またひとつと集まってきます。

それは、ルートが呼んだというより──
粒子たちの方が、そこへ引き寄せられていくようでした。

「……うん」

ルートが、静かにうなずきます。

何も聞こえないはずなのに、
確かに、何かに答えているようでした。

また、少しして。

「うん」

ときどき、ほんの少しだけ表情がやわらぎます。

光の粒子のひとつが、ルートの指先にふれた瞬間、その輪郭がほんの少しだけ、あたたかい色に変わりました。

「ルートはね」

隣で、シュガーキャットが小さく笑いました。
「花園の精霊たちと、お話できるんだよ♪」

「精霊……?」

ぼくは、つぶやきます。

「シュガー様……」

やわらかな声が、そっと入りました。

ミエルが、人差し指を口元にあてながら、
少しだけ困ったように微笑みます。

「あの者たちの存在は、ふつうは知られていないのですよ」

「……あ」

シュガーキャットが、ぱっと目を丸くしました。

「わわっ!」

そして、あわてて、ぼくのほうへ向き直ります。

「エトワールさん、ないしょだよっ」

ぼくは、くすっと笑ってしまいました。

「……ええ。承知いたしました」

そう答えながら、もう一度、ルートのほうへ視線を向けます。

淡い光の粒子たちは、変わらず、やさしく揺れていました。

いちご園でのひととき


ルートが、ふと顔を上げました。

「最後のお仕事に呼ばれた。月の庭に行くよ」

静かに、そう言います。

「月の庭……ムーンお姉ちゃまのところだね」

シュガーキャットが、少しだけ目を丸くしました。

ルートは、まっすぐに、ぼくを見つめます。

「行く?」

ぼくは、小さく息を整えて。

「……ええ。行きます」

ルートは、ふっと小さく笑うと、
「よいしょ」と土の中から出てきました。

そのまま、くるりと背を向けて、歩き出します。

「わたしも……」

シュガーキャットが、ふいにそう言いかけました。

けれど──

「シュガー様」

ミエルのやわらかな声が、そっと重なります。

「ティーパーティの続きに、戻りましょうね」

「……ええー」

シュガーキャットは、少しだけ口をとがらせました。

「楽しそうなのに……残念」

それでも、すぐに。
ぱっと顔を上げて、にこっと笑いました。

「また、終わったらティーパーティに遊びに来てね♪」

ぼくは、振り返ります。

「ええ。ぜひ、伺います」

「あ、そうだ」

シュガーキャットが手を合わせました。

「この道の途中にね、“ときめきの庭”があるんだよ♪
コスメお姉ちゃまのお庭なの!
とっても素敵なの!
せっかくだし、見ていくのオススメだよ♪」

ぼくは、ルートを見ました。

ルートは、少しだけ考えて。

「いいよ」

「ときめきの庭はね、想いをどうやって届けるかを考える場所なんだよ」

「届ける……?」

ぼくは、その言葉を、そっとくり返しました。

ルートの背中は、すでに少し先を歩いていました。

ぼくたちは、新しい巡りの中へと歩き出します。

いちご園を過ぎると、薔薇のアーチが現れました。

その奥には、光のやわらかい庭が広がっています。

ときめきの庭です。

ときめきの庭の入り口


一歩、足を踏み入れると──
静かなのに、どこか満ちていて、
小さな気配が、あちこちに息づいているようでした。

庭の中には、工房のような小さな建物がいくつも建っていました。

ガラス張りの窓からは、香水の工房、宝石細工の工房、花飾りの工房など、
動物たちがゆったり制作している様子が見えます。

そのひとつに、ぼくは自然と引き寄せられました。

扉の奥では、小さな宝石や、繊細な金具、
きらめくパーツたちが、静かに並べられています。

その中心に──
ひとりの猫の職人がいました。

細かな装飾をひとつひとつ組み合わせながら、とても丁寧に、何かを作っています。

それは、まるで音を閉じ込めるような、精密なオルゴールでした。

ときめきの庭で出会った猫の職人


「……とても、きれいですね」

声をかけると、職人は手を止めずに、
少しだけこちらを見ました。

「きれいに見えるのはね、“想い”が形になっているからだよ」

ぼくは、職人の手元を見つめます。

並べられたパーツの中には、
やわらかな色合いのリボンや、小さな宝石が、いくつも混ざっていました。

「この庭の主はね」

職人は、手元から目を離さないまま、ぽつりとつぶやきます。

「とても、ときめきにうるさくてね」

ほんの少しだけ、口元がやわらぎました。

「想いが込められたオルゴールの細工や、
宝石たちのきらめく瞬間が好きみたいでね」

そう言いながら、小さな宝石をひとつ、光にかざします。

ぼくは、気がつくと、一歩、踏み出していました。

並べられたパーツの中の、小さなリボン。

ぼくは、思わず、指先を伸ばしかけて──

そのまま、手を引きました。

誰かに届ける形──

その言葉が、なぜか、頭の中に残ります。

……あのときも、
同じように、手を止めてしまった気がしました。

理由は、うまく言葉になりません。

ただ──
その先へ進んでしまうことを、
ほんの少しだけ、ためらったのです。

ぼくは、静かに視線を落としました。

ふと振り返ると──
ルートが、少し離れた場所で、こちらを向いて立っていました。

何も言わず、ただ、ぼくが動き出すのを、待っているように。

ときめきの庭を後にして、
ぼくとルートは、月の庭を目指して歩きはじめました。

ときめきの庭


【第五話】 月の庭と花園のひみつ

ムーンキャットが見守っているという、月の庭。
ふだんは開かれていない場所です。

名前だけは、知っていました。
けれど――その中に足を踏み入れたことは、まだ一度もありません。

道は、しだいに静かになっていきました。
さっきまで感じていた、あたたかな気配が、
少しずつ遠ざかっていくようでした。

やがて――
道のまんなかに、うすく透けるような光が見えてきます。

それは、月の満ち欠けを象ったような、淡い光の波紋でした。

その波紋の模様を中心に、
それより先は薄い膜でへだたれているように、魔法の境界線がありました。

触れられるほどはっきりしているのに、
どこか、現実のものではないような――
そんな、幻想的な場所でした。

ぼくは、思わず足を止めました。

その向こう側に、かすかに、なにかが見えたからです。

木々のあいだから、ほんの少しだけ顔をのぞかせるようにして、
光をまとった建物がありました。

温室のようでした。

「……あれが?」

小さくつぶやくと、ルートは、少しだけ歩みをゆるめて、
光の波紋の前で、そっと立ち止まりました。

そして――静かに手をのばし、やわらかな光にふれます。

そのまま、額を軽くあずけるようにして、
しばらく、そこに寄り添っていました。

光の波紋に手をかざすルート


すると――
光の波紋の円の縁に、すぅっと光が流れていきます。

ぼくたちの前に、ひとすじの道が、淡くひらけました。

ぼくは、その光景を見ながら、あることを思い出していました。

森の庭で見た、ツタの柵が、するりとほどけて中へ通してくれたときのことを。

どこか、似ている気がしました。

「……あなたは、一体……」

気がつくと、声がこぼれていました。

ルートは、少しだけ振り返って――
やわらかく、答えます。

「花園の精霊に、力を借りてる」

精霊。

先ほど、シュガーキャットから聞いたばかりの言葉でした。

ぼくが何も言えずにいると、
ルートは、静かに続けます。

「ぼくはね、精霊たちといっしょに、土の巡りを整えてる」

やさしくて、どこか静かな声でした。

「……どうして、教えてくれるんですか?」

そうたずねると、ルートは少しだけ首をかしげて。

「エトワールには、なんだか、似た匂いを感じる」

そう、言いました。

それが何を意味するのか、
ぼくには、まだ分かりません。

ぼくとルートのあいだに、
少しの間だけ、静かな時間が流れました。

波紋の前で話す2人

「ここから先はね」

ルートの声が、ほんの少しだけ、やわらぎます。

「招かれた者しか、入れない」

ぼくは、息をのみます。

「……ぼくも、ですか?」

「うん」

ルートは、小さく、けれどはっきりと、うなずきました。

「呼ばれてるよ。ちゃんと」

風が、すうっと吹き抜けます。

それは、夜のはじまりのにおいでした。

あたりは日の光に満ちているというのに、
なぜか光の先からは、ひんやりした空気が届きます。

冷たくて、けれど、こわくはなくて。

どこか――
待っていてくれた、というような気配がありました。

ぼくは、ルートと並んで、
その光の道に、最初の一歩を踏み出します。

光の波紋を抜けると、不思議なことが起こりました。

足を踏み入れた、その瞬間――
目の前の光景が、深い夜空に包まれた世界へと変わったのです。

思わず、空を見上げます。

散りばめられた星のきらめきの中に、
大きな三日月が、静かに浮かんでいました。

そっと、片足を光の波紋の外へ戻しました。

すると――
外側には、あの穏やかな日差しが、そのまま残っていました。

昼と夜。

ふたつの世界が、この場所で、静かにつながっているようでした。

昼と夜が合わさる、月の庭への入り口


「びっくりするよね」

ルートが、ぼくの様子を見て、小さく笑いながら、うなずきます。

「ここから先は、月ルーナのお力が満ちている特別な場所」

少しだけ間をおいて、やわらかく続けました。

「花園の中でも、いちばん特別な場所――月の庭」

ぼくは、もう一度、ゆっくりと光の波紋の中へ足を踏み入れます。

そして、透き通った空気を、そっと吸い込みました。

太陽ソレイユの力に満ちた、あたたかな場所とは逆に、ここには、ほんの少し温度の低い、ひんやりとしたそよ風が流れていました。

それが、やさしく肌をなでていきます。

あたりは、静かな夜に包まれています。

けれど――不思議と、暗くはありませんでした。

やわらかな月の光が、すべてを、やさしく照らしているからです。

しばらく歩いていると――
ひときわ大きな、ガラス張りの温室が現れました。

その中では、淡い光をたたえた、幻想的な花々が、静かに咲いています。

水路に囲まれた中央には、テラスのような場所があり、天幕の下に、テーブルやソファーが整えられていました。

ふと、見上げると――
温室の天井の向こうに、三日月が、やわらかく浮かんでいます。

その光が、庭全体を、静かに満たしていました。

月の庭にある温室


ガラスのように透き通った花が、
やさしく光を受けながら、音もなく、咲き並んでいます。

月の光を受けて、ひとつひとつが、やわらかく輝いていました。

けれど――

ルートは、その場で立ち止まりました。

「……ここ」

ぼくは、その視線の先を追います。

いくつかの花が、ほかとは少し違う様子で咲いていました。

月の光は、変わらず降りそそいでいます。

それなのに――
その花たちは、ほとんど光を返していませんでした。

ひとつではありません。
いくつかの花が、ぽっかりと静かに沈んでいるように見えます。

光が消えた花たち


「……巡りが、弱くなってる」

ルートはそう言うと、
光の消えている花の根元に触れ、目を閉じました。

「……ここじゃない」

ルートは、小さくそう言いました。

「もっと下」

地面に手をつけたまま、
ゆっくりと花畑の中を歩いていきます。

しばらくすると、何かを見つけたように、
ぴたりと動きを止めて、その場にしゃがみ込みました。

そして、花をかき分けるようにして、やさしい手つきで土を掘り――

そのまま、ルートの姿は、静かに地中へと消えていきました。

ぼくは、そっと地面に手を付けました。

ひんやりと冷たい土の奥で、
流れが動いている気配だけが、かすかに伝わってきました。

それは、花の根元ではなく――
もっと深く。

すべてへと、つながっている場所のようで。

そして、どこかで、流れが詰まっているような気がしました。

なぜ、そう感じるのか不思議でした。

しばらくして、ルートが顔を出します。

けれど――すぐには何も言いませんでした。

そのまま、もう一度、土の奥へと潜ります。

少しして、戻ってきたとき。

「……深すぎる」

小さく、そう言いました。

「流れはある。でも――届かない」

「地上からじゃ、つながらない」

そのとき。

足元の奥で、
ほんのかすかに、光が流れる気配がしました。

それは――下へ。

深く、続いているようでした。

光の流れにそって、
月の庭にある、ガラス張りの温室の奥へと歩みを進めます。

すると、地面の奥深くへと続く階段があらわれました。

そして、階段の奥へと導くように、
光の粒子が静かに引き寄せられてきます。

ルートは迷いなく、光の粒子とともに階段を下っていきます。

ぼくも、後を追うように足を進めます。

足音は、ほとんど響きません。

けれど、一段一段、確かに“深く”へと進んでいる感覚がありました。

やがて――視界が、静かにひらけます。

そこには、これまで見たことのない光景が広がっていました。

地上から伸びる大きな根が、幾重にも重なりながら、この世界の奥へと伸びていました。

呼吸をするように、淡く光を帯びながら。

まるで、“流れ”そのものが形になっているようでした。

上に広がる空間を見上げると、
さらさらと、細かな土が落ちてきています。

光を含んでいるように、やさしく舞いながら、ゆっくりと地面へと降り積もっていきます。

地下のはずなのに――
この場所は、どこか明るく、静かな光に満たされていました。

地下に広がる、はじまりの根


ぼくは、思わず足を止めます。

「この根の先には、はじまりの花が咲き続けてるんだ」

ルートは目を閉じて、空気に含まれる光を吸い込むように、
深く呼吸しながら教えてくれます。

はじまりの花。

淡く光る根の先に広がる地上に、
何か大きなものの気配がしました。

「……ここだね」

ルートは、大きな根の重なりをたしかめるように、そっと手でなぞりました。

けれど、やがて、その手が止まります。

「流れは、ここまで来てる」

ルートは、小さく言いました。

「でも……最後のところで、止まってる」

少しだけ間をおいて、

「この光……たぶん」

「エトワールを、呼んでる」

ぼくは、根の奥を見つめました。

そこには、細い光がありました。

今にも消えそうで、
けれど、まだ消えてはいない光です。

なぜか、見過ごしてはいけない気がしました。

ぼくは、そっと手を伸ばします。

触れた瞬間――
あのときの泡のぬくもりが、よみがえりました。

……これは。

どこかで、手を伸ばせなかった光のようでした。

手を離してしまえば、
また、どこにも届かないままになる。

そんな気がしました。

ぼくは、そのまま、もう一方の手も重ねます。

触れるというより――
そこに、寄り添うように。

ほんのわずかに。

止まっていたものが――
やわらかく、ほどけました。

根の奥にあった細い光が、
すうっと、先へ流れていきます。

奥の光に手を伸ばすエトワール


ルートが、息をのみました。

「……つながった」

ぼくは、自分の手のひらを、そっと見おろしました。

記憶のすみに追いやっていた、
おぼろげな輪郭と、重なるぬくもり。

……あのとき、
手を伸ばせなかったことを、
はっきりと思い出しました。

あのまま、
何も言えなかったことも。

ちゃんと届いていたら。

――何かが、少しだけ違っていたのかもしれません。

そのとき。

奥のほうに、やわらかな光の揺れを感じました。

光は、粒子のようにふわふわと漂いながら、
集まっては離れ、また集まり――

かすかに、猫の輪郭を形づくっています。

けれど、その姿は定まりません。

見ようとした瞬間、やわらかくほどけて、
どんな形だったのか、わからなくなってしまいます。

――見えているはずなのに、
きちんと見ることができない。

そんな、不思議な存在でした。

けれど。

この場所のすべてが、
その光を中心に巡っていることだけは、
はっきりと感じられました。

光の粒子が集まり、猫の輪郭へ


ルートは、少し前に出て、静かに頭を下げます。

ぼくも、それにならいました。

そのとき――
空気が、変わりました。

音は、ありません。

ゆっくり、何かが、こちらに向いた気配がありました。

光の粒が、ゆらゆらと揺れながら、
ぼくのほうへ、近づいてきます。

息をするのも、ためらうほどの静けさの中で――

胸の奥に、そっと、触れるように。

声が、届きました。

「ルート」

それは、呼びかけというよりも、
すでにそこにあったものが、形になったような響きでした。

「そなたのおかげで、花園の巡りが整った」

光が、わずかにやわらぎます。

「感謝する」

そして――

「旅人エトワール」

名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥が、微かに震えました。

驚きというよりも――
見つけられてしまった、という感覚に近いものでした。

「巡りの流れを、静かに受け取れる者」

その言葉は、
ぼくの外側からではなく、内側から響いてくるようでした。

「言えなかった言葉たちは」

光が、ゆっくりと揺れます。

「誰かが、大切に思っていたものばかり」

「巡り、かたちを変えながら
この島を、静かに支えている」

「ただの音として、通り過ぎる者も多い
それを感じ取れる者は、そう多くはない」

そして――

「けれど」

ほんの少しだけ、間があって。

「感じてしまう者は、通り過ぎることができない」

ぼくは、何も言えませんでした。

「この島には──巡りに寄り添う者たちがいる」

「ささやきの滝で、言葉にならぬ声を見送るヴェール」

「土の巡りを整え、精霊たちと語らうルート」

「我は、その者たちを“巡り人”と呼んでいる」

巡り人。

その響きが、胸の奥に、そっと落ちていきました。

「みな、この島に生まれ、この島に根を下ろした者ばかり」

「──だが、そなたは違う」

ぼくは、息をのみました。

しばらくの、静けさ。

「旅の中で、巡る想いに足を止めてきた」

その言葉だけが、静かに落ちてきました。

ぼくは、自分の手のひらを、そっと見おろしました。

ささやきの滝で触れた、あのぬくもり。

「……ぼくは、ただ」

言葉が、ほんの少しだけ、こぼれます。

「気になっただけなんです」

光が、やさしく揺れました。

「それでよい」

「巡りは、気づいた者のそばに、静かにあらわれる」

ぼくは、そっと口を開きます。

「……お名前を、うかがってもよろしいでしょうか」

光は、ほんの少し揺らぎました。

「我に、名はない」

静かな声でした。

「精霊の主と呼ぶ者もいる」

少しの間があって――

「この地に住まうプリンセスたちは
我のことを、“フルーラ”と呼ぶ」

その響きには、どこか、やさしいぬくもりがありました。

ぼくは、その名を、そっと胸の中でなぞります。

「……フルーラ」

その名が、静かに、自分の中に落ちていくのを感じました。

ぼくとルートは、その場所を、ゆっくりと離れました。

月の温室に戻ると、
ルートは何も言わず、確かめるように土に触ります。

そのとき――
少し離れた場所の花が、ごく淡く、光を返しました。

ほんのわずかに。けれど、確かに。

ぼくは、その光を見つめながら、息を整えます。

すぐに、すべてが変わるわけではない。

それでも――
止まりかけていたものが、また、流れはじめている。

そんな感覚だけが、静かに残ります。

光が巡りはじめる花たち


花園の奥は、しずかでした。

泡がひとつ、どこからか、ゆっくりと漂ってきました。

ふれるとあたたかくて、
――滝で触れた泡と、おなじ温度だ、と
ぼくは思いました。

むかし、誰かが話してくれたことがありました。

遠くの国の空の色のこと。

まだ見たことのない景色のこと。

あの子は、ここを知っていたのでしょうか。

それとも、ここへ来たことがあったのでしょうか。

ぼくには、わかりませんでした。

でも――

その泡は、とてもやさしくて。

ただ、それだけで、じゅうぶんだと思えました。

ルートは、軽く手についた土を払うと、こちらを振り返りました。

「うん。これで終わり」

そして、少しだけ笑って――

「お仕事も終わったし――ティーパーティ、行く?」

その声は、さっきまでよりも、少し軽やかに響いていました。

ぼくは、やわらかくうなずきます。

「……ええ」

「シュガーキャット様の、ティーパーティへ」

光の粒子が、ふわりと揺れます。

ぼくたちは、その中を通り抜けるようにして、しあわせの庭へと向かいました。

その先には――
あたたかな時間が、待っているような気がします。

そのやさしさの奥で、
何かが、静かに流れているようでした。

あのとき、流れに乗れなかった泡も――

きっと、どこかで、
誰かに届いているのかもしれません。

もしまた、
流れに乗れないものに出会ったら。

ぼくは、きっと、立ち止まるのでしょう。

そして――
前よりも少しだけ早く。

迷わずに。

そっと、手を伸ばすのだと思います。

……今度は、
言葉も、いっしょに。

あのとき、
言葉になれなかった想いも――

やさしく巡っていくのだと、
思えた気がしました。

月の庭をあとにして


フルール島には、
まだ、知らないことがたくさんあるようです。

そして――
ぼくの旅は、
これからも、静かに続いていきます。

ふと、
やわらかな気配が、
すぐそばをかすめたような気がしました。

振り返っても、
そこには、誰もいませんでした。

それでも――

やわらかな気配だけが、
しばらく、その場に残っていました。

やわらかく光り続ける月の庭




※本作は、noteで連載した「巡る想い」全14話を再構成したものです。挿絵をたっぷり楽しみたい方、この先の物語を読みたい方は、こちらの連載版マガジンをご覧ください。

👉チュチュ・テイルのやさしい世界

👉「巡る想い」その後のお話

👉はじめての方はこちらから

👉作者のつぶやき(本作の原点)



チュチュ・テイルの地図


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