見出し画像

翠恋譚《すいれんたん》⑰

蘭秋らんしゅうの果てに 3

 ◇◆◇

 夜になるのを待ち、一行いっこうはその後、夢蘭むらん頭代理かしらだいりと手下達を役人に引き渡しに行った。
 役所に送り届ける際、九月くげつ代理だいりの男に聞こえぬよう大空たいくう達に耳うちした。
 蘭秋らんしゅうの役人は買収されていない――というのは真っ赤な嘘で、役所には九月くげつの息のかかった役人が数人いるという事だった。
 聞いても、だが、何ら不思議に思わなかった。目立たぬよう存在する裏の世界とはいえ、これほど大きな組織。時には事を成す為、兵士や役人の協力が必要だろう。九月くげつの人脈作り、組織形成力は確かに、どのみやこ代理だいりをも上回るものがあった。九月くげつはまさに良き参謀といえる人物だった。人をあざむすべにこれほど長けた者はいないと思えた。
 役所の厳しい取り調べで代理だいりや手下達が裏の世界や元締もとじめの存在、大空たいくうについて、どんなに簡単に口を割ろうと全てはきれいに揉み消され、明かした情報は何一つおおやけにされる事はないと九月くげつは言った。むしろ、代理だいりかしらの首を狙った裏切り者として九月くげつの手の者である役人によって厳しい処罰を課せられるだろうと言った。前頭ぜんかしらの行っていた人買いの生業なりわいに手を貸し、娘達に大なきな傷を負わせた事実は、自ずと罪を重くする。九月くげつは厳しい顔でそう告げた。
 「でもよお、かしらの首取ったというなら、おれだって同じじゃねえか。命奪って銅章どうしょう奪ったあ」
 そう告げる大空たいくう九月くげつは上品な微笑を向ける。
 「あなたは別ですよ。私を見くびらないで下さいな」
 九月くげつが楽しそうに笑う。
 「私はたったの三年でかしらを欺きながらここまでのし上がってきた男。全てのみやこの役人を手なずけ、少しづつ私の手の者を送り、重要な都にはちゃーんと息のかかった者を代理だいりの座に就かせる私ですよ。まだまだ他にも、あれこれ根回ししております。ま、その辺の事は、いずれおいおい。少しづつ分かるようになるでしょう。ここがいかに前頭ぜんかしらの強い息のかかった地であろうと、私はいずれ、このみやこも乗っ取るつもりでおりましたから。私の仲間、ちゃんといます。役所どころかどこにでも。それでも…」
 九月くげつが力なくため息つく。
 「これまで集めた仲間は…まあ、ざっと三百人ほど。この数集めるのも苦労しました。でも、良い志を持った人間、この荒廃しかけたみやこにも三百はいるという事です。この私の認めるかしらに良からぬ思いを持つ者など、いるはずありません。お任せください」
 そこで少しだけ自信を取り戻すような顔をする。
 「お気づきでしょうが、ここには娘達を閉じ込める牢がないでしょう?私が作らせませんでした。何だかんだ理由をつけて他の都もです。唯一ゆいいつ口出しできなかったのが沙蘭さらんかしらがいた都。そこ以外、どこにも牢はなかったはず。ここにそんなもの作らせたら、あのごろつき連中何をするか、容易に想像つくでしょう?私は大陸中、どのみやこ代理だいりより力と決定権を持った代理だいり。どうです。見直しましたか?」
 見ると大空たいくうは口を開けて九月くげつの話を聞いていた。大高おおたかも多分、同じ顔で九月くげつを見ているだろう。おぎ大鷹おおたかも同じだった。
 「おまえ…すげえな。想像以上にできる奴だ。九月くげつ。おまえやっぱり、元締もとじしょう受け取れ。やる、おまえに」
 「いりません。命の方が大事です」
 あっさりきっぱり断る九月くげつ大空たいくうはまたもや口を開けて見返した。すぐに口を閉じ、大空たいくう大高おおたかに真剣な目を向けてきた。
 「こう。おまえ、やる、これ。おまえ、戻ったら、この蘭秋らんしゅう元締もとじめやれ。おれは総元締そうもとじめで充分だ」
 「ええ?!いや、よしてくれ。断る。おれは、そんなもの務められる柄じゃない」
 大空たいくうが挫けず元締もとじしょうを手放そうとするのをすかさず拒否して断った。大空たいくうが心底ガッカリし、肩を落として嘆息する。
 「ちぇっ…。何だよなあ。性格いい奴、みんな断る」
 大空たいくうのぼやきに大鷹おおたかが急に目を輝かせる。
 「おまえには、やらねえ。おまえは無理だ。嬉しそうにおれを見るんじゃねえ」
 大鷹おおたかのささやかな願望を大空たいくうはばっさり切り捨てた。
 「ふっ。おれはいらねえ。戻ったらそのうち、いつか自然に元締もとじめだ」
 おぎが自慢げに鼻で笑う。
 「はん。てめえなんぞに誰がやるか。紗庚さこう元締もとじめになったところで、おまえはそれでもおれより格下。所詮しょせん、手下だ。おまけにおれの心の中で、おまえは九月くげつより格下だ」
 大空たいくうが心底嬉しそうにおぎの喜びに言葉の冷水をあびせかけた。
 「てん…めえーっ!絶対斬る!斬ってやるぞ!大陸総元締|そうもとじめの銅章どうしょう、てめえの首ごと奪ってやる!!てめえの寝首かいてやる!いつでもどこにいても怯えて待ってろ!!」
 「はっは。アホだこいつ。アホだな。おまえなんぞに、やられねえ~」
 「くっそ、コイツーっ!」
 おぎが腰の剣に手をかける。
 「おぉ!やるかあ?やるのかよ~」
 大空たいくうがさらに挑発する。
 「ちょっとおやめ下さいな、お二人さん。まるで子供のケンカですね…」
 九月くげつがまるで母のように姉のように、あいだに入って二人を止める。
 その様子が微笑ましい。上衣じょういの腰に帯を巻き終え、笑って椅子に腰かけた。
 「お!こう、いいな、その服。前の青よりいい青だ。よく似合っているじゃねえか」
 「ええ、本当です。よく似合っていますね、その色。生地も中々上等じょうとうですね」
 大空たいくう九月くげつが口々に褒めるのを照れ臭い気分になりながら聞く。
 「サイズが合うの探すのになかなか苦労したけど、丁度いいのがあって良かった。おかげで、替えの服を買わずに済んだ」
 「本当だあ~。いいよなあ~」
 大鷹おおたかが恨めしそうに大高おおたかの着替えの服を見る。おぎは簡単に丁度良い着替えの衣を見つけ、前に着ていたのと同じ鮮やかな緑の衣を新調していた。九月くげつ大鷹おおたかはというと屋敷の箪笥たんすを隅から隅まで探したが、手頃な服がついぞ見つからず、役所からの帰りに見つけた服屋で着替えの服を注文した。
 「お前なんかよー、そのナリやめりゃあ着替えなんて簡単に見つかるぜえ」
 おぎ九月くげつの姿に相変わらずの渋い顔を向ける。
 「何をおっしゃいますやら、余計なお世話。嫌です。何度も言いますが、私はこれが、いいんです!服が出来上がったらまた同じものを着ますから。あれは私のお気に入り。特別な剣舞服だったんです!もう今後の為、着替え用もちゃんと注文しました」
 九月くげつおぎの苦言に苦言を呈する。
 「おれも同じもの注文したあ〜。やっぱ胸んとこ刺繍がねえと落ちつかねえよ~。おれもあの衣、気に入ってたあ~」
 大鷹おおたかが汚れたままの服の胸元、鷹の刺繍に触れてぼやく。大鷹はともかく九月くげつは今は、とりあえずサイズの合う服を見つけ出し、渋々、男物の服を着ていた。気に入らない筈のその恰好は、意外にもとても似合っている。九月くげつは実は綺麗な男であるだけでなくハンサムな男と気づかせるための服でもあった。
 九月くげつは、薄紫と薄い青を基調にした剣舞服を。大鷹おおたかは、オレンジの生地に鷹の刺繍を施してもらうよう注文していた。この一行いっこうは、みな、着る服の色にこだわりがあった。
 大高おおたかは深く青い紺碧の海の色が好きだった。
 「こうの服は、あの広い紺碧の海の色だよなあ」
 まるで思考を読み取ったかのような大空たいくうの言葉に笑いを返す。
 「こんぺき、の…うみ…?」
 海京かいきょう大空たいくうに不思議そうに聞く。
 「ああ。海京かいきょうは、うみ、知ってるか?見た事あるか?おまえの名前と同じ字を書くぜ」
 優しく尋ね返すその姿も、大空たいくうはきっと自分では気づいていないのだろう。
 海京かいきょう大空たいくうの顔を見て、次に大高おおたかを見てにこやかに微笑む。
 「知っている。見た事ある。この目ヽヽヽで見た事はないけれど、そらからの目を通して見た」
 「そら…からの、目……?」
 意味が分からず聞き返す。
 「そら?はあ…!?」
 おぎも同じく不思議そうに、九月くげつはあえて何も言わず、だが、眉を寄せ不思議そうに海京かいきょうを見ていた。
 「どういう、意味だあ~?」
 大鷹おおたかは普通に聞き返す。海京かいきょうが笑う。
 「あれでしょう?そらの下にある、あの大きな青い水の集まり。船と呼ぶものが浮いている、あの青い水たまり。あれは〝海″と呼ぶのだと聞いた。紺碧こんぺきの…というのは、水たまりの青い色の事?」
 海京かいきょう大空たいくうに確かめる。
 「ああ。そうだ。空の下のあのでっけえ青い水の集まりだ」
 その説明に唖然とするばかりの男達の反応に大空たいくうが吹くように小さく笑う。何とも奇妙な不可解な答えに男達は思わず目を見合わせる。
 海京かいきょうは、まるで新しい事を覚えた子供のように嬉しそうに、大空たいくうを見て微笑んだ―――。


 夜が深まり、一行いっこう前頭代理ぜんかしらだいり根城ねじろだったこの建物の表と裏口に一人づつ、森での野宿と同じように交替で見張りに立つ事を決め、ようやく眠りにつくことにした。
 万が一、逃げ延びていた手下がいた場合の襲撃に備え、深夜になるまで様子を見たが手下が襲撃に来ることはなかった。それでも表は大空たいくう大鷹おおたかおぎが交替で見張りにつき、大高おおたか海京かいきょう九月くげつは、裏口の見張りにつく事になった。
 今一度、全ての窓や出入口の施錠を確認し、まずは大空たいくう大高おおたかが、それぞれの場所で最初の見張りにつく事となった。
 海京かいきょうは、必ず見張りがいる一階の安全な一室で、男達は二階で眠る事にした。
 静かで薄暗い広い上がり口に腰を掛け、外の通りの音と気配に注意しつつ襲撃者から奪った細身の剣を鞘から抜いて調べてみる。
 窓から射し込む月明かりにやいばかざして確かめる。鋭い光が青白い光を反射させ、刃先に向かって流れ動く。
 傍らに置いた鞘を持ち上げ、月明かりで照らしてみる。洒落た細身の黒鞘には小さな宝石が幾つも埋め込まれ豪華な貝細工が施されている。指先でに触れる。鋭く研がれ、薄いのに鍛えられた丈夫な剣。には朱色の房飾り。それは、海京かいきょう長靴ちょうかを飾る朱色しゅいろの房と同じ色。
 見事な剣だったが、身分の高い貴族から奪った盗品の可能性が高かった。市場で売り、金に替えるのが無難と思えた。それで得た金で別の剣を手に入れる事にする。盗まれた品を持っているのは、思わぬトラブルの元でしかない。そうなる前に手放すべきだと考えた。
 これ以上、この先の旅を丸腰のまま武器も持たず続けるのは不可能だった。
 (明日あしたこの剣を売り払い、自分に合った剣を手に入れよう)
 もう二度と持たないと誓った剣。
 その気になれば武具なら何でも扱える。大空たいくう大鷹おおたか程ではないが、とうも弓も使える上、槍の訓練も受けていた。どんな武器も扱えるよう様々な国のあらゆる武器で戦闘訓練を受けていた。中でも得意としているのは、剣術と体術だった。
 剣を鞘に収めて脇に置き、空から射し込む月明かりを見上げた。
 『生きて、戻って。初めて生きて戻る旅人になって。必ず、戻って』
 香姫こうひめの優しい声が大高おおたかの胸にこだまする。
 (生きて、戻って…そして―――)
 その先、自分は一体どうするのだろう。次にどこへ向かって行くのか。
 海京かいきょうの事を思う。
 いつまでも共にいたいひと。ずっと傍にいたいひと。ずっと傍にいてほしい、誰よりも謎多き美しいひと―――海京かいきょう―――。
 (君が、好きだ)
 心の中に留める囁き。
 もう二度と味わう事はないと思っていた切なさ、痛み、苦しみ、恋しさ。
 どこまでも強く追い求める、人を愛しうる気持ち。
 海京かいきょうの事を大高おおたかは殆ど何も知らない。なのに、いつの間にか心に、深く大きく募る想い。
 恋とは、一体何だろう。
 不思議に思う。海京かいきょうの何をこんなに求めているのか。どこがこんなに好きなのか。なぜ、これほどまで追い求める気持ちが生まれるのか。
 募る想いが押し寄せる。
 あの姿、名前を、心に脳裏に浮かべるだけで。
 気づけば、見上げた窓から床に映る影へといつの間にか視線を落としていた。そしてまた気づけば、苦しい心痛い息を床の影に落としていた。
 海京かいきょうの姿が脳裏をぎる。抱きしめた体の温かさ。固く目を閉じ、心に浮かぶ思いを払う。触れて口づけて愛し合いたい。思った瞬間、自嘲の笑いをもらしてしまう。
 「つまらない男だな。おれは」
 苦笑混じりに呟いた。
 「こう…?」
 背後からの声に瞬間、胸に大きく鼓動を響かせ焦って迷う。
 振り返る事が出来ない。二人きりでの宿のように衝動に駆られてしまった時、自分を抑えられる自信がない。振り向けず、体を固くして目を閉じた。
 「海京かいきょう。来ない方がいい。来るな。自信がない。おれには、自分を抑えていられる自信がない。何もせずいられる自信がない。傍に来るな」
 剣の鞘を握る手に力がこもる。目を閉じたまま心で願った。海京かいきょうが部屋に戻る事を。
 背後で海京かいきょうが動く気配。大高おおたかの葛藤を簡単に無視し、海京かいきょうはいともあっさりと大高おおたかの隣に腰掛けた。
 あまりに簡単に近づかれ、意外なほど呆気なく心の葛藤が消え去った。それでもその姿に目を向けるのは避けた。床の影を見つめたまま無言で座り続けていた。二人とも無言で座っていた。
 耐え兼ねて笑いをもらす。
 「まだ見張りの交替には早い。眠れるうちにちゃんと寝ておいた方がいい」
 海京かいきょうが笑うように微かに息つく。
 「こうは何もしない。そうでしょう?」
 その言葉に苦笑を返す。
 「買いかぶり過ぎだ。君はおれを分かっていない。普通の男だ。あんまり近づかないでくれ。おれはくうとは違う。あんなに紳士な男じゃない」
 「それでもいい」
 海京かいきょうが笑う。困り果てて振り向く。
 そこにいたのは、いつもの海京かいきょうではなかった。
 いつかの夜の緑の双眸。月光に輝く深い艶やかな緑の髪。
 何か思う前に手が伸び、思わず髪に触れていた。指で軽く前髪を揺らす。額の真ん中に赤い小さな花印かいんが見えた。指先でそろそろと頭に触れ、そっと掌を当ててみた。
 「きれいだな。きれいな色だ」
 頬に触れ、親指で瞼を軽く撫でる。海京かいきょうは目を閉じ、掌に頬を寄せてきた。そっと額に口づける。海京かいきょうの額に額を当てる。
 「何もしない。何もしないよ」
 唇で髪に触れる。
 「何も、しない」
 何も、出来なくなった。何もしたくないと心から思った。
 傷つけたくない。大事にしたいと心の底から思った途端、あさましい気持ちは吹き飛んだ。あれほどの葛藤が嘘のように今はやましい気持ちもなく、ただ純粋に海京かいきょうを大切にしたいという、その思いしか浮かばなかった。
 二人の間に置いていた剣を自分の後ろに置き直した。
 海京かいきょうが身を寄せてくる。細い肩を腕にくるむように抱き寄せる。海京かいきょう大高おおたかの肩に頭を寄せ、体に腕を回してきた。髪を撫でて窓を見上げる。月明かりの夜空に向かって微笑む。
 「眠れないのか?何か不安な事でも?」
 先行き不安な危険な旅をしているというのに馬鹿な質問をしたと思う。
 「いっぱいある。こうもいっぱいあるでしょう?」
 海京かいきょうが優しく笑うように答える。
 「君ほどではない。…君や大空たいくうほどではない」
 海京かいきょうはこれには何も答えない。
 「こう。昔話を信じる?伝説やお伽噺とぎばなしを本当にあった事かもしれないと思える人?」
 奇妙に静かな声で問われる。
 「話によるな。どんな話?」
 海京かいきょうが黙り込む。
 「⋯⋯今は、いい。まだいい。また今度⋯」
 「そうか。じゃあ、他の話をしてもいいかな?」
 笑うような息づかいが聞こえる。
 「なあに?」
 「うん。さっき、言ってた事だ。海の話。不思議な事を言ってたろう?どういう意味かなと思って。そらからの目って、何だ?」
 海京かいきょうがくすくす笑う。
 「人間には龍と呼ばれている〝すいの神″の目を通して地上のものを見る事を言った。私は時々、聖域の外へ出て世界を見てみたくなると、大気に溶け込んでいるすいの神に心を合わせる。そうして、その目を通して空から色んなものを見てみる」
 「へえ~。そんな事が出来るのか。楽しそうだな。いいな」
 空を飛ぶ事が出来たらどんなに気分がいいだろう。
 「そらの青はくうの色。海の青はこうの色。でしょう?私の名前の”海”の字は、こうの衣の青を思わせるもの。…くうが教えてくれたのだけれど、面白い繋がりの三人」
 「本当だ。へえー、面白いつながりだ」
 笑って海京かいきょうの髪に口づける。
 「こう。そろそろ見張りの交替。部屋に上がって眠ってもいい」
 肩に頭を寄せる海京かいきょうがどこか寂しそうな声で告げた。
 「海京かいきょう。おれは戦場いくさばに慣れた元兵士だ。ついこの間まで兵士だった。眠らずいるのは慣れている。平気だ。五日間、一睡もせず一日中立って過ごしたこともある。平気なんだ。もしかしたら、眠れないのかもしれない。よく、分からないけど。一緒にいるよ。一緒にいては駄目か?駄目でもいい。一緒にいたいからここにいる。嫌ならおれから離れていい。ここにいさせてくれ」
 「ここに、いさせてあげる。いてもいい」
 海京かいきょうが嬉しそうに笑う。肩に回した腕に少しだけ力を込めてみた。体に回される細い腕の温かさに目を閉じる。
 いとおしい、暖かさ───。
 「愛してる…」
 意識せず思わず言葉が出ていた。
 自分でも驚く。そして、瞬間、奇妙な気持ちが込み上げた。
 いつだったか、ずっと以前、誰かに言った。どこかで――誰かに――。
 言った覚えのない言葉。生まれて初めて、誰にも一度も言ったことがない。けれど確かに、誰かに告げた。いつかどこかで―――。
 相手は、海京かいきょうであってそうではないひと⋯⋯。
 説明し難い不可解な感覚。
 自嘲気味に笑い、振り払う。回されていた細い腕がそろそろと離れ、海京かいきょうがゆっくり見上げてくる。困惑の気持ちを隠せない顔。だが、その困惑をどうにか隠そうとしている顔。その目を、ただ見下ろす。
 深い緑の双眸が何かを訴えている気がした。
 「海京かいきょう?今、何か感じ取った…か?」
 無言のままの海京かいきょうを見下ろす。その目に涙が浮かぶのを見る。
 「もう一度、言ってみて。こう
 涙目を見ながら浮かぶ思いを声にする。
 「……愛してる。海京かいきょう…愛してる」
 緑の瞳から落ちる涙。指先で拭う。

 ―――愛してる。

 いつかどこかで、囁いた。
 囁き口づけ、抱きしめた。
 そんな記憶が微かにある。そんな気が、する。
 いつかどこかで――誰かに――いな、それは確かに海京かいきょうだ。
 奇妙な気持ちを抱えたまま、そろそろと顔を近づけ、海京かいきょうの唇に口づける。不可解な思いを確かめるように暖かく優しい唇に不思議な思いで口づけた。
 何かは分からない奇妙な気持ちが心の中にこだまし続ける。この気持ちは、初めて知ったものではないと何かが心に囁き続けた。
 その後、九月くげつが見張りに起きてくる頃、どちらからともなく離れて座り、九月くげつと見張りを交替した。海京かいきょうはそのまま一階で、大高おおたかは二階で眠りにつくも奇妙な気持ちが消せないまま、とにかく何とか目を閉じた。そのまま、眠れないまま夜が明けた。
 翌朝―――。
 夢蘭むらん代理だいり潜伏先であった建物内に九月くげつが集めた三百人ほどが一斉に介した。
 九月くげつは、集まった者達に大空たいくうを新しいかしらとして紹介し、顔と身なりを覚えさせた。
 そこにいた者達の中に大空たいくうに不満を見せる者はいなかった。九月くげつ大空たいくうに許可を得て、集まった者達の中から信頼できて腕が立つ男を新しい代理だいりに任命した。若く優しそうな男だったが、不正を許すことなどなく、みなを統率できそうな男だった。
 年の頃は、二十三という若さだが、落ちついた雰囲気の好青年。
 九月くげつは、新しい代理だいり前代理ぜんだいりから回収した夢蘭むらんかしら代理だいりいんと房、護衛の房飾りを手渡した。
 一行いっこう弦星げんせいを目指すと知り、新しいかしら代理だいりは、大空たいくう達が戻る日まで夢蘭むらんの裏世界の規律を正すと約束し、大空たいくうに、そして、九月くげつに改めて忠誠を誓った。
 それから半月はんつきほどのち、旅立ちの際、かしら代理だいりとなった男は、一行いっこうの旅の安全を願いながら、香蘭こうらんみやこの女代理だいりがしたように大空たいくうの手に何かを手渡すのを見た。
 生きて帰ると言い残し、一行いっこうはいよいよ、えんの国目指して旅立つこととなった。
 隣国――炎《えん》の国境くにざかいである関所の門を目指して歩く。夏真っ盛りの陽射しを避け、森の木陰を歩き進む。
 廃村の空き家や森での野宿で七日程が過ぎた頃、また別の廃村に辿り着き、そこにきれいな空き家を見つけた。
 この日は、そこでを明かす事とした。
 周囲の森や川で採った山菜や魚、果物など久々の豪華な夕食後、大空たいくうが見張りに立つと言い、静かに部屋を後にした。
 おぎ大鷹おおたかが無言で互いに目を合わせ、九月くげつも何も言うことなく大空たいくうが出て行った扉を見ていた。
 海京かいきょうが優しく手を握る。
 見上げる心配気な目を見下ろし、頷いて笑顔で立ち上がる。九月くげつおぎ大鷹おおたかも何も言わず部屋を出る大高おおたかを静かに見送った。
 大空たいくうの様子がいつもと違うこと、みな、気づいていた。
 この数日、大空たいくうはやけに静かだった。ほとんど誰とも言葉を交わさず一人黙々と歩いていた。誰も何も言わずにいたが、今日は特に様子がおかしいとみな、気づいた。
 大空たいくうは、中庭に面した狭い小さな縁側であぐらをかいて座っており、そこで静かに星を見ていた。
 縁側には、沐浴や入浴の時以外、眠る時さえ身につけている腰の剣帯けんたいが置かれてあった。その上に香蘭こうらんみやこで手にした四つの木片もくへんが乗せてあった。大空たいくうの手によって一つに束ねられた四つの木片もくへん。それは、大空たいくうの故郷の家の柱を剥いだもの。
 剣帯けんたいを中心に右側に黄房きふさの弓と矢筒が置かれ、左側に剣を置いている。
 「わりぃな、あにぃ。酒はねえけど…許せ。水はあるけどいらねえよなあ。母様ははさまがきっと、家で酒出してくれてるだろう。おれは何もねえけど、まあ、いいだろ…」
 呟き、静かに星を見上げて微笑む大空《たいくう》。やがて、笑うように息を吐いた。
 「何だよ、こう。それで気配消したつもりか。まぁた邪魔しにきたのかよ。おまえはいつも、こういう時を嗅ぎつけて来るなあ。何だよ。何か用か」
 言いつつ、その顔は星を見上げたまま。
 「何の日、なんだ?その剣帯けんたい…三番目のおにいさんの物だったな。ひょっとして今日は…」
 大空たいくうが諦めたように肩を落とし、廊下に立つ大高おおたかに涼しげな笑顔を向けてきた。大空たいくうが一息大きく笑い、中庭の花に目を向けた。
 「そうだ…さんあにぃの命日だ。さんあにぃの喪が明ける。一年なんてあっという間だ。たった一年…それじゃ気持ちの整理なんてつかねえもんだ。気持ちの整理つかねえまま、父様ちちさま達の死から今日で、とうとう三年経った。母様ははさまは今頃、一人っきりで泣いてるだろうな。可哀想だが、おれが里にいても変わらねえ。母様ははさまにしてやれる事、おれにはなんもねえんだ。母様ははさまはよお、絶対に、おれの前では泣かねえんだ。いつも一人でこっそり泣く。おれは傍にいてもなにもしてやれねえ。なにも。あの村でみんなにしてやれる事、おれには、なんもねえんだ」
 大空たいくうはいつになく寂しそうに、星を見ながら吐き出した。
 「大空たいくう。何もしなくても、そこにいるだけで誰かの役に立つ時はある。おまえもそうだ。おまえの母様ははさま、おまえがいないのに気づき、心配してるんじゃないのか?」
 寂しそうな大空たいくうの横顔が、予想に反して笑いをこぼす。面白そうに大空たいくうが肩を揺らして笑う。
 「ただ一つの救いは、こう母様ははさまは、ちょっと抜けてるってことだ」
 「はいっ…?」
 思わず滑稽な呟きをもらす。縁側を進み、大空たいくうの隣に同じくあぐらをかいて座る。大空たいくうがまたおかしそうに笑う。
 星を見上げる楽しそうな顔。
 「母様ははさまは、よお…何てえか…鈍いんだ。きっとまだ、おれが村からいなくなった事さえ気づいていないと思うがな。また山賊討伐の依頼を受けて、ふらっと遠くに出かけたな、と…思ってるだろう。おれがいねえの大して気にしちゃいねえだろう」
 涼しげに笑う横顔を呆気に取られて眺めてしまう。家族とは、そんなものか。家族のいない身には分からない。この思いを察したのか、大空たいくうがおかしそうに振り向いた。
 「相当驚いてやがるがな…言っとくが、普通の家はこうじゃねえ、と思うぞ、多分な。言ったろ。すげえ母様ははさまだってよお。常識遥かに超えてんだ。とにかく何してもやたらすげえ。そのすげえ所に父様ちちさまはぞっこん惚れ込んだ…と、父様ちちさまも村のみんなも言っていた。だが、まあ、そもそも…おれの家族はみんな、どっか変かもしれねえなあ。ま、おれは普通の家庭を知らねえから、その辺はどうも分かんねえがなあ」
 さんあにの形見の剣帯けんたいに目を向ける。
 「くうの、その性格の理由。何となく理解できた気がする。なるほど…」
 「おぉい、何だそれ。失敬な。おれは母様ははさま達とはまるで違う。おまえは知らねえだろうがなあ。おれは…あんなじゃ、ねえっ!おれが家族の中で、一番、マトモだ!」
 ムキになるその姿に心からの苦笑を返していた。
 「いや…。とてもそうは思えない。悪い。無理だ。納得できない」
 「うっせえ!納得しやがれ!失敬な野郎だっ」
 笑って夜空を仰ぐ。心なしか星が滲んで大きく見えていた。
 大空たいくうも共に空を見上げる。
 「あにぃ達に会いてえなあ。おまえを会わせてやりたかった。おれの仲間見たら、父様ちちさま褒めてくれたろうな。父様ちちさまはいつも言っていた。いい仲間、家族…いい人間が傍にいると気づいたら、そいつらみんな、宝だと思え。父様ちちさまは、ガキの頃からあにぃ達やおれにそう言っていた。そして、いい人間に巡り会えたと思ったら、何よりも″自分″を最高の宝だと思えってよ。仲間大事にするのと同じくれえ自分を大事にするんだって…。そうでなきゃ、本当の意味で人をまもれる人間になれねえ。父様ちちさまはいつもそう言ってた」
 大空たいくうが溜め息つく。
 「けどよお、それ難しい。おれにはまだ出来ねえ。よく分からねえ。おれはまだまだ未熟な人間だからよお、いつもどっちか一つしか大事に出来ねえ。いつになったら父様ちちさま超えるデケエ男になれるかなあ」
 思わず苦笑を向けていた。
 「冗談だろう…?それ以上、まだ大きい男になるのか?手に負えない人間になる。くうの妻になるひとは、本当にさぞかし苦労するな。気の毒だ…」
 「何だてめえ。ケンカ売りに来てんのか!もうあっち行け!」
 今夜は確かに言いたい放題言っている。星を見上げて笑う。
 「くう
 大空たいくうの前に置かれてある剣帯けんたいを見ながら呼んでいた。
 「ああっ?何だ?まだ何か言い足りねえか」
 大空たいくうのふて腐れた声に笑い返す。
 「おれはくうより一つ年上だが、あにさま達より年若い。おれはくうを同じ年の友のように思っているが…でも今は、年上のあにとして、くう兄様あにさま達の代わりに…おまえに一つ言わせてくれ。あにさま達もきっと、今のくうに言いたいだろうと思う事だ」
 大空たいくうが笑うように息を吐く。
 「へえ~。いいぜー。言わせてやるよ。何だ?」
 笑顔で俯き、すぐに顔を上げる。
 大空たいくうあに達の代わりに、父様ちちさまの代わりに言う。泣きたくなるのを何とかこらえて――。
 「大空たいくう。おまえは、いい男で、いい人間だ。おまえならきっと、うまくやれる。何でもきっと、うまくやれる。きっとだ。だから、必ず、生きて帰れ。いつも元気に、大いに笑え」
 涙を堪えて何とか続ける。
 大空たいくうの父や兄達の代わりに伝えるつもりで。
 「おまえは最高の弟で、おまえは最高の息子だ。母様ははさまの為に生きて帰れ」
 涙があふれそうになる。
 「……きっと…おまえのあにさま達はそう言ってる。さん兄様あにさまは今夜おまえに、きっとそう言いたいに違いない。くう父様ちちさまは今のおまえを見て、きっと褒めてる。くう。おまえを見てると、父様ちちさまあにさま達の人柄が分かる。それこそがあにさま父様ちちさまへのくうの最高の贈り物だ。そんな息子や弟を自慢に思わない家族はいない。母様ははさまの為に、父様ちちさまあにさま達の為に、おまえは、生きて帰らなきゃ、な。生きて必ず、帰るんだ」
 大空たいくうが微かに肩を揺らし、声を押し殺して笑う様子。
 「こう。おまえは最高のダチにして、これ以上ねえくれえ最高の仲間だ。たまにはいい事言うんだなあ。そのいい事、海京かいきょうに向かってもっと言え。おまえ、男には最高に気が利くが、女にはさっぱり駄目みてえだ。その顔、そのナリ、女落とすのにさっぱり役に立ってねえな。いい男なのに惜しいなあ。勿体ねえ…宝の持ち腐れというやつだ。そのままじゃおまえ、モテねえ男よりモテねえぞ」
 「はは…。そう、きたか」
 苦笑しながら頭を掻く。返す言葉が見つからない。
 「もう寝ろ。こう。おれはこのまま見張りにつく。海京かいきょうの傍に戻ってやれ。みんなもとっとと早く寝ろー。いつまで聞き耳たててやがる。まったく…どいつもこいつも、もっとうまく気配隠せー」
 障子の向こうでおぎ達が聞き耳たてている事、大空たいくうはやはり、難なく見抜き、呆れて愚痴をこぼすように告げるが、その顔はどこか嬉しそうだった。
 大高おおたかは笑って立ち上がる。大空たいくうを一人にしてやるべく静かに部屋へ戻ることにする。
 部屋に戻るとおぎ達は眠ったふりをしていたが、大鷹おおたかだけは隠し切れず、鼻を啜って微かに嗚咽をもらしていた。
 海京かいきょうは壁際で膝を抱えて座っていた。ずっと大高おおたかの帰りを待っていたのだろう。笑顔で近づき、隣に座って肩を抱く。海京かいきょうが静かに肩に頭を寄せてくる。
 大鷹おおたかは泣き疲れて眠った様子。海京かいきょうの頭に口づけ、自分も頭を寄せて目を閉じた。見張りの時間までのしばしの時、短い眠りにつく事にする。
 一時間後に目を覚まし、海京かいきょうからそっと離れようとしたが、海京かいきょうも共に目を覚まし、二人で見張りに向かうことにした。
 二人の姿を見た途端、大空たいくうはにやりと笑いを残し、無言で障子の向こうへ消えた。形見の剣帯けんたいは、すでに腰に巻かれていた。
 九月くげつの見張りの時間まで二人で並んで縁側に座り、何話すでもなく静かに星を眺めた。
 何気に床に視線を落とす。大空たいくうあにの形見の剣帯けんたいを置いていた所。
 脳裏に浮かぶ、大空たいくうの寂し気な背中。横顔。
 明るく豪快な姿の裏にいつも隠されている思い。
 寂しく哀しい気持ちが込み上げ、隣に座る海京かいきょうの肩を抱き寄せた。頭に口づけ、夜空を見上げる。
 海京かいきょうの為に、大空たいくうの為に、大高おおたかが出来る事は何だろう。
 降るような星をぼんやり眺め、見張りの間中あいだじゅう考え続けた。これといって答えのないまま、とうとう静かに朝を迎えた。

 一行いっこうは、いよいよ、蘭秋らんしゅう最後のみやこ夢蘭むらんを抜け、未知の国、えんの国の門をくぐった―――。

#翠恋譚⑱
#マガジン 翠恋譚
#創作大賞2026
#ファンタジー小説部門


いいなと思ったら応援しよう!

宇郷  伊織 お心のこもったサポートありがとうございます。 頂いたサポートをフルに活かし、無駄にせず、より一層、心の安らぎのお役に立てるよう、日々楽しんで精進します。 どうか、あなたの人生も安らぎと笑いにあふれた日々でありますように☆彡 心から感謝いたします。