翠恋譚《すいれんたん》⑰
蘭秋の果てに 3
◇◆◇
夜になるのを待ち、一行はその後、夢蘭の頭代理と手下達を役人に引き渡しに行った。
役所に送り届ける際、九月は代理の男に聞こえぬよう大空達に耳うちした。
蘭秋の役人は買収されていない――というのは真っ赤な嘘で、役所には九月の息のかかった役人が数人いるという事だった。
聞いても、だが、何ら不思議に思わなかった。目立たぬよう存在する裏の世界とはいえ、これほど大きな組織。時には事を成す為、兵士や役人の協力が必要だろう。九月の人脈作り、組織形成力は確かに、どの都の代理をも上回るものがあった。九月はまさに良き参謀といえる人物だった。人を欺く術にこれほど長けた者はいないと思えた。
役所の厳しい取り調べで代理や手下達が裏の世界や元締めの存在、大空について、どんなに簡単に口を割ろうと全てはきれいに揉み消され、明かした情報は何一つ公にされる事はないと九月は言った。むしろ、代理は頭の首を狙った裏切り者として九月の手の者である役人によって厳しい処罰を課せられるだろうと言った。前頭の行っていた人買いの生業に手を貸し、娘達に大なきな傷を負わせた事実は、自ずと罪を重くする。九月は厳しい顔でそう告げた。
「でもよお、頭の首取ったというなら、おれだって同じじゃねえか。命奪って銅章奪ったあ」
そう告げる大空に九月は上品な微笑を向ける。
「あなたは別ですよ。私を見くびらないで下さいな」
九月が楽しそうに笑う。
「私はたったの三年で頭を欺きながらここまでのし上がってきた男。全ての都の役人を手なずけ、少しづつ私の手の者を送り、重要な都にはちゃーんと息のかかった者を代理の座に就かせる私ですよ。まだまだ他にも、あれこれ根回ししております。ま、その辺の事は、いずれおいおい。少しづつ分かるようになるでしょう。ここがいかに前頭の強い息のかかった地であろうと、私はいずれ、この都も乗っ取るつもりでおりましたから。私の仲間、ちゃんといます。役所どころかどこにでも。それでも…」
九月が力なくため息つく。
「これまで集めた仲間は…まあ、ざっと三百人ほど。この数集めるのも苦労しました。でも、良い志を持った人間、この荒廃しかけた都にも三百はいるという事です。この私の認める頭に良からぬ思いを持つ者など、いるはずありません。お任せください」
そこで少しだけ自信を取り戻すような顔をする。
「お気づきでしょうが、ここには娘達を閉じ込める牢がないでしょう?私が作らせませんでした。何だかんだ理由をつけて他の都もです。唯一口出しできなかったのが沙蘭の頭がいた都。そこ以外、どこにも牢はなかったはず。ここにそんなもの作らせたら、あのごろつき連中何をするか、容易に想像つくでしょう?私は大陸中、どの都の代理より力と決定権を持った代理。どうです。見直しましたか?」
見ると大空は口を開けて九月の話を聞いていた。大高も多分、同じ顔で九月を見ているだろう。荻も大鷹も同じだった。
「おまえ…すげえな。想像以上にできる奴だ。九月。おまえやっぱり、元締め章受け取れ。やる、おまえに」
「いりません。命の方が大事です」
あっさりきっぱり断る九月を大空はまたもや口を開けて見返した。すぐに口を閉じ、大空が大高に真剣な目を向けてきた。
「高。おまえ、やる、これ。おまえ、戻ったら、この蘭秋の元締めやれ。おれは総元締めで充分だ」
「ええ?!いや、よしてくれ。断る。おれは、そんなもの務められる柄じゃない」
大空が挫けず元締め章を手放そうとするのをすかさず拒否して断った。大空が心底ガッカリし、肩を落として嘆息する。
「ちぇっ…。何だよなあ。性格いい奴、皆断る」
大空のぼやきに大鷹が急に目を輝かせる。
「おまえには、やらねえ。おまえは無理だ。嬉しそうにおれを見るんじゃねえ」
大鷹のささやかな願望を大空はばっさり切り捨てた。
「ふっ。おれはいらねえ。戻ったらそのうち、いつか自然に元締めだ」
荻が自慢げに鼻で笑う。
「はん。てめえなんぞに誰がやるか。紗庚の元締めになったところで、おまえはそれでもおれより格下。所詮、手下だ。おまけにおれの心の中で、おまえは九月より格下だ」
大空が心底嬉しそうに荻の喜びに言葉の冷水をあびせかけた。
「てん…めえーっ!絶対斬る!斬ってやるぞ!大陸総元締|めの銅章、てめえの首ごと奪ってやる!!てめえの寝首かいてやる!いつでもどこにいても怯えて待ってろ!!」
「はっは。アホだこいつ。アホだな。おまえなんぞに、やられねえ~」
「くっそ、コイツーっ!」
荻が腰の剣に手をかける。
「おぉ!やるかあ?やるのかよ~」
大空がさらに挑発する。
「ちょっとおやめ下さいな、お二人さん。まるで子供のケンカですね…」
九月がまるで母のように姉のように、間に入って二人を止める。
その様子が微笑ましい。上衣の腰に帯を巻き終え、笑って椅子に腰かけた。
「お!高、いいな、その服。前の青よりいい青だ。よく似合っているじゃねえか」
「ええ、本当です。よく似合っていますね、その色。生地も中々上等ですね」
大空と九月が口々に褒めるのを照れ臭い気分になりながら聞く。
「サイズが合うの探すのになかなか苦労したけど、丁度いいのがあって良かった。おかげで、替えの服を買わずに済んだ」
「本当だあ~。いいよなあ~」
大鷹が恨めしそうに大高の着替えの服を見る。荻は簡単に丁度良い着替えの衣を見つけ、前に着ていたのと同じ鮮やかな緑の衣を新調していた。九月と大鷹はというと屋敷の箪笥を隅から隅まで探したが、手頃な服がついぞ見つからず、役所からの帰りに見つけた服屋で着替えの服を注文した。
「お前なんかよー、そのナリやめりゃあ着替えなんて簡単に見つかるぜえ」
荻が九月の姿に相変わらずの渋い顔を向ける。
「何を仰いますやら、余計なお世話。嫌です。何度も言いますが、私はこれが、いいんです!服が出来上がったらまた同じものを着ますから。あれは私のお気に入り。特別な剣舞服だったんです!もう今後の為、着替え用もちゃんと注文しました」
九月が荻の苦言に苦言を呈する。
「おれも同じもの注文したあ〜。やっぱ胸んとこ刺繍がねえと落ちつかねえよ~。おれもあの衣、気に入ってたあ~」
大鷹が汚れたままの服の胸元、鷹の刺繍に触れてぼやく。大鷹はともかく九月は今は、とりあえずサイズの合う服を見つけ出し、渋々、男物の服を着ていた。気に入らない筈のその恰好は、意外にもとても似合っている。九月は実は綺麗な男であるだけでなくハンサムな男と気づかせるための服でもあった。
九月は、薄紫と薄い青を基調にした剣舞服を。大鷹は、オレンジの生地に鷹の刺繍を施してもらうよう注文していた。この一行は、皆、着る服の色にこだわりがあった。
大高は深く青い紺碧の海の色が好きだった。
「高の服は、あの広い紺碧の海の色だよなあ」
まるで思考を読み取ったかのような大空の言葉に笑いを返す。
「こんぺき、の…うみ…?」
海京が大空に不思議そうに聞く。
「ああ。海京は、海、知ってるか?見た事あるか?おまえの名前と同じ字を書くぜ」
優しく尋ね返すその姿も、大空はきっと自分では気づいていないのだろう。
海京が大空の顔を見て、次に大高を見てにこやかに微笑む。
「知っている。見た事ある。この目で見た事はないけれど、空からの目を通して見た」
「空…からの、目……?」
意味が分からず聞き返す。
「空?はあ…!?」
荻も同じく不思議そうに、九月はあえて何も言わず、だが、眉を寄せ不思議そうに海京を見ていた。
「どういう、意味だあ~?」
大鷹は普通に聞き返す。海京が笑う。
「あれでしょう?空の下にある、あの大きな青い水の集まり。船と呼ぶものが浮いている、あの青い水たまり。あれは〝海″と呼ぶのだと聞いた。紺碧の…というのは、水たまりの青い色の事?」
海京が大空に確かめる。
「ああ。そうだ。空の下のあのでっけえ青い水の集まりだ」
その説明に唖然とするばかりの男達の反応に大空が吹くように小さく笑う。何とも奇妙な不可解な答えに男達は思わず目を見合わせる。
海京は、まるで新しい事を覚えた子供のように嬉しそうに、大空を見て微笑んだ―――。
夜が深まり、一行は前頭代理の根城だったこの建物の表と裏口に一人づつ、森での野宿と同じように交替で見張りに立つ事を決め、ようやく眠りにつくことにした。
万が一、逃げ延びていた手下がいた場合の襲撃に備え、深夜になるまで様子を見たが手下が襲撃に来ることはなかった。それでも表は大空と大鷹、荻が交替で見張りにつき、大高と海京、九月は、裏口の見張りにつく事になった。
今一度、全ての窓や出入口の施錠を確認し、まずは大空と大高が、それぞれの場所で最初の見張りにつく事となった。
海京は、必ず見張りがいる一階の安全な一室で、男達は二階で眠る事にした。
静かで薄暗い広い上がり口に腰を掛け、外の通りの音と気配に注意しつつ襲撃者から奪った細身の剣を鞘から抜いて調べてみる。
窓から射し込む月明かりに刃を翳して確かめる。鋭い光が青白い光を反射させ、刃先に向かって流れ動く。
傍らに置いた鞘を持ち上げ、月明かりで照らしてみる。洒落た細身の黒鞘には小さな宝石が幾つも埋め込まれ豪華な貝細工が施されている。指先で刃に触れる。鋭く研がれ、薄いのに鍛えられた丈夫な剣。柄には朱色の房飾り。それは、海京の長靴を飾る朱色の房と同じ色。
見事な剣だったが、身分の高い貴族から奪った盗品の可能性が高かった。市場で売り、金に替えるのが無難と思えた。それで得た金で別の剣を手に入れる事にする。盗まれた品を持っているのは、思わぬトラブルの元でしかない。そうなる前に手放すべきだと考えた。
これ以上、この先の旅を丸腰のまま武器も持たず続けるのは不可能だった。
(明日この剣を売り払い、自分に合った剣を手に入れよう)
もう二度と持たないと誓った剣。
その気になれば武具なら何でも扱える。大空や大鷹程ではないが、刀も弓も使える上、槍の訓練も受けていた。どんな武器も扱えるよう様々な国のあらゆる武器で戦闘訓練を受けていた。中でも得意としているのは、剣術と体術だった。
剣を鞘に収めて脇に置き、空から射し込む月明かりを見上げた。
『生きて、戻って。初めて生きて戻る旅人になって。必ず、戻って』
香姫の優しい声が大高の胸に谺する。
(生きて、戻って…そして―――)
その先、自分は一体どうするのだろう。次にどこへ向かって行くのか。
海京の事を思う。
いつまでも共にいたい女。ずっと傍にいたい女。ずっと傍にいてほしい、誰よりも謎多き美しい女―――海京―――。
(君が、好きだ)
心の中に留める囁き。
もう二度と味わう事はないと思っていた切なさ、痛み、苦しみ、恋しさ。
どこまでも強く追い求める、人を愛し恋うる気持ち。
海京の事を大高は殆ど何も知らない。なのに、いつの間にか心に、深く大きく募る想い。
恋とは、一体何だろう。
不思議に思う。海京の何をこんなに求めているのか。どこがこんなに好きなのか。なぜ、これほどまで追い求める気持ちが生まれるのか。
募る想いが押し寄せる。
あの姿、名前を、心に脳裏に浮かべるだけで。
気づけば、見上げた窓から床に映る影へといつの間にか視線を落としていた。そしてまた気づけば、苦しい心痛い息を床の影に落としていた。
海京の姿が脳裏を過ぎる。抱きしめた体の温かさ。固く目を閉じ、心に浮かぶ思いを払う。触れて口づけて愛し合いたい。思った瞬間、自嘲の笑いをもらしてしまう。
「つまらない男だな。おれは」
苦笑混じりに呟いた。
「高…?」
背後からの声に瞬間、胸に大きく鼓動を響かせ焦って迷う。
振り返る事が出来ない。二人きりでの宿のように衝動に駆られてしまった時、自分を抑えられる自信がない。振り向けず、体を固くして目を閉じた。
「海京。来ない方がいい。来るな。自信がない。おれには、自分を抑えていられる自信がない。何もせずいられる自信がない。傍に来るな」
剣の鞘を握る手に力がこもる。目を閉じたまま心で願った。海京が部屋に戻る事を。
背後で海京が動く気配。大高の葛藤を簡単に無視し、海京はいともあっさりと大高の隣に腰掛けた。
あまりに簡単に近づかれ、意外なほど呆気なく心の葛藤が消え去った。それでもその姿に目を向けるのは避けた。床の影を見つめたまま無言で座り続けていた。二人とも無言で座っていた。
耐え兼ねて笑いをもらす。
「まだ見張りの交替には早い。眠れるうちにちゃんと寝ておいた方がいい」
海京が笑うように微かに息つく。
「高は何もしない。そうでしょう?」
その言葉に苦笑を返す。
「買いかぶり過ぎだ。君はおれを分かっていない。普通の男だ。あんまり近づかないでくれ。おれは空とは違う。あんなに紳士な男じゃない」
「それでもいい」
海京が笑う。困り果てて振り向く。
そこにいたのは、いつもの海京ではなかった。
いつかの夜の緑の双眸。月光に輝く深い艶やかな緑の髪。
何か思う前に手が伸び、思わず髪に触れていた。指で軽く前髪を揺らす。額の真ん中に赤い小さな花印が見えた。指先でそろそろと頭に触れ、そっと掌を当ててみた。
「きれいだな。きれいな色だ」
頬に触れ、親指で瞼を軽く撫でる。海京は目を閉じ、掌に頬を寄せてきた。そっと額に口づける。海京の額に額を当てる。
「何もしない。何もしないよ」
唇で髪に触れる。
「何も、しない」
何も、出来なくなった。何もしたくないと心から思った。
傷つけたくない。大事にしたいと心の底から思った途端、あさましい気持ちは吹き飛んだ。あれほどの葛藤が嘘のように今はやましい気持ちもなく、ただ純粋に海京を大切にしたいという、その思いしか浮かばなかった。
二人の間に置いていた剣を自分の後ろに置き直した。
海京が身を寄せてくる。細い肩を腕にくるむように抱き寄せる。海京が大高の肩に頭を寄せ、体に腕を回してきた。髪を撫でて窓を見上げる。月明かりの夜空に向かって微笑む。
「眠れないのか?何か不安な事でも?」
先行き不安な危険な旅をしているというのに馬鹿な質問をしたと思う。
「いっぱいある。高もいっぱいあるでしょう?」
海京が優しく笑うように答える。
「君ほどではない。…君や大空ほどではない」
海京はこれには何も答えない。
「高。昔話を信じる?伝説やお伽噺を本当にあった事かもしれないと思える人?」
奇妙に静かな声で問われる。
「話によるな。どんな話?」
海京が黙り込む。
「⋯⋯今は、いい。まだいい。また今度⋯」
「そうか。じゃあ、他の話をしてもいいかな?」
笑うような息づかいが聞こえる。
「なあに?」
「うん。さっき、言ってた事だ。海の話。不思議な事を言ってたろう?どういう意味かなと思って。空からの目って、何だ?」
海京がくすくす笑う。
「人間には龍と呼ばれている〝翠の神″の目を通して地上のものを見る事を言った。私は時々、聖域の外へ出て世界を見てみたくなると、大気に溶け込んでいる翠の神に心を合わせる。そうして、その目を通して空から色んなものを見てみる」
「へえ~。そんな事が出来るのか。楽しそうだな。いいな」
空を飛ぶ事が出来たらどんなに気分がいいだろう。
「空の青は空の色。海の青は高の色。でしょう?私の名前の”海”の字は、高の衣の青を思わせるもの。…空が教えてくれたのだけれど、面白い繋がりの三人」
「本当だ。へえー、面白いつながりだ」
笑って海京の髪に口づける。
「高。そろそろ見張りの交替。部屋に上がって眠ってもいい」
肩に頭を寄せる海京がどこか寂しそうな声で告げた。
「海京。おれは戦場に慣れた元兵士だ。ついこの間まで兵士だった。眠らずいるのは慣れている。平気だ。五日間、一睡もせず一日中立って過ごしたこともある。平気なんだ。もしかしたら、眠れないのかもしれない。よく、分からないけど。一緒にいるよ。一緒にいては駄目か?駄目でもいい。一緒にいたいからここにいる。嫌ならおれから離れていい。ここにいさせてくれ」
「ここに、いさせてあげる。いてもいい」
海京が嬉しそうに笑う。肩に回した腕に少しだけ力を込めてみた。体に回される細い腕の温かさに目を閉じる。
愛おしい、暖かさ───。
「愛してる…」
意識せず思わず言葉が出ていた。
自分でも驚く。そして、瞬間、奇妙な気持ちが込み上げた。
いつだったか、ずっと以前、誰かに言った。どこかで――誰かに――。
言った覚えのない言葉。生まれて初めて、誰にも一度も言ったことがない。けれど確かに、誰かに告げた。いつかどこかで―――。
相手は、海京であってそうではない女⋯⋯。
説明し難い不可解な感覚。
自嘲気味に笑い、振り払う。回されていた細い腕がそろそろと離れ、海京がゆっくり見上げてくる。困惑の気持ちを隠せない顔。だが、その困惑をどうにか隠そうとしている顔。その目を、ただ見下ろす。
深い緑の双眸が何かを訴えている気がした。
「海京?今、何か感じ取った…か?」
無言のままの海京を見下ろす。その目に涙が浮かぶのを見る。
「もう一度、言ってみて。高」
涙目を見ながら浮かぶ思いを声にする。
「……愛してる。海京…愛してる」
緑の瞳から落ちる涙。指先で拭う。
―――愛してる。
いつかどこかで、囁いた。
囁き口づけ、抱きしめた。
そんな記憶が微かにある。そんな気が、する。
いつかどこかで――誰かに――否、それは確かに海京だ。
奇妙な気持ちを抱えたまま、そろそろと顔を近づけ、海京の唇に口づける。不可解な思いを確かめるように暖かく優しい唇に不思議な思いで口づけた。
何かは分からない奇妙な気持ちが心の中にこだまし続ける。この気持ちは、初めて知ったものではないと何かが心に囁き続けた。
その後、九月が見張りに起きてくる頃、どちらからともなく離れて座り、九月と見張りを交替した。海京はそのまま一階で、大高は二階で眠りにつくも奇妙な気持ちが消せないまま、とにかく何とか目を閉じた。そのまま、眠れないまま夜が明けた。
翌朝―――。
夢蘭の代理潜伏先であった建物内に九月が集めた三百人ほどが一斉に介した。
九月は、集まった者達に大空を新しい頭として紹介し、顔と身なりを覚えさせた。
そこにいた者達の中に大空に不満を見せる者はいなかった。九月は大空に許可を得て、集まった者達の中から信頼できて腕が立つ男を新しい代理に任命した。若く優しそうな男だったが、不正を許すことなどなく、皆を統率できそうな男だった。
年の頃は、二十三という若さだが、落ちついた雰囲気の好青年。
九月は、新しい代理に前代理から回収した夢蘭の頭代理の印と房、護衛の房飾りを手渡した。
一行が弦星を目指すと知り、新しい頭代理は、大空達が戻る日まで夢蘭の裏世界の規律を正すと約束し、大空に、そして、九月に改めて忠誠を誓った。
それから半月ほど後、旅立ちの際、頭代理となった男は、一行の旅の安全を願いながら、香蘭の都の女代理がしたように大空の手に何かを手渡すのを見た。
生きて帰ると言い残し、一行はいよいよ、炎の国目指して旅立つこととなった。
隣国――炎《えん》の国境である関所の門を目指して歩く。夏真っ盛りの陽射しを避け、森の木陰を歩き進む。
廃村の空き家や森での野宿で七日程が過ぎた頃、また別の廃村に辿り着き、そこにきれいな空き家を見つけた。
この日は、そこで夜を明かす事とした。
周囲の森や川で採った山菜や魚、果物など久々の豪華な夕食後、大空が見張りに立つと言い、静かに部屋を後にした。
荻と大鷹が無言で互いに目を合わせ、九月も何も言うことなく大空が出て行った扉を見ていた。
海京が優しく手を握る。
見上げる心配気な目を見下ろし、頷いて笑顔で立ち上がる。九月も荻も大鷹も何も言わず部屋を出る大高を静かに見送った。
大空の様子がいつもと違うこと、皆、気づいていた。
この数日、大空はやけに静かだった。ほとんど誰とも言葉を交わさず一人黙々と歩いていた。誰も何も言わずにいたが、今日は特に様子がおかしいと皆、気づいた。
大空は、中庭に面した狭い小さな縁側であぐらをかいて座っており、そこで静かに星を見ていた。
縁側には、沐浴や入浴の時以外、眠る時さえ身につけている腰の剣帯が置かれてあった。その上に香蘭の都で手にした四つの木片が乗せてあった。大空の手によって一つに束ねられた四つの木片。それは、大空の故郷の家の柱を剥いだもの。
剣帯を中心に右側に黄房の弓と矢筒が置かれ、左側に剣を置いている。
「悪ぃな、兄ぃ。酒はねえけど…許せ。水はあるけどいらねえよなあ。母様がきっと、家で酒出してくれてるだろう。おれは何もねえけど、まあ、いいだろ…」
呟き、静かに星を見上げて微笑む大空《たいくう》。やがて、笑うように息を吐いた。
「何だよ、高。それで気配消したつもりか。まぁた邪魔しにきたのかよ。おまえはいつも、こういう時を嗅ぎつけて来るなあ。何だよ。何か用か」
言いつつ、その顔は星を見上げたまま。
「何の日、なんだ?その剣帯…三番目のお兄さんの物だったな。ひょっとして今日は…」
大空が諦めたように肩を落とし、廊下に立つ大高に涼しげな笑顔を向けてきた。大空が一息大きく笑い、中庭の花に目を向けた。
「そうだ…三の兄ぃの命日だ。三の兄ぃの喪が明ける。一年なんてあっという間だ。たった一年…それじゃ気持ちの整理なんてつかねえもんだ。気持ちの整理つかねえまま、父様達の死から今日で、とうとう三年経った。母様は今頃、一人っきりで泣いてるだろうな。可哀想だが、おれが里にいても変わらねえ。母様にしてやれる事、おれには何もねえんだ。母様はよお、絶対に、おれの前では泣かねえんだ。いつも一人でこっそり泣く。おれは傍にいても何もしてやれねえ。何も。あの村で皆にしてやれる事、おれには、何もねえんだ」
大空はいつになく寂しそうに、星を見ながら吐き出した。
「大空。何もしなくても、そこにいるだけで誰かの役に立つ時はある。おまえもそうだ。おまえの母様、おまえがいないのに気づき、心配してるんじゃないのか?」
寂しそうな大空の横顔が、予想に反して笑いをこぼす。面白そうに大空が肩を揺らして笑う。
「ただ一つの救いは、高…母様は、ちょっと抜けてるってことだ」
「はいっ…?」
思わず滑稽な呟きをもらす。縁側を進み、大空の隣に同じくあぐらをかいて座る。大空がまたおかしそうに笑う。
星を見上げる楽しそうな顔。
「母様は、よお…何てえか…鈍いんだ。きっとまだ、おれが村からいなくなった事さえ気づいていないと思うがな。また山賊討伐の依頼を受けて、ふらっと遠くに出かけたな、と…思ってるだろう。おれがいねえの大して気にしちゃいねえだろう」
涼しげに笑う横顔を呆気に取られて眺めてしまう。家族とは、そんなものか。家族のいない身には分からない。この思いを察したのか、大空がおかしそうに振り向いた。
「相当驚いてやがるがな…言っとくが、普通の家はこうじゃねえ、と思うぞ、多分な。言ったろ。すげえ母様だってよお。常識遥かに超えてんだ。とにかく何してもやたら凄え。その凄え所に父様はぞっこん惚れ込んだ…と、父様も村の皆も言っていた。だが、まあ、そもそも…おれの家族は皆、どっか変かもしれねえなあ。ま、おれは普通の家庭を知らねえから、その辺はどうも分かんねえがなあ」
三の兄の形見の剣帯に目を向ける。
「空の、その性格の理由。何となく理解できた気がする。なるほど…」
「おぉい、何だそれ。失敬な。おれは母様達とはまるで違う。おまえは知らねえだろうがなあ。おれは…あんなじゃ、ねえっ!おれが家族の中で、一番、マトモだ!」
ムキになるその姿に心からの苦笑を返していた。
「いや…。とてもそうは思えない。悪い。無理だ。納得できない」
「うっせえ!納得しやがれ!失敬な野郎だっ」
笑って夜空を仰ぐ。心なしか星が滲んで大きく見えていた。
大空も共に空を見上げる。
「兄ぃ達に会いてえなあ。おまえを会わせてやりたかった。おれの仲間見たら、父様褒めてくれたろうな。父様はいつも言っていた。いい仲間、家族…いい人間が傍にいると気づいたら、そいつら皆、宝だと思え。父様は、ガキの頃から兄ぃ達やおれにそう言っていた。そして、いい人間に巡り会えたと思ったら、何よりも″自分″を最高の宝だと思えってよ。仲間大事にするのと同じくれえ自分を大事にするんだって…。そうでなきゃ、本当の意味で人を護れる人間になれねえ。父様はいつもそう言ってた」
大空が溜め息つく。
「けどよお、それ難しい。おれにはまだ出来ねえ。よく分からねえ。おれはまだまだ未熟な人間だからよお、いつもどっちか一つしか大事に出来ねえ。いつになったら父様超えるデケエ男になれるかなあ」
思わず苦笑を向けていた。
「冗談だろう…?それ以上、まだ大きい男になるのか?手に負えない人間になる。空の妻になる女は、本当にさぞかし苦労するな。気の毒だ…」
「何だてめえ。ケンカ売りに来てんのか!もうあっち行け!」
今夜は確かに言いたい放題言っている。星を見上げて笑う。
「空」
大空の前に置かれてある剣帯を見ながら呼んでいた。
「ああっ?何だ?まだ何か言い足りねえか」
大空のふて腐れた声に笑い返す。
「おれは空より一つ年上だが、兄様達より年若い。おれは空を同じ年の友のように思っているが…でも今は、年上の兄として、空の兄様達の代わりに…おまえに一つ言わせてくれ。兄様達もきっと、今の空に言いたいだろうと思う事だ」
大空が笑うように息を吐く。
「へえ~。いいぜー。言わせてやるよ。何だ?」
笑顔で俯き、すぐに顔を上げる。
大空の兄達の代わりに、父様の代わりに言う。泣きたくなるのを何とか堪えて――。
「大空。おまえは、いい男で、いい人間だ。おまえならきっと、うまくやれる。何でもきっと、うまくやれる。きっとだ。だから、必ず、生きて帰れ。いつも元気に、大いに笑え」
涙を堪えて何とか続ける。
大空の父や兄達の代わりに伝えるつもりで。
「おまえは最高の弟で、おまえは最高の息子だ。母様の為に生きて帰れ」
涙があふれそうになる。
「……きっと…おまえの兄様達はそう言ってる。三の兄様は今夜おまえに、きっとそう言いたいに違いない。空の父様は今のおまえを見て、きっと褒めてる。空。おまえを見てると、父様や兄様達の人柄が分かる。それこそが兄様や父様への空の最高の贈り物だ。そんな息子や弟を自慢に思わない家族はいない。母様の為に、父様や兄様達の為に、おまえは、生きて帰らなきゃ、な。生きて必ず、帰るんだ」
大空が微かに肩を揺らし、声を押し殺して笑う様子。
「高。おまえは最高のダチにして、これ以上ねえくれえ最高の仲間だ。たまにはいい事言うんだなあ。そのいい事、海京に向かってもっと言え。おまえ、男には最高に気が利くが、女にはさっぱり駄目みてえだ。その顔、そのナリ、女落とすのにさっぱり役に立ってねえな。いい男なのに惜しいなあ。勿体ねえ…宝の持ち腐れというやつだ。そのままじゃおまえ、モテねえ男よりモテねえぞ」
「はは…。そう、きたか」
苦笑しながら頭を掻く。返す言葉が見つからない。
「もう寝ろ。高。おれはこのまま見張りにつく。海京の傍に戻ってやれ。皆もとっとと早く寝ろー。いつまで聞き耳たててやがる。まったく…どいつもこいつも、もっとうまく気配隠せー」
障子の向こうで荻達が聞き耳たてている事、大空はやはり、難なく見抜き、呆れて愚痴をこぼすように告げるが、その顔はどこか嬉しそうだった。
大高は笑って立ち上がる。大空を一人にしてやるべく静かに部屋へ戻ることにする。
部屋に戻ると荻達は眠ったふりをしていたが、大鷹だけは隠し切れず、鼻を啜って微かに嗚咽をもらしていた。
海京は壁際で膝を抱えて座っていた。ずっと大高の帰りを待っていたのだろう。笑顔で近づき、隣に座って肩を抱く。海京が静かに肩に頭を寄せてくる。
大鷹は泣き疲れて眠った様子。海京の頭に口づけ、自分も頭を寄せて目を閉じた。見張りの時間までのしばしの時、短い眠りにつく事にする。
一時間後に目を覚まし、海京からそっと離れようとしたが、海京も共に目を覚まし、二人で見張りに向かうことにした。
二人の姿を見た途端、大空はにやりと笑いを残し、無言で障子の向こうへ消えた。形見の剣帯は、すでに腰に巻かれていた。
九月の見張りの時間まで二人で並んで縁側に座り、何話すでもなく静かに星を眺めた。
何気に床に視線を落とす。大空が兄の形見の剣帯を置いていた所。
脳裏に浮かぶ、大空の寂し気な背中。横顔。
明るく豪快な姿の裏にいつも隠されている思い。
寂しく哀しい気持ちが込み上げ、隣に座る海京の肩を抱き寄せた。頭に口づけ、夜空を見上げる。
海京の為に、大空の為に、大高が出来る事は何だろう。
降るような星をぼんやり眺め、見張りの間中考え続けた。これといって答えのないまま、とうとう静かに朝を迎えた。
一行は、いよいよ、蘭秋最後の都・夢蘭を抜け、未知の国、炎の国の門を潜った―――。
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